3.闇喰いの溝
轟音がしていた。
何度も叩き落とされるような衝撃に、意識が遠退きかける。
全ての感覚が細切れになり、何も解らなくなりかけた時だった。
──ふっと、白みかけた視界に一瞬にして色が戻る。
その一時、全ての音が途切れ。
森が途切れ、大きく頭上に広がっている空の青が鮮明に目に飛び込んでくる。
──めりめり、と不気味な音が響いた。
視覚に続いて、戻った聴覚。
その音が、地面に這いつくばるように俯せに倒れた、自身の耳のすぐ傍で上がっている事に気付いた刹那。
「── ジレン!」
叫ぶように、名を呼ぶ声が聞こえた。
それと同時、腹を蹴り上げられるような重い衝撃にジレンは目を剥いた。
暗緑色の塊のような大きな影が、ジレンの元へ飛び込んでくると勢いに捲き込み、地面の上からジレンの身体を浚っていた。
再び、地面に転がり落とされた瞬間に、潰れた呼気を吐く。
「──…… がはっ……!」
その場に踞り、咳き込むジレンの肩を掴み、更に引き摺ろうとする手があった。
ウドクだ。
暗緑色の外套を翻し、だが、その上に載る狼の異形は、普段の静かな面差しを失っている。
驚愕に大きく見開かれた目と叫ぶ真っ赤な口腔が、ジレンの頭上にあった。
「動け! 逃げるぞ!」
ウドクに引かれるまま、よろめきながらも走り出す。
そして、走りながらようやくジレンは何が起きたのかをその目に悟った。
地面が、砕けていた。
おそらく、そこはほんの今しがたまでジレンが倒れていた場所だ。
堅い地表が割れ、盛り上がった亀裂が石柱のように連なるその中心。
蠢く黒い表皮が覗いている。
「── な……なんだ、あれ?!」
思わず口走る。
そのジレンの肩をウドクが、ぐいと引き込み、木の陰へと走り込む。
巨木の裏へと回り、乱れた息をひそめる。
「……解らん」
ウドクが応える。
その呼吸は、ジレンとは異なり乱れては居ない。
ただ、間近にある腕が微かに震えているのが解る。
ジレンは、未だ視界がふらつく感覚を覚えていた。
身体のあちこちにも鈍い痛みがある。
だが、怪我らしい怪我はしていない。
口の中が切れたのか、鉄臭い血の味が鼻に抜けるのを感じていたが、一先ずは、自身の無事は確認出来た。
自身の身体をまさぐるように手をあちこちに這わせる。
肩に下げていた荷物は無事だった。
背中に手を回せば、無惨に折れた弓の裂け目の感触に気付く。
頭を振り目眩がしそうなのを堪え。
呼吸を整えていると、ウドクが低い声を落とした。
「馬を喰われた」
「……なんだと?」
「地面を割って襲ってきた。間に合わなかった」
ウドクの声は、まるでいつもと変わらないかのように静かだった。
だが、その声尻が掠れ、身体の震えを微かに伝えている。
大きく開いた黒い目、真っ直ぐに前を向き、時折ぴくぴくと小刻みに動く耳。
動揺し、緊迫している。
ジレンは息をひそめたまま、巨木の陰から、辺りの様子を見回す。
ドールの姿が、見当たらなかった。
「あいつは? ドールは」
「解らん。お前と馬に気をとられていた」
「やられたのか?」
「解らない」
「……あれ何なんだ。あれ……、あれが闇喰いなのか?」
ジレンの、独り言にも問い掛けにも聞こえる言葉に、ウドクは何も応えなかった。
二人の視線が“それ”へと向けられる。
先程、その場から逃げる瞬間に目にした“それ”は、まるで生きて蠢く大木のように見えた。
だが正視した今、それは違ったと悟る。
──ミミズだ。
ぬらりと光る、表皮のない赤黒い身体。
体毛や手足、そして、目鼻すら確認出来ないその姿形は、紛れもなくミミズだった。
うねうねと蠕動しながら、直立を保つ巨大な身体が時折激しく揺れる。
その先端、折れた枝が突き刺さっているかのように垂れていた──と見えたが。
枝のように見えたのは、馬の片脚だった。
既に力なく下がるだけのそれが、見る間に赤黒い身体の中へ飲み込まれていく。
やがて、完全に馬を飲み下すと、巨大ミミズの化け物は、蠢きながら身体を地面の上に横たえた。
「……馬一頭、丸飲みかよ」
ジレンは、低く呟いた。
ウドクは、やはり何も応えない。
瞬きすらせずに、目の前の光景を凝視している。
間近に伝わってくる、身体の微かな震えが、驚愕や脅えだけから来る物では無いことをジレンは悟る。
ジレンは、ウドクの腕を掴んだ。
「逃げよう」
言って、腕を引こうとするがウドクはその場に杭打たれたように動かない。
それに気付き、ジレンが引く手を緩めると、ウドクが言った。
「ドールは、どうする」
「どうなったか解らないんだろ。ほっとけ。もたもたしてたら、今度はこっちに来るぞ」
「だが、見捨てていいのか」
「もう死んでるかも知れないだろ」
「だが──」
抗うウドクの言葉を、ジレンは低い声で遮った。
「──おい。いい加減にしろ。ここは、バロウィケンじゃないんだぞ。誰が死のうと構うな」
ウドクが、ジレンを見た。
酷く驚いたような、大きな黒い目がジレンを見詰める。
一瞬、その目が無慈悲な今の言葉を責めているのかと思った。
だが、違う。
ウドクがどう思ったのかまでは知れる訳も無いが、否定する非難の目でないことだけは解る。
ジレンは、その目に続けて告げた。
「いいか? これだけは守れ。余計な事はするな。お前自身や俺が危ない目に合うような真似は止めろ。……いいな? 俺は、俺とお前以外はどうなろうと知らん」
「……」
ジレンの言葉を受けて、ウドクは暫く黙っていた。