センパイ
深夜二時を回ったころだ。
俺は残業があるため、会社の近くのコンビニに夜食であるおにぎりとウーロン茶を買いに行っていた。確か、一時過ぎまではオフィスの中に同僚の吉川がいたのだが、あの薄情者め、俺を残して帰ってしまった。
だが、俺の仕事ももうすぐ終わる。三時を回る帰宅になるだろうが、特に苦には感じなかった。それが会社員である。今回の残業も、本来ならば別の社員がやるべき仕事だったらしいのが俺に回ってきた。しかし、それが社畜である。
静かな機械音を立てる自動ドアをくぐると、ふだん目も止めないようなオフィスの端に人影が見えた。流石に寒気を覚えて、目に力を込めながら瞳だけをゆっくり動かした。
しかし、見てみれば大したことはない。俺より二つ年上の毛利センパイがいただけだ。
「あれ、センパイってまだいましたっけ?」
「”いましたっけ”って何だ。……はは、影が薄いってか?」
センパイはPCの目が痛くなる画面に向かうわけでもなく、小難しいコピー用紙とにらめっこをするわけでもなく、手紙のようなものを書いていた。
「……センパイ、その手紙、誰に送るんです? 娘さんですか?」
センパイの鉛筆の手が止まり、そしてその鉛筆は手紙の上をころころと転がった。
センパイは伸びをしながらあくびをし、オフィスチェアを90°回転させて俺と向かい合った。
「……おい、小早川。お前にだけは言うぞ?」
「は、はい」
「三ツ矢産業の中でも、特に長い付き合いのお前だから、言うんだぞ……?」
「……はい」
「後輩の中でも、特に可愛がっていたお前だから……」
「センパイ、いいから早く言ってください」
先輩は俺にグッドサインをつきだし「ナイスつっこみ」と笑う。どうにも掴みどころのない男だ。
「これはな、辞表だ」
先輩からその言葉を聞き、俺は思わず目を丸くした。その様子はさながら、夜なかになく梟のようだっただろう。
「じ、辞表ですか……? なんで今さら……」
「教えてやるよ。ここの会社はな、中々恐ろしいことやってんだ。……いわゆる「裏金」ってやつだ」
その話ならば、幾度か吉川から聞かされていた。センパイが大内部長のことを嫌っていたのがその理由だと、吉家は話してくれた。
そこで俺はふと、自分の仕事がまだ残っていたことを思い出す。あわてて自分のデスクを見ると、消していったはずのPCの電源が明々と点いている。
思わず疑問符のような声をあげて画面を覗き込むと、俺がやるはずだった仕事がすでに終わっていた。
「ああ、お前の残業片付けといてやったぞ」
先輩は辞表に書くための文に悩みながらこちらを見ずにそう言う。目を丸くしてそのファイルを見れば、確かに自分が大内部長から押しつけられた資料の作成が終わっていた。
「す、すみません。センパイに手伝わせてしまって……」
「なに、いいってことよ。お前昨日まで熱出してたんだろ? 病み上がりのお前に、あのナマズ顔の部長も酷なことするよな」
「そうですよね、あのナマズ顔……」
しかし、ふと気づけば俺はこのオフィスにいる意味はなくなった。ならばさっさと帰りたい。コンビニの白いナイロン袋を左手に下げ、PCの電源を落として黒いカバンにづかづかと荷物を押し込んだ。
「あ、センパイ。それではお疲れさまでした」
そう言って帰ろうとした俺の腕を、先輩がガシリと掴んだ。振り向くと、幽霊でも出たかのような青い顔をして汗を流している。
「ま、待てよ……。先輩の俺を置いて、なに帰ろうとしてんだよ……」
「い、いえ。センパイが僕の仕事をやってくれましたし、もうここにいる必要ないですから」
俺がそういうと、センパイはため息をついて俺を自分のデスクの隣のオフィスチェアに腰かけさせた。
「あのな、確かお前って一週間ぐらい休んだよな」
「はい、”新型インフル”ってやつでして」
「そうそう、吉川のやつから聞いたよ。悪いな、見舞の一つもしてやれねえ先輩でよ」
センパイが申し訳なさそうに足をぶらぶらとさせながら床の方を見つめだしたので、俺はあわててフォローの一つをすべく、あわただしく口を開いた。
「で、でも結果オーライですよ。僕のトモダチ、見舞に来たおかげで感染されたみたいで……」
「いやいや、俺は感染されるような体じゃねえからよ」
確かに、センパイが熱で休んだことなんて見たことがなかった。改めて、センパイの超合金のような健康な肉体に感心してしまった。相変わらず、俺がコンビニに行って帰ってくる間に仕事を終わらせて、しかも健康なセンパイ。まるで無敵の要塞みたいだ。
無駄に感心していると、センパイが本来の話題を話そうと俺の肩を揺さぶっていたことに気付かなかった。はっと前を見ると、思い切りセンパイに睨まれている。
「……すいません」
「うん、そうだよな」
そう言ってセンパイは再び辞表に向かいながら、俺が休んだ時の話を聞かせてくれた。
「あのな、前々からこのオフィス「やばい」って話があったんだ。ほら、秘書課の安国さんっているだろ?」
「あ、恵さん」
「あれ、お前知り合いだったのか」
知り合いも何も、彼女だ。
俺と恵には共通点があり、そこから意気投合して今に至る。だが恵は「周りに公表するのは待ってくれ」とのことなので、こればかりはセンパイにも言えない。
「で、なんと……!」
すみませんセンパイ。センパイがためて言おうとしてること知ってます。
「あの、安国さんってさ……!」
はい、その通り霊感があるんです。恵にも、俺にも。
「霊とかの類が見えるらしいんだよ!!」
知ってました。
しかし、周りに公表するのは待て、という恵の頼み。初めて聞いたようにふるまわねばなるまい。
「へ、へえ……。恵さんもそうだったんですか」
だが、突然センパイの目が犯人を割り出したホームズがごとき目になった。まさか、俺の挙動不審な態度から「二人が付き合っている」という仮説を生み出したとでもいうのか。
「おい、小早川……お前と恵ってさ」
「……はい、お考えの通りです」
「ま、マジかよ……!? 二人とも霊感あるんだ……!?」
そっちかよ。
「で、でさ、安国さん、二日目ぐらいに残業してたらしいんだけど、ちょうどこの部屋に、その日来なかった社員がいたんだとよ。その社員はさ、自分のデスクに向かって黙々と仕事をやってたらしくって安国さんも思わず「いたんですか?」って声かけたらしいんだ。……そしたら、そいつ煙みたいに消えちまったんだってよ」
「……その日来てなかった社員? 俺以外にも、欠勤してた人がいたんですか?」
「さあなぁ。俺だって別に社内のこと全部知っているわけじゃないし、その日は誰も来ていないような朝から大内部長に付き合わされて大変だったからな……」
なるほど、運悪く携帯電話を修理に出していた間に、そんなことがあったのか。恵は見える体質のくせに見た日は必ず連絡を入れるから分かりやすい。
しかし、そう思った俺の心に一本の杭が打ち込まれた。以前、携帯電話を会社に忘れてしまい、偶然にもその日恵が幽霊に遭遇したとき、恵は「携帯にかけたんだけど、つながらなかったから」と、わざわざ俺の家にかけてきた。
しかし、俺が熱を出していたとき、一度も恵から「幽霊を見た」などという連絡は来ていない。
「……それって、気のせいだったんじゃないですかね?」
仮にも、俺より頭のいい恵に限ってそんなことはないと思われるが、逆に連絡してこない方があり得ないと言っていい。
センパイはそれを聞くと、「そんなもんか」とつまらなさそうに笑った。そして、また何かに気づいたようにふとこちらを向く。
「小早川、お前霊感あるんだろ? ……今、ここに幽霊いるのか?」
霊感を持つ人間は、見るだけでなく幽霊の気配そのものを感じるので、もしこの場に本当に幽霊がいるのならば、俺はセンパイの話をぼんやり聞いていられるはずがない。
間違いなく、この部屋にいるのは俺とセンパイだけであった。
「いえ、別にいないですよ」
「本当か? ……実は霊感ないんじゃないのか」
「いえ、本当にいないですってば。では、失礼します」
帰ろうとした俺の腰に、センパイの腕が回り込んだ。
「だから待てって言ってんだろ! 何のためにこの話したと思ってるんだよ!!」
そう言えば、恵の話が出たのも、元はセンパイが俺が帰るのを止めたからだったのを今更ながら思い出した。しかし、何のために話したのか、というのは分からない。
申し訳ないが「何のため、でしょうか?」と首をかしげると、センパイは声を荒げた。
「あのな、俺だって怖いんだよ!!」
「……センパイ、僕はセンパイが怖がりなの知ってますけど、他の人に聞かれたらやばいですよそれ。センパイって結構「頼りになるセンパイ」って感じで通ってますから」
「ああ、いいのいいの。俺、別の支社に行くことになったからさ」
俺はぽかんと口をあけた。唐突なカミングアウトに、センパイが何を言っているのか理解するのに時間を食った。
「そ、それって……」
「ああ、世話になったな。……俺は別にそんなつもりないんだが、大内部長が勝手に話進めちゃってな」
何ということだ。あのナマズめ、いつも我慢していたけど今日という今日は我慢できないぞ。恵と一緒に呪ってやろうか。
「お、おいおいそんな怖い顔すんなよ。まあ、当分は会えなくなるってだけだ」
「センパイ……。俺、センパイのこと本当に尊敬してます」
「ど、どうしたんだ急に」
「センパイは入社してすぐの俺を色々と指導してくださいましたし、相談も乗ってくれましたし……。こんなことしか言えませんけど、せめてお別れの言葉に、と思いまして」
照れて下に向いていた目線を上にあげると、滝のように涙を流すセンパイの顔があった。
「こ、小早川……お、お前……! あ、あり、ありが……!!」
「ほ、ほらセンパイ、涙、涙」
センパイはワイシャツの袖で強引に涙をぬぐうと、俺の手を両手でがっしりと掴んだ。
「お前がそんなに俺を尊敬していてくれていたなんて、俺は幸せものだ……。今まで、色々すまなかったな」
謝られるようなことをされた覚えはない。しかし、センパイのこういうところもまた俺の好くところなのだ。
「……改めてさ、お前に「霊感なんかないんじゃないか」って言ったこと、謝るよ」
そこを謝ってきたか。
「は、はあ……。ありがとうございます」
「ふふ、でもな、俺はお前に霊感があるって、気づいてたんだぜ」
「またまたぁ、センパイってそういうところありますよね」
そう言って俺は笑うと、センパイは少し静かな笑みになって何も文字の書いていない辞表届けに目をやった。
「……いや、俺は今日お前に会ったときから気づいてたんだ」
「コンビニから帰ってきたときから、ですか……? も、もしかして、僕に何か憑いてますか!?」
センパイは首を振り、笑みの消えた顔でボソリとつぶやいた。
「俺が見えてるんだからな」
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ニュースの時間です。「三ツ矢産業」に勤める大内隆義さん50歳が、殺人の容疑で逮捕されました。大内容疑者は、裏金のことを暴露しようとした会社員、毛利本輝さん28歳を殺し、それを山に埋めた、ということです。
大内容疑者は「他の会社員には「毛利さんは他の支部へ行った」と連絡した」というようなことを話しており、欠勤でその場にいなかった社員以外は全員「毛利さんはいなくて当たり前」ということを思っていたそうです。
今回、逮捕の決め手となったのは、容疑者達と同じ職場に勤めていた小早川影元さんが告発文を提出したことで、小早川さんは「センパイが自分のPCに入れた告発文で全てが分かった」と話しております。
しかし「何故、被害者は自分のPCでなく、部下である小早川さんのPCにしたのか」という話も出ており、これはには容疑者が殺したことによっていなくなった被害者の分の仕事を小早川さんに押し付けたことから「毛利さんの幽霊が、自分の仕事を片付けると同時に告発した」とささやく声もでているそうです。