海崖の家
ウミネコが青い空に舞う、静かな崖の上。色とりどりの草花が咲く大地に佇む、白い私の家。開けっぱなしの窓からそよ吹く潮風が、読みかけの本のページをさらさらとめくる。波の寄せる音と返す音の心地よい子守歌に、私の頭は舟をこぐ。
アイスコーヒーの入ったグラスに浮かぶ氷が「カラン」と鳴って、私の瞼は僅かに逸れた。鳴りやまない子守歌が、離れがたい瞼の再会を許してくれたけれど、すっかり陽が昇っている様子だったので、私は起きることにした。しかし、こういう時の開放的な眠さには抗いがたい。起きると決めてからも、一人で子供のようにぐずる。潮風にひとしきりあやされた後、やっとのことで椅子から腰をあげると、視界に色が戻ってくる。のそのそとリビングへ向かい、壁の時計に目をやると、もう十一時だそうだ。
庭に出る。両腕を肩の高さまで大きく開いて思いっきり息を吸うと、体中が綺麗になった心地がする。それからめいっぱい伸びをして、だらんと腕の力を抜く。
「ストレッチ完了」
と一人で掛け声を発する。何を喋ろうが相手がいなかろうが、そもそも周りには誰もいないのだから、いいのだ。
私は昨年まで、東京の出版社に勤めていた。大学で、日々をただただ怠惰に過ごしてきた私だけれど、よく面倒を見てくれた先生の紹介で、何とか滑り込めた会社だった。事務の仕事を任されて入社二年が経ったころから、失敗が目立ってきた。単純な失敗の連続と人間関係で、私の精神は崩れかけていた。何度も何度も確認して、完璧に仕上げたつもりだったけれど、週に一回は必ず叱責を受ける日々が続いた。毎晩九時ごろに帰宅しては、その日の自分の不甲斐なさに、頭をかきむしった事もあった。これ以上他人に迷惑をかけたくはなかったし、この仕事は自分に向いていないのだと落とし前をつけ、入社三年で退職した。そして結果的に、先生の顔を潰すことになってしまったが、精神的に参っていたので、あれこれと考える余裕が無かった。
この時の後遺症は未だ癒えていない。携帯電話の着信があると、胸が締め付けられる。もう画面に上司や同僚や後輩の名前が表示されることはないのに、音や振動であの日々が鮮明に蘇る。
「この前のデータ、間違ってるじゃないか」
「あの伝票どうした?え?処理済みじゃねぇよ!今日までだぞ締切り!」
「先輩今どこにいるんですか?大変なんです!今すぐ戻っていただけますか!?」
瞬く間に、それは永遠にも感じられる空白が生まれる。少し経って、この家の白い壁が心を鎮めると、空白は海の波音に収束する。
この家は、両親がひいおじいちゃんから引き継いだ家らしい。何でも、この家を私にあてがって、両親はなんたらという物価の安い島国へ、揃って移住する予定だそうだ。少し寂しい気もするが、両親には両親の人生があるし、私には私の人生がある。しかも、こんな心地の良い家をくれるのだから、不満は感じない。何年も人が住んでいなかったからか、相当に埃っぽくかび臭かったけれど、仕事も無かったので、毎日念入りに隅々まで掃除をした。事務の仕事でなければ、こんなに張り切ってピカピカに仕上げる事が出来るのだと、感動すら覚えた。思わず、
「適材適所だよなぁ」
と溜息混じりに漏らした。会話の相手は、一本の柱だった。