ちょっと待って
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俺は犬を飼っている。
従順では無い、厄介な飼い犬を。
昼休み、トオチカは俺の居る教室に飛び込んで来たかと思うと、コンビニの袋の中からサンドイッチやおにぎりをばらばらと机の上に広げた。
「クロエ、どれ食べたい? クロエの好きなの買ってきたよ」
にこにこと笑顔を振りまく彼に出会ったのは高二の二学期だった。
親の都合で引っ越し、編入してきたのだ。
サラサラとした薄茶の髪に、白い肌が美しい。ややつり上がったまなじりにかかる柳眉や、丁度良く尖る鼻先はまるで物語の王子のようだった。
こんな田舎にそんな人物がくれば、当然のように女子は色めき立つ。けれど自己紹介を終えた遠近昴が一番最初に話し掛けたのは俺だった。
「席、隣なんだね。どうぞ宜しく。名前を教えてよ」
絵に描いたような微笑みで右手を差し出される。
彼の行動は注目を集め、クラス中の視線が注がれた。
美しいものに心惹かれるのは仕方の無い事で、俺も浮かされたように手を差し出す。
「宜しく。黒江慶崇です」
骨ばった指先は冷たかった。
俺の手が熱をもっていたのかも知れない。
放課後、校内を案内して欲しいと言われ、各教室をまわった。
その間遠近は、俺に兄弟はいるのか、好きな物は何か、では嫌いな物は、部活は入っているのか、と色々訊いてきた。
何故そんな事を訊くのだろうかとも思ったが、きっと沈黙が気まずいのだろうと思い直す。
それから数日、彼は俺と俺の友人達と行動するようになった。
穏やかで素直な性格、人当たりの良さも相まって、女子達は陰で遠近をそのまま“王子”と呼んでいる。
まさにその通りだと思った。
席が隣同士だというだけで、遠近はなんで平凡な俺と一緒にいるのだろうか。
もっと交友関係を広げれば良いのに。
けれど何かあった時、遠近は必ず一番初めに俺に伝えてくる。
芽生える優越感に、罪悪感がない交ぜになった。
「黒江、一緒に帰ろう」
「……良いけど」
いつものように、遠近に声を掛けられる。
俺は話し上手では無いから上手く話題を振れず、二人で無言のまま歩いていく。
「遠近」
「なに?」
名前を呼んだだけで、彼は微笑んで首を傾げた。
「いや、あのさ、なんで俺と一緒に居るの?」
問いかけると、遠近は数度瞬いてから悲しそうな顔をする。
「嫌だった?」
「そうじゃないけど。遠近ならもっと」
「もっと?」
「こんな平凡な奴じゃなくても」
「俺は黒江が良いんだよ」
「は?」
「俺は、黒江が良い」
弧を描く口唇。
夕陽が彼の背後を照らしていた。
恐らく、その日が境だったように思う。
今までも俺の隣に居る事が多かった遠近だが、それまで以上に俺に付きまとうようになった。
どこかにぶつかって痣や傷をつくろうものなら、異常な程心配されて保健室に引きずられる。
友達にまで「遠近はお前にべったりだけどどうしたのか」と訊かれるようになった。
どうしたのか。
そんなのは知らないし、俺の方が知りたい。
ある日俺が風邪をひいて学校を休むと、放課後、遠近は俺の家に顔を出した。
「黒江、大丈夫か?」
一日中布団で寝ていたから酷い顔をしていた。
半身を起こして彼を見ると、遠近は膝を寄せてくる。
「まだ熱下がらない?」
前髪を掻き上げて、綺麗な顔が近付く。
額を合わせられてコツリと音がした。
「心配、し過ぎだろ。お前、俺の事なんでそんな気にすんの」
ボーッとした頭でそう訊いた。
遠近の傾倒具合が少し恐くなっていた。
「風邪をひいたら心配するよ」
「そうじゃなくて。……お前、俺のなんなんだよ」
息が熱い。
体調が悪いと理由も無くイライラする。
こんな事訊かなければ良かった。
「……俺は、黒江の犬になりたい」
「は、なにそれ」
一気に血の気が引いた。
ふざけているようには見えない。
至極真面目な表情をしてとんでもない事を言っている。
犬ってなんだ。
頭痛が酷くなる。
遠近はいきなり俺の足元の布団をめくり、スウェットの裾もたくしあげた。
何をするのかと思えば、彼は紅い舌を俺のスネにべろりと這わせる。ぬめり気と熱さが気持ち悪い。
反射的に脚を引くと、足首を掴まれた。
どうにか離れたくて滅茶苦茶に身体を動かすと、踵が彼の頬にごつりと当たって指先が離れた。
「黒江」
「な、なんだよ」
うつむいた彼が前髪の隙間から、こちらをじっとりと見てくる。
そのままじわりじわりと距離を詰めてくるから、恐くて後退った。
けれど背中が壁にぶつかり、もう逃げ場が無い。
遠近は容赦無く傍に寄って来て、今度は俺の足先に口付ける。
かと思うと顔を上げ、顎を引く俺の口唇をまたべろりと舐めた。
「黒江」
名前を呼ばれるが、返事が出来ない。
何も言えない。
「愛してるよ黒江」
鼻先を頬に擦られた。
ふわりと良い匂いがする。
そんな事はどうでも良い。
「黒江?」
頬に手が掛かる。
上を向かせられた。
とろりとした眼をした遠近が俺を見つめている。
「……やめろ」
声が震えた。
「やめろって! もうお前帰れよ!」
恐怖と苛立ちで口をついてでた言葉は命令だった。
しまった。やってしまった。
遠近は嬉しそうに「ご命令とあらば。我慢するね」と微笑む。
そしてゆらりと立ち上がり、帰って行く。
何が起こったのか解らない。
口唇が痺れている。
なんでだ。遠近に舐められたからだ。
あいつはなんなんだ。
熱が下がったから、学校に行かなければならなくなった。
出来る事なら遠近と顔を合わせたくない。
顔を合わせるのが恐い。
歩き慣れた通学路にビクビクしている。
「クロエ!」
聞き慣れてしまった声に情けないくらいに肩が震える。
恐々振り返ると、遠近がこちらに走り寄って来ていた。
「良かった。熱は下がったの?」
頷くと、額に手を当てて「ほんとだ」と安心したように呟く。
知らず呼吸が荒くなる。
俺は、本当にこいつが恐い。
「遠近、お前、この間の」
「うん?」
「愛してるって、お前」
「うん。愛してるよ」
「何を。どこが!」
「いつもつまらなそうな所。でも、俺と話をする時は少し楽しそうだった。俺はこの人の特別なんじゃないかと思った。そういう所」
確かに、俺は遠近が好きだった。
人と付き合うのが苦手な俺には、人当たりの良いその性格は尊敬に値するものだった。
きっと憧れていたのだ。
「ごめんね。焦っちゃったみたいだ。ちゃんと我慢するから」
「……遠近と話して、嫌な奴なんてそうそう居ないだろ。女子なんか、皆目ぇキラキラさせて」
「俺が好きなのはクロエだよ」
「俺は……」
「俺、が、好きなだけだから」
「……じゃあこの間みたいな事すんなよ」
「そうだね。ごめんなさい。あんまり近付かないようにするね」
「じゃあね」と手をひらひらさせて、遠近は俺に背を向けた。
段々と遠ざかって行くから、大股で近付いて無意識にその背中を掴む。
「トオチカ」
名前を呼んでそれきり、何も言えなくなった。
言葉を口にすれば、涙まで零れそうだった。
「クロエ」
頬を手の平で包まれる。
「そんな可愛い顔しないでよ。どうしたら良いか解らないよ」
心底困り果てたように眉を寄せてため息をつかれた。
「なんでもっとゆっくりじゃ無かったんだよ」
非難するように言うと、ぼろりと涙が頬を伝ってトオチカの手を濡らす。
親指で何度か目尻を拭われたが追い付かず、遂には舌先で舐め取られた。
そのまま口唇は下がり、俺のそれと触れ合う。
「おっ前! 今自分なんて言ったんだよ!」
彼の胸を押し返すと、トオチカはふにゃふにゃと情けなく笑った。
「クロエ可愛い」
また距離を詰められ、首筋を舐められる。
「トオチカ、恐いって。お願いだから、ゆっくり……」
「うん」
とろけたような瞳は厄介だ。
こいつはなんでこんなに俺の事が好きなんだろう。
「いつかクロエはもっと俺を好きになるよ」
王子の微笑みでトオチカは俺の髪を撫でる。
「トオチカ……」
「ああ、クロエ。俺は君の犬だから、なんでも命令を言って」
近い将来、俺はトオチカとどうなるのだろう。