龍の夢
両手は、真っ赤な血で染まっていた。
手だけではなく、それは、全身を染めているようだった。
胸の奥で、鼓動はいつになく激しいリズムを刻んでいる。
滴り落ちる汗は酷く不快で、速い呼吸を繰り返している。
やらなければ。わたしは、遣り遂げなければ。
握られた斧は、切り裂いた肉の数に相応しいだけの血と脂にまみれ、強く握り締めたままの柄は、まるで自分の身体の一部ででもあるかのように、手のひらに張り付いて離れない。
目の前には、元は人だったものの残骸が無造作に転がっている。
男も女も関係なく、それは無差別に切り裂かれていた。
そう、これは、わたしが殺した。
手に持った斧で。
必死で、むしろ、祈るような気持ちで。
涙など零れない、これはわたしが望んでしたこと。後悔など、微塵もない。
肉塊と化した無数の屍を、わたしは半ば、誇らしげな気持ちで眺めていた。
やらなければ、いけなかったのだ。
たくさんの人を殺さなければ。
…けれど、それは何のために?
曖昧な記憶が、もどかしげに頭の中で答えを求めてぐるぐると回っている。
石を投げ込んで、乱れた水面に映る自分の姿を探すかのように、波立った記憶は求める答えを映さない。
わたしは、何を求めていた?
わたしは、何をしようとしていた?
わたしは…
と、その時、遥か上空から、誰かがわたしを呼ぶ声が聞こえた。
耳にではなく、それは頭に直接響いてきた。
とても深く、懐かしい響きで。
「おねえちゃん…」と。
わたしは空を見上げた。
蒼い空を覆う、白い雲の群れ。
その向うに、長くうねる青銅色に輝く何かを見たと思った瞬間、波立っていた記憶の水面が、鏡のようにクリアになってゆくのがわかった。
そうだ、わたしは妹のために、人の姿を捨てることに決めたのだ。
人の姿でうまれることの叶わなかった、大切な妹。
たった一人で生きて行かねばならないことを、生まれたその時に、決められてしまった、哀れな妹。
皆は言った。
龍神の生まれ変わりなのだと、だから、仕方が無いのだと。
そして、こうも言った。
人が龍神になるためには、たくさんの人の命を捧げなくてはいけないのだと。
だから、わたしは決めたのだ。
一人ぼっちでいる、妹の傍に行こうと。
なにを犠牲にしても。
「お姉ちゃん」
今度はもっとはっきりと、声はわたしの中に届いた。
それはまだ、酷く幼い声音。
ひとりでいるのは、辛かっただろう。
でも、もう、大丈夫。
「今、行くからね」
わたしは、軽く地面を蹴った。
するとどうだろう、身体は宙に浮き、風を切る勢いで空を飛べるではないか。
血にまみれていたはずの身体は、いまや、妹と変わらない姿に変身している。
ああ、これでやっと、妹とふたりで暮らしてゆける。
ずっと一緒だ。
青銅色の鱗を翻し、わたしは空を翔けた。
幸せな気持ちに充たされながら、自由な風を感じながら。
天高く、二匹の龍が空を行く。
もう二度と離れないと、身体を絡ませあいながら、天へ昇って行く。
血にまみれた地上を捨てて、遥か遠くへと。
小さなアパートの一室で、幼い姉妹が、ひっそりと冷たくなっていた。
母親が帰らなくなって、長く経つのだろう。その身体は、酷く痩せている。
妹の方が先に駄目になったのか、少しばかり腐敗が進んでいるようだった。
肩を寄せ合いながら蹲る二人の傍らに、安っぽい絵本が開かれたままになっていた。
何度も読んだのだろう、ボロボロになって取れかけたそのページには、青銅色の鱗を持つ美しい龍が、天へと昇って行く姿が描かれている。
綺麗だね。
空を飛べたら、どこにだって行けるね。
そうして、誰も気付いてくれない寂しい部屋から、少女たちは夢の世界へと旅立っていったのだろう。
もう、二度と離れないよ。
もう、苦しくなんかないよ。
もう、平気だよ。
ふたりは二匹の龍となって、幸せに天へと昇って行きました。
虐待によって死んでしまう子供たちのニュースを聞くたびに、色んな想いが積み重なって、書きました。
決して救いのある話ではありませんでしたが、最後まで読んでくださった方、ありがとうございました。