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箱庭の幸せ  作者: いさ
淵の底
9/10

Ein Bruder oder ein Elternteil

――主よ、あわれみたまえ――



【人物】

ノルン・アンシュッツ:牧師。十八歳。

ソレイユ・アンシュッツ:ノルンの甥。六歳。

アンドレ・カスティーユ:騎士隊長。ソレイユを引き取り使用人として養う。

 煙の臭いの漂う風が舞う空に不似合いなほど澄んだ月がぽかりと浮かんでいる。きれいだな、とやっぱりこの場にそぐわないことを思って、緊張で張り詰めていた胸の内がそっと凪いでいった。


「主よ……あわれみたまえ」


 幾度となく唱え、説き、それでも頼ることのできなかった神様へ。上っ面ばかりのこの祈りでしたけど、こんな愚かな男の願いにあなたが耳を傾けてくれるなら……不信心者に罰を、そして祈る者に救いを。どうかこの子を、愛してあげては下さいませんか。


 神への信心、というものについて問われたなら、僕は聖職にあるまじきことだがあまりありません、と言う他ない。

 信心があれば救われると説くのに、同じ神の子同士が傷つけあうのは何故ですか?死が救いだと言うなら、あの子を庇った母親の骸はどうしてあんなに悲しい顔をしていたのですか?

 養父から教えられた祈りの数々を、僕はどうしたって心の底から受け入れることができなかった。

 祈る者は救われる。そうだったらいいなという思いと、そんなはずがないという認識と。神というものが畏れ敬うべきものだった小さい頃の記憶が、養父の後を継いでからも意識の深いところで時折波を立て無心に祈り信じるということができないでいた。それでもその神を信じる人に拾われ、それまで救い主など知りもしなかった僕は、一体誰に助けられたのだろう。

 結局、僕は敬虔な聖職者の顔をして牧師を継いだ。養父に恩を返したいという思いと、何よりこの「出来そこない」に生きる勇気をくれた人たちとの思い出の詰まったこの家を他人の手に渡したくなかったからだ。そのために内心の矛盾に蓋をすることくらい、なんでもなかった。


 家族と一緒にいたい。

 ただ一緒にいたいだけなんだ。それ以上は望まない。


 随分昔に、弟が同じことを言っていた。

 物心つく前に既に親のいなかった僕らは二人して、家族に憧れる気持ちを抱いていたらしい。建前やら立場やらを取り払えば、僕が自己矛盾に目を瞑って無理をしてきた理由がこんなにも分かりやすく現れる。

 おれはいつか偉くなって、お前も姉さんも守るから、とあどけない顔に不似合いなぎらぎらした目をして息巻いていたあいつはどうしているだろうか。僕は故郷ではとっくに死んだことになっているはずだから、十年も前に死んだ兄貴のことなんて忘れてしまっているだろう。僕を覚えていなくても、二人が元気でいればいいと思う。


 愛しているから傍にいたい。離れたくない。それは僕だって同じだ。だからもがいて足掻いて、見栄を張って、折れそうになりながらも背筋を伸ばして頑張ってきた。


 けれど、僕にはそんな望みさえ許されないらしい。


 ぐらぐら揺れる視界に目眩を起こしながら僕は思わず苦笑していた。口の中は鉄錆の味がして、わき腹がひどく熱い。

 熱を感じる箇所からは眩しい銀色を赤く汚した剣が生えていて、それを握る甲冑の肩越しに、僕はぼんやりと月を見ていた。


「……残念だが貴殿の負けだ。あの童と共に、せめて苦しまぬよう送ってやろう」


 甲冑の向こうから聞こえた声は腹を裂く刃の冷酷さと裏腹にどこか憐れんでいるような響きを孕んでいた。声からして、きっとセルジュと同じくらいの男の人だ。身内のため命乞いをして力及ばず死んでいく敵国の牧師に情けをかけるような、きっと普段はとても優しい人。

 僕は仕方ない、けれどまだ小さいレイユだけは人並みに生きさせてやってくれと訴えた僕に剣を返して、彼に一太刀浴びせることができたらと条件を出してきたことからも分かる。敵方の曲がりなりにも指導者に武器と機会を与えるなんて、普通ならまずしないはずだから。

 人を斬ったことはおろか、殴り合いだってしたことがないのだけれど、そうするしかレイユが生きる道がないというなら、躊躇っている暇なんてないじゃないか。刺し貫かれた傷口から身体の内と外に血が染みていく感覚に、背筋が寒くなる。血が足りなくなって、もう痛いのか寒いのか、それとも眠いのか、だんだんと分からなくなっていく。

 このまま眠ってしまえば楽になるかな、とぼんやりと考えながら僕は重い手足を投げ出し甲冑の腕に縋るようにしてくず折れた。ざりっと煤と埃で汚れた髪が鎧の肘に擦れて音を立てる。硬い金属の下には当然だが、体温を持った人の身体がある。防具越しで素顔の見えない相手だからか、それとも殺戮の臭いをまとっているからか、僕はこの時改めてこの人も温度のある人間なのだと理解する。

 肘の、ちょうど鎧の切れ目の辺りに縋った僕の左手が触れている。そしてだらりと下がった右手には、まだどうにかこうにか折れた剣の柄を握っていた。息をしているのにヒューヒューと笛のような音が鳴るばかりで朦朧とした頭に、閃くものがあった。


 そうだ僕は


「――……まだ、生きてる……ッ!」


 あの子の未来を預かっているんだ。僕の痛みも嘆きも、ここでは何の役にも立たないんだ。神を恨む力が残っているなら最後まで足掻いて、そして、


 恨みや憎しみに、君の瞳が曇ることがないように。

 大好きな君には幸せな未来を。


 感覚のなくなりつつある右手を、左手と全身で抑え込んだ甲冑の隙間に突き立てると、ぶつっと布と皮膚を貫く嫌な感触と一緒に温い血が手を伝った。


 その後ソレイユがどうなったか、僕は知らない。

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