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箱庭の幸せ  作者: いさ
淵の底
6/10

Seite:Gespenst

十年、待った。待ち望んだ「彼」を、憎い人間どもからようやく取り戻すことが出来る。なのに、どこかで納得できていない「わたし」がいる。



【人物】

エターナ:ノルンに憑いている幽霊。

 ……赤い。

 燃え立つような夕暮れよりも赤く、痛いほどに熱くなった風をエターナは宿主の肌を通して感じていた。左手に子どもの小さな手を、右手に血濡れの剣を固く握り締め、限界などとうに超えている脚を必死で動かして雪のように火の粉が舞う下を駆け抜ける。略奪者たちが放つ殺気を避けながら、宿主の感覚に訴えかけ安全な方へと誘導する。

 恐らく彼は、エターナを認識できていない。十年に渡り彼女は灰色の髪の少年を傍らで見守り続けてきたが、どうやら彼はエターナが語りかける声のほんの一部をのみ、幻聴として聞いているようだった。しかし不思議なことに少年はまだ幼いころからその声の言うことを一度たりとて疑わなかった。破格級に人がいいのか、それとも声の主が己の絶対の味方であることを無意識に理解しているのか分からないが、エターナはその信頼を利用して甲冑の兵士たちの隙間を縫うように彼女は宿主を城壁の外へと導いた。


 「その時」が近いのだろう……。この十年いくら念じても願っても触れることのできなかった手が、この世に存在するはずのないエターナの生白い指を握っている。「その時」の訪れは物質的には存在しない身体が歓喜に震えるほどに待ちわびた瞬間であり、同時に最も忌んでいた瞬間でもあった。

 あまりにも短い、彼の人生が一度終わりを迎える、その前触れ。その時が訪れれば、今触れている性別に似つかわしくないほっそりとした手から温もりが失われ、この青年は彼女と同じく悠久の住人となる。

 深い淵の底に沈み、己の魂が溶けて薄まっていく感覚。漠然とした不安と虚無感が自我の流出を加速させ、いずれは大気と同化して消失するだけの、無為で停滞した磨滅の旅。一度は消滅しかけたエターナが道連れにと選んだ少年は、生前の彼女によく似ていた。

 全てを諦め、嘆く気力さえ失った無気力な瞳。身内に棄てられた憐れな子ども。拒絶され、手を伸ばすことを投げ出して、ただ流されるままこの苦界から解放される時を待っている。生きることが苦しくて仕方がない。他人が恐ろしい。けれど独りは、もっと辛い。

 自分とよく似通っていたから、気まぐれで誘いをかけたにすぎない。どうせ擦り切れていく魂なのだ。孤独な者同士、寄り添ったっていいだろう。そう思って手を伸ばしたのだから、宿主に家族ができようとエターナ歯牙にもかけなかった。彼女が見ていたのは常に宿主が寿命を終えた後で、着実に変化していく宿主の心身を見ようとはしなかったのだ。……そして今、幼子から青年に成長した宿主の目に出会った時の無気力な虚ろはない。終わりの時を間近にして、エターナが目にしたのは傷つき、嘆き、口の端が切れて血が滲むほどにきつく唇を噛み締めて、必死で生きようともがいている人間の姿だった。かつて彼女自身にも狂おしく求めたただ一人がいたように、宿主は自分だけならば簡単に投げ出してしまうだろう生の糸の端をしぶとく握りしめ、酷使した身体に鞭打ってどうにか生きようとしている。

 いつの間にか諦観以外の光を宿すようになった彼の瞳をもう少し見ていたいと思った。無慈悲に奪われる未来は変わらずとも、擦り切れるまでまだ少し時間がほしい。

 彼は苦しむだろう。悲しむだろう。化生の身となった自らを憎みさえするかもしれない。けれど万に一つ、あの柔らかい灰水色がわたしを見てくれたら。

 ただ隣で薄れていくだけではなく、笑ってくれたなら。



 試してみる価値は、あると思うのだ。

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