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箱庭の幸せ  作者: いさ
人食いの山
1/10

月の少女

【人物】

エターナ:山のヌシの眷属。幽霊。

ノルン・ニルセン:エターナと同じ村出身の子供。虚弱で、弟の代わりに山へ送られた。

 たすけてにいさま、と叫びたいのを何度堪えたか知れない。けれど巫女としてのわたしの立場はそれを決して許してくれなかった。

 今から途方もなく古い時代、顔も覚えていない両親を早くに亡くしわたしは追いやられるように巫女になった。この気味の悪いほどに色の抜けた髪と肌を怖れられ、親なしの娘が生きていくには養い親の世話になるか売りに出されるかで、そのどちらも拒否し、拒絶されたわたしは巫女になるほかなかった。結果村人から奇異と畏怖の目で見られることになり、孤独だったわたしは必死にお勤めに打ち込んだ。唯一の肉親である兄と僅かなプライドだけがわたしの支えだった。

 幼くして俗世から隔離され常に一人だったわたしを憐れんで、兄は本当によくしてくれた。わたしは心の底から兄が好きだったけれど、表に出すことは許されないことだった。それでもわたしは構わなかった。いずれ兄が村の誰かと結ばれることになっても、密かに兄を想いながらひっそりと生きていけるだろうと無知に思い込んでいた。


 わたしが十六になった年は天災の多い年で、村人たちは山神の怒りだと恐れ戦いた。いつからあるのかも判らない因習と迷信は根深く村人を縛っている。勿論わたしもその例に漏れなかったが、わたしが怖れたのはむしろその後に訪れる自分の運命を思ってだ。災厄を巻き起こして荒ぶる神を宥めるために、あの村では古くから人身供儀を行ってきた。

 わたしは、わたしを忌んだ村人のために神への供物として殺される。理不尽な死に憤るより、兄にもう会えなくなる恐怖の方が勝っていた。本当は縋りたかった。助けてと叫びたかった。しかし村のため、ひいては兄のためと言われては……わたしは巫女としての本分を全うするしかできなかった。

 儀式の晩、山へ連れて行かれるわたしを兄は悲痛な目で見ていた。悲しまないで、どうか幸せになってください。と、心の内で兄に呼びかけて、わたしは村の境界を越えた。

 険しい山脈の奥深く、人が立ち入れるぎりぎりのところまでお役目を授かった村の男に連れて行かれ、わたしは一人取り残された。誰も来ない、誰もわたしの声を聞かない泉の淵で三日三晩をしのいだ後、わたしは_人としてのわたしは_その生を終えた。


 山神に捧げられたわたしの魂は死に場所となった泉に縛られていた。痩せ細った自分の死体を泉に沈めて目に触れないようにして、わたしはそれからの日々をただ無為に過ごした。ここは静かで全てが冷たく停滞している。災いや人の目を怖れて震えていたのが酷く遠い昔に思えた。鏡のようにぴんと張った水面は、わたしが望めば世界のあらゆる所を映し出してくれたが、どうせ手の届かない虚像の世界だと思うとちっとも見たくはならなかった。

 ある時、一度だけ村の様子を見てみたことがある。兄が元気でいるかどうかが気にかかったからだ。そしてすっかり大人になった兄は……うっすらと見覚えのある顔の女と家庭を持っていた。

 わたしの望んだとおり_そう、わたしが望んだことなのに_ささやかながらも幸せそうな兄の姿を見てわたしは咄嗟に水面から像を消し去っていた。そして二度と外の世界を見ようとはしなかった。


 わたしが生きていた時代からどれくらい経ったのか、もう覚えていない。全てが水泡のように無意味なことに思えて、仕方がなかった。時折わたしと同じように供犠の者が送り込まれてくることはあったが、わたしを含め山神やその眷属は何をするわけでもない。人間たちの見当違いな風習で不幸になった者がどれだけいるのだろう。自分がそうなってみて初めて、わたしはそのことに気がついた。神と人は隔絶されていて、どれだけ人が祈ろうとも叫ぼうとも神は指一本動かしたりしないのだ。何もしてくれない神とそれを奉る人間。なんて馬鹿馬鹿しい。

 この森にはそうして眷属に取り込まれた人の霊魂が数多彷徨っている。その中で自らの落ち着く場所を見つけられなかった者や自分の形を忘れていく者たちから順番に「消えて」いく。形を保っていられなくなるのだ。わたしも、そうなることを望んだ。永遠にこの泉に囚われているくらいなら魂が四散して消えてしまった方がまだマシに思えた。


 そんな退廃的な時間は唐突に終りを迎えた。当時は酷く世が乱れて、外界から隔絶された地に棲むわたしでさえ世界に溢れる死の臭いの濃さに胸が悪くなったほどだ。また誰かが森に取り込まれに送られてくるだろう。既に輪郭の危うくなったわたしはぼんやりと霞む自我で漠然と思っていた。


『ねえ、お友達になりましょうよ』


 不毛なまでに澄み渡った泉の水面をおよそ数百年ぶりに揺らした子供に向かってわたしはそう笑いかけた。月の光の下では殆ど白に見える灰色の髪と血の気の失せた肌、そして絶望を映した暗い瞳。生きていた頃のわたしがそこにいた。その問いかけに、年齢に似合わない全てを諦めた者特有のとても静かな目をした少年はただひとつ首を縦に振った。

 一人では駄目だった。わたしの体はとうに朽ち果てて骨となって水底に沈んでいる。この子も一人ではここから抜け出せない。お互い独りではただ終りを待つだけだった。でも、今は二人。二人ならここを出て行ける。わたしの山神の眷属としての力とこの子の生身の器があれば。


『外の世界を見てみたくない?』


 再度尋ねると少年は不思議そうに首を傾げた。


『わたしと一緒に生きてくれるならアナタに生の苦痛に縛られない命をあげる』

「……一緒?」

『そう、一緒に』

「ぼくは……もう一人にはならない?」

『ならないわ。わたしが傍にいるから……どんな時も』


 虚ろだった少年の目に光が差した。痩せて枯れ枝のようになった手をとって。さあ、約束を。


『アナタの名前は……?』


***


 白い石造りの街を塩気を含んだ風が撫でていく。海に近いこの街に降り注ぐ陽は白く目眩がするほどに眩しい。隣で欄干に寄りかかり街を見下ろしている青年はどことなく嬉しそうだ。


『どうしたの?』


 尋ねる声に青年は夜明けの空の色をした目を眩しそうに細めて答えた。


「綺麗だなあって思ってたんだ。こんなに鮮やかな景色は久しぶりに見たよ」


 海と空のそれぞれ微妙に違う青と白い石の港町とそこかしこに生い茂る花や草のコントラストは確かにとても美しい。頭の上を数羽のカモメが羽ばたきながら過ぎ去った。


「これからしばらくはこの景色を堪能できるね」


 わたしたちはこの町から海岸沿いに伸びる街道を歩いて次の町を目指す。実に暢気なものだ。


『次は何処へ行くの』

「うーん……今度はこの海の向こうとか、どうだろう」

『どうって?』

「賛成? それとも反対?」

『いいんじゃない? アナタの行きたいところに行けばいい』

「放任だね」


 青年が言って苦笑しわたしはつんとそっぽを向く。昔はわたしが彼を守ってあげる立場だったのに、今ではこちらが子供扱いされているような気がしてならない。そんな些末なやりとりでさえも心地よくて、わたしは天を仰いだ。

 わたしと彼が眺めて育った灰色の曇天とは全く違う青く晴れ渡った空。旅を始めて随分経つけれど、未だに何もかもが目新しいと素直に感動できる彼は幼い子供のように無邪気だ。世界の全てを見尽くすまでにあとどれくらいかかるのか。世界中を見終えたら彼はどうするのか。そんな薄暗い思考をこの鮮やかな風景は潮風とともに彼方へと吹き飛ばしてくれる。

 港の上空で、カモメがなあと鳴いた。

モデルは民話の神隠し……だったはずです。

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