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テセラムのおかしな矮人《わいじん》

作者: 黒森牧夫

 テセラムに小さな村があって、ングラ=ヤアクとの国境、ペカンタ湖の向こうにはカガッサの山並みが見えるって在所なんだが、そこに変わった矮人が一人住んでいた。まぁ矮人なんてものはみんな多かれ少なかれ奇ッ体な連中なんだが、そいつはとにかく変わっていたんだ。何しろ、人間の娘に恋するなんてことを仕出かしたんだからな。

 どうしてそんなおかしなやつになっちまったのか、はっきりした原因についちゃ、誰にも心当たりがない。―――恐らく、本人にもよくわかっちゃいなかったろう。元々、小さい頃から仲間とも打ちとけず、矮人共の中でも特に陰気でむっつり黙り込んでいることの多いやつだったらしかった。

 本気でおかしくなり始めたのは、恐らく山ン中で薄ぼけた古い鏡を拾ってからだったんじゃなかろうか。それは何とも冴えない代物で、四隅の曇りは幾らこすっても落ちやしないし、一番映りのいい箇所でさえ、覗いたやつがあれ、今日は霧でも出ているのかと勘違いしようかってくらいぼやけていた。飾りっ気は全くなくて、縁もとっくの昔にどっかにいっちまったらしい。大方貧乏な百姓一家が夜逃げでもする時に落としていったか、さもなきゃ慌てた泥的のやつが落としていったもんだろうが、ともかく見るからにみすぼらしい代物だった。

 その矮人は、大して面白くもなさそうに仲間の子供の矮人達と遊んでいてはぐれっちまった時に、偶然その鏡を見付けたんだが、そいつはそれを目印となるようなおかしな形をした木の根元に木の葉を被せて隠しておいて、それで他のみんながねぐらへ帰っちまった後になってからこっそりそこへ戻って来て、それを自分のねぐらへ持ち帰ったんだ。

 その日からそいつは前にもまして付き合いが悪くなり、どこか他の連中の知らない秘密の場所で、ひとり座り込んで、何度もなんどもその鏡を覗き込んでは、ぶつぶつと何やら独り言を呟いたり、何かを凝っと考え込んだり、小さく溜め息を吐いて首を振ったりするようになった。毎日じゃあなかったが、しょっちゅうそんなことばかり繰り返していたもんで、そのうちエサの確保にも時々困ることが出て来た。

 で、そんなもんだからそいつの母親が―――まぁ矮人共の親子関係なんてもんは、本当はどうなってるものか分かったもんじゃないからな、多分自分がそいつの母親じゃなかろうか、と思い込んでいる牝のことなんだが、そいつが少しずつだが食べ物を運んでやったりしていたようなんだ。そいつはその食べ物を黙って食べていたんだが、やっぱり自分から食べ物を探しに出るようなことはどんどん少なくなっていった。  

 知っての通り矮人てのは畑を耕したりもしなけりゃ狩りをしたりもしない。普段は森の木の実や何かを集めたり動物の死骸を漁ったりしてるんだが、何と言っても一番のごちそうは人間の死体だ。どこかで死人でも出た日にゃあ、連中そりゃあもう大騒ぎさ。人間共の葬式のドンチャン騒ぎが一通り済んで、人気が絶えてしまうと、連中はこっそりその墓地へやって来て、まだ死体の肉が柔らかいうちに掘り起こして盗み去って行っちまうんだ。 ペカンタ湖の近くにまだ使われてる古い墓地があったんだが、そこいら一帯の矮人共は主にその墓地から盗って来た肉をごちそうにしていたんだ。

 ところが、ここでもまたその変わった矮人は変わっていてな、そいつは自分が人間の屍肉を漁ることを、ひどく恥ずかしいと思っていたんだ。そいつはどこからそんな考えを拾って来たのやら。何しろ、矮人共はそれを何千年も昔から当たり前のこととして続けて来たんだ。今更そのことについてどうこう考えようなどという気を起こす者なんぞ、いる筈がなかったし、村の人間たちにしたって、まぁもし人間が同じようなことをすりゃあ、口にするのも憚られるようないまわしいことと見做したには違いないが、しかし矮人共のやることにいちいちいいとか悪いとか道徳的な判断を下すような想像力のある者は一人としていはしなかったんだ。だから、そいつが、自分は屍肉喰らいだからといって、そのことをひどくいやしいこととかあさましいこととか考えるだけの理由は、世間様の中にゃあ全くありはしなかった。そんなことをする必要は全然なかったんだ。

 それなのにそいつは、自分が人間の屍肉を喰らうことにひどく後ろめたい感じを抱いちまってな、食うこと自体はやめなかったくせにとんだお笑い種なんだが、屍肉を食う時には出来るだけ自分ひとりで、みんなと一緒にではなく秘密の場所で誰にも見られないように食べようとするようになった。

 そんな訳で、そいつはますます一人っきりで行動するようになって、仲間からは孤立していった。まぁ、元々矮人共なんてのはそんなに連帯感の強い生き物じゃないんだがな、とにかくそいつはひとりでふらふらと人気のない場所をそゞろ歩いては、ぼうっとした表情で長いこと空を見詰めていたり、時々難しい顔ンなってぶつぶつ呟いたりしていたんだが、偶々他の矮人がそれを目にしたりすると、何ともおかしなやつだと思って、大抵はそれっきり忘れてしまったもんだ。

 そんな時だった、そいつが、その村の娘を見かけたのは。

 場所は墓場だ。矮人ってえと多くの人間が墓場を連想するかも知れんが、矮人ったって別に用がない時ゃあ墓場なんかに滅多に近寄りゃしない。空っぽの墓か、さもなきゃ腐っちまってるか骨だけになっちまったか、それともひどい病気を持ってるかで食えない状態になっちまった死体しか入っていない墓がズラリと並んだ場所になんて、余程の物好きでもなけりゃあわざわざ出向いて行ったりはしないもんだ。ところがそのおかしな矮人てのはその余程の物好きってやつだったもんで、時々誰も見ていない時に墓の間をそゞろ歩いたりしていたんだ。

 そんな或る時、そこへ人間の娘がやって来たんだ。一人でな。そいつは人間の姿が見えたもんだから、すぐさま近くの墓の陰に隠れた。その娘は手に花と、籠を持って、或る墓の前まで歩いて行って、その花と籠の中に入っていた何かをお供えした。その娘はそれきり何を喋るでもなく、何をするでもなく、暫く凝っと突っ立ったまゝだった。やがて娘は元来た道を引き返し、矮人はまだそゞろ歩きを再開した。

 その時はそいつの方でも、ちっとばかり邪魔が入った、くらいにしか思っていなかったんだが、偶然にも、それが二度、三度と重なるようになっていった。或る時矮人は娘が帰った後に何気なく、娘のいた墓の所まで足を向けてみた。墓には花の他に一枚の紙切れが置いてあった。近付いてよく見ると、それはどうやら手紙だった。何が書いてあるのか分かれば、少しは面白いことになっていたかも知れないんだが、生憎とそいつには字が読めなかった。で、そいつの中には少しずつ好奇心が芽を出し始めてはいたものの、そいつはそのまゝ、しばらくその墓の前でどうすることも出来ずに突っ立っていた。

 その次からそいつは、娘のことをもっとよく注意して見るようになった。人間の服装や仕種なんかは余り見たことがなかったので最初のうちはよく分からなかったんだが、何度もなんども熱心に見詰めているうちに、自分でも何となくその娘が行っているのは無意味な動作ではなくて、何か自分にはまだよく分からないが意味のある行為なのだと理解している気になってきた。

 墓の前に立つ娘の顔を、そいつはよく見るようになった。娘が何を見、何を考え、どんな感情を抱いているのか。

 娘は特別器量良しって訳じゃなかった。鼻筋はすらっときれいに整っていたし、大きなどんぐりのような両目がともすると沈みがちになる表情に不思議な魅力を与えていたしで、不細工かって言われるとそうじゃあないんだが、まぁ十人並みか、それより少しはましかといった程度に過ぎなかった。

 娘が実際に何を考えていたのかはまぁ今となっちゃ知りようがない。第一若い娘の考えることなんて、当人達にも大して分かっちゃいないもんだ。だがそいつはその娘の表情が何か複雑なもの、すっきりとまとまらない何か幾つもの複合体のようなものなんだなと、ぼんやりと感じ取るようになっていった。そいつが見詰めればみつめるほど、その娘は何か底深い神秘を内に秘め隠しているように見えてきたんだ。

 そいつは娘が来ると決まって墓の陰に隠れて、娘が立ち去るまで凝っとしていたんだが、そのうち最初の頃のように慌てたりはしなくなっていった。そいつは次第に、向こうから姿が見えないと分かっている時は物陰から顔を出して、音を立てないようにこっそりと覗き見するようになり、やがては全身をすっかり空の下にさらして、その娘のことを熱心に眺めるようになった。

 そうしてどんどん大胆になっていったのがいけなかったんだろう、或る日そいつは、その娘に姿を見られっちまった。曇りの日だからと少し油断していたのもあったんだろう、娘が不意にゆっくりと辺りを見回した時、そいつはとっさに身を隠すことができなかったんだ。娘はそいつの姿を視界の端っこにとらえると、ひっと一瞬身を固くしたが、そいつがすぐさま近くの墓石の陰に隠れた時のその慌てぶりがいささか間抜けに見えたもんで、それでほんのちょっぴり力を抜いたのは確かだ。だがそれでもやはりこんな人気のない墓場なんぞで若い娘さんがさっと身を隠す矮人を見かけたらすべきことは先ず決まってる、さっさと籠を持ってその場から逃げ出したのさ。

 それからしばらくは娘は顔を見せなかった。まぁ当然と言えば当然だが、ちょっとばかり怖じ気づいたものと見える。だが二度と来ないって訳じゃあなかった。月の姿が段々と欠けて、また同じになる頃には、娘は墓場に戻って来た。ほとぼりも冷めて、もう危険なことはないだろうと踏んだのか、それとも度胸を出して必死の思いでやって来たのか、そんなことはとにかく矮人の方ではどうでも良かった。何しろそれまでそいつは、自分の迂闊さを責めて拳を噛むばかりの後悔に彩られた生活を続けて来たんだから。

 そいつは今度は慎重に、二度と娘の前には姿を現すまいと決心してまた墓の陰に隠れていた。だが娘の方では、自分の背後に目には見えないけれど、こっちを見ている存在がいるってことにちゃあんと気付いてたんだな。初めの頃はいつ危害を加えられるかも知れないと覚悟を決めて内心はビクビクだったらしいんだが、何度か足を運ぶうちに、その視線には害意がない、ただこちらのことを凝っと見ているだけなんだということが、薄々その娘の方でも分かってきた。

 馴れっていうのは恐ろしいもんで、そのうち矮人の方でも、以前見付かってあんなに後悔したことなんぞ段々考えたりしなくなるようになり、次第にまた向こうから見られていないと思う時には、墓石の陰から姿を現すようになった。娘の方は娘の方で、遠く背後でそんな気配がするのを感じたとしても、もう怯えるでもなくすっかり平然と構えていた。

 初めて互いに顔を合わせたのも偶然によるものだった。その日その矮人はいつものようにぼおっと考えごとをしながらふらふら歩いていて、墓場の近くまでやって来たというのに、頭の中は他の何か得体の知れない空想共でいっぱいで、全然そんなことを気にしている余裕はなかった。そこへ、その娘がやって来ちまったんだ。どうやら気づかないうちにそいつは村から墓場へと通じる道を歩いていたらしくってな、いつものように花と籠を持ったその娘と正面からばったり出くわしちまったんだ。最初そいつはそのことに気が付かなかったんだが、状況が分かるととたんに慌てちまってな、急に頭の中が真っ白になっちまった。それでたゞ間抜けみたくそこに突っ立って口をぱくぱくさせたまゝ、莫迦みたくその娘のことを見上げていたんだ。娘の方は、最初はそりゃあ目をまん円くして驚いていたさ。何せこんな手を伸ばせば届きそうな近い所で矮人なんてものを見るのは生まれて初めてだったんだからな。でも多分、どうやら目の前にいるこいつが、いつも墓場で墓石の陰からこっそりこちらを見ているやつだと当たりを付けたんだろうな、すぐに気を取り直して、あろうことかその矮人ににこっと微笑みかけたんだ。その娘もやっぱり相当変わっていたんだな。そいつは最初何が起きているのかさっぱり分からず口をあうあうとさせているだけだったんだが、やがてそれが自分に向けられた笑顔なんだと分かると、途端に慌てふためいて、聞き取りにくい発音で、「ども、こんちは」とか何とか人間の言葉で何やらもぐもぐ言ってぺこりとお辞儀をした。何とも不様な初対面の挨拶もあったもんだが、そいつはもう何を考えていいのかさえ分からない状態で、娘が自分に何か話しかけていることさえ、ほとんど上の空で聞いていたんだ。だから娘が、一緒に行かない? と言ってきた時も、暫くはその耳に内容が入って行かなかった。娘はそれまでぽつりぽつりと極くとりとめのない挨拶をしていたんだが、相手に害意がないどころかおどおどびくびくしたたゞの小さな生き物なのだと分かると、すっかり安心してしまったらしいんだな。そいつは一も二もなくおずおずと頷き、墓場までの道をおっかなびっくり躯を丸めて一緒に歩いて行った。そして、娘が墓の前の供え物を取り替えてまた黙って立っている間、忠実な従僕のようにその傍でその様子を見守っていた。帰り際、娘は「じゃあ、またね」と言い残していったが、それすらもずっと、そいつはほとんど夢心地のまゝで聞いていた。そいつが、それはつまりあの娘ともう一度こうして会えるんだってことを意味するんだってことに思い至ったのは、それから随分時間が経っちまってからのことだった。

 その日寝床に入ってから、そいつはまるきり寝付けなかった。初めて見たあの娘の笑顔が頭の中をぐるぐる回って、その口から発せられた言葉が、その内容の方はさっぱり覚えていなかったにも関らわず、まるで高らかな鐘の音のようにそいつの耳の中でずっと谺していた。娘のほっそりした指のしぐさ、大きなどんぐりのような黒く湿ったひとみ、薄いくちびる、そうしたものがちらちらと目蓋の裏側にこびりついて、そいつが眠りに落ちようとすると何度も何度も邪魔をした。その日そいつは何か全く見知らぬものを手に入れたかのようだった。何か全く見覚えのない、恐ろしいもの、それでいて何かこう訳が分からないまゝに胸さわがせられるもの、それも妙に不快な感じとそのまゝ天上まで駆け上がっていけそうな不思議に高揚した感じ、そういうものが一緒になってごちゃごちゃとひといきに雪崩か洪水のように一気にそいつに襲いかかって来たようだった。そいつはひどく混乱し興奮したが、自分は何か全く別の世界に足を踏み入れてしまってもう引き返せはしないのだという自覚が、極くぼんやりとひっそりとではあったが、そいつの中には目覚めつつあった。自分は人間の娘と、今までずっとかけ離れた世界に住んでいた何か特別な存在と、今日会って話をして、また会おうという約束までもらったのだ、自分は今日から他の矮人共とは全く別の生き物になった、自分はもう矮人であって矮人ではないものに変化してしまったのだ、そんな想いが、不安と期待を否応なしに高め、煽り、いつまでもそいつを弄んだ。

 さて、一度言葉を交わしてしまうと、そいつと娘が仲良くなってゆくのにそれほど時間はかからなかった。と言っても、娘は数日おきに、時には十日以上も間を空けて墓場に来ていたので、一日いちにちと数えてゆけばそれなりに時間はかゝったんだろうが、少なくともそいつにとってはそれは正にアッという間の出来事だった。そいつは最初に出会った墓場へと通じる道を、毎日、特に念入りに重点的にうろつくようになった。娘が来なかった日には、それでもまだ名残り惜しそうに何度も振り返りながら他の場所へ移るのだが、娘がやって来るのを見かけた日には、すぐさまかけ足で、と言っても不恰好な矮人共の中でも、そいつはとくにぶかっこうな矮人だったから、あまり見ばえのする走り方じゃあなかったんだが、とにかくそいつは急いで娘の所へ馳せ参じ、短くもごもごと挨拶を交わした後、墓場までの道を一緒についてゆくのだった。最初の頃はそりゃあぎこちないもんで、何をすればいいのか、何を話せばいいのか分からずにちゞこまってなるべくばかなヘマをしないようにと、と言っても、自分がどんなヘマをしでかすかも知れないのか見当も付かなかったんだが、とにかくその娘に嫌われたり呆れられたりするようなことは決してするまいと心に誓って、おどおどと何をするにも遠慮していた。だが、二度三度と会う回を重ねるうち、世慣れないそいつの方でも段々と口数を増やすことを覚えていった。娘はよく自分の村でのことを話したりした。その話の内容そのものはそいつには大して面白くもないことの筈だった。だが他の者の口から語られた時にはおそろしく色褪せ、カサカサに乾いた灰色のモルタルを噛んでいるようにしか感じられないような話も、ひとたび娘の口から流れ出ると、それはまるで天上の音楽のように響いて、とても興味深い話のように思われてくるのだった。そいつの方ではそいつの方で、娘の話に合わせてうんうんと頷いたり感心したり驚いてみせたりした。それはなるべく娘の考えていることを知りたい、娘が生きているその世界の入って見てみたいという気持ちからの、半分必死で同情をさそう、でも半分滑稽な努力だった。確かにそいつは一生懸命娘の話についていこうとした。初めて「うへえ!」とイヤな顔をしてみせるのが上手くいった時なぞ、そいつはその日寝床に帰ってから感激のあまり涙をこぼしたほどだった。そのうちに、そいつの方でも自分の話が出来るようになっていった。だが、自分の仲間の矮人共のことについてはたゞ不愉快なだけなので何も語らず、代わりに、自分のそゞろ歩きで見たことを色々と話した。―――湖の向こうに大きな虹がかゝってどれだけうつくしかったかとか、秋の葉がかさかさと風に揺れる時の音が、まるで大地が奏でる音楽のように心地よかったとか、太陽は水気のあるものを干からびさせてしまうので残酷だとか、ペトムト山の山頂から見下ろした景色はまた格別だとか、そんなとりとめのないことを延々と話した。だが、そいつはそれまであまり他の矮人共としょっちゅう口をきいていた訳ではなかったし、それに人間の言葉もそれほどよく知っているわけではなかったので、そいつは概してまるで口下手で、頭の中にどんなすてきなものがいっぱい詰まっていようとも、いざ口を開いてそれを伝えようとすると、「あー」とか「うー」とか、まるで気の利かないどもりどもりのみっともない言葉しか出て来ないのだった。そいつはそのせいでくやしい思いを何度もした。使い慣れない頬や口の周りの筋肉をどうにか動かして微笑んでみせるということも覚えたし、娘の前ではなるべく愛想よくはしていたのだったが、そんな具合で上手くしゃべれなかった日なぞには、寝床の中でぎりぎりと歯ぎしりを繰り返すことがよくあった。そして自分のみじめな失敗を思い返しては、「あゝっ!」と情けない呻きを洩らしたりした。

 とにかく、順風満帆て訳にはいかなかったものの、そいつと娘とは互いに笑い合って気さくに話が出来るようになるまで仲良くなっていったんだ。

 そのうちにも、そいつは毎日まいにちそゞろ歩きながら、あの娘の優しい外見の下にはどんな美しい魂が隠されていることかとうっとりしてみたり、寝床の中で何度もなんどもその日に交わした娘との会話を思い出したりして、娘と実際に会っている時間よりも、娘についてあれこれを想いを巡らせている時間の方が何十倍何百倍も長いというくらいに、その娘に夢中になっていった。心の中で何度も何度も娘のことを思い返すうちに、想い描かれる娘の姿は何かどんどんと輝きを増してゆき、すべてのうつくしいものの中心、すべてのすばらしいものの中心に、娘のその神々しいまでのたおやかな姿を見出だすようになっていったんだ。娘は今や宇宙の中心からまばゆいばかりの光を放ち、恐ろしい神秘と、途方もない法悦とを、尽きせぬ泉のように溢れさせているのだった。これまでに見たことのあるあらゆるうつくしい風景は、全てが娘の栄光を讃えるために存在していたのであって、その圧倒的な力の前には、この地上のくだらないもの、いまわしいものの一切は、無条件でひれ伏すことになるのだった。そいつはもうその娘のことを女神か何かのように思っていた。自分が今までに見てきたどんなおぞましいもの、どんな下品なものからも遠く高く離れた所にいる、清らかな透明な光が人のかたちをとったもの、それこそがその娘なのであって、自分は偶々どういう訳だか知らないが、その超越的な玉座の近くでその姿を拝謁することを許された幸運な存在なのだと、そう確信していた。そいつはとにかくその娘に惹かれてどうしようもなくらいに目が眩んでいたんだ。

 そこまでのぼせちまった原因のひとつには、娘が、自分がお参りしている墓は誰のものなのか、そいつには決して語ろうとはしなかったこともあるだろう。そいつはそれがどうしてか自分から聞いたりはしなかったし、それらしいことを催促するようなこともしなかった。そいつは娘が自分から話してくれるのを、秘かに期待しながら凝っと待っていたんだが、そういう機会は結局訪れてはくれなかった。自分には話してくれない秘密をその娘が持っているという事実が、思い出の中で現れる娘の輝きをより一層神秘的なものに仕立てあげていたんだな。その秘密が実は極平凡な、寧ろつまらないものであろうとか、娘の方ではついうっかりして言うのを忘れていただけだったとか、あるいは別に話しても面白くはない話題だと思って話さなかっただけなんじゃないかとかいう可能性は、そいつの頭にはついぞ浮かんでは来なかった。いやはや、恋は盲目とはよく言ったもんさね。娘の方じゃあきっとみすぼらしいが害のない野良犬と仲良くなったのとそう大して違わなかったかも知れないというのに。

 そいつにはまた周りのことなんかどうでもよかった。矮人共の仲間内でも、そろそろ墓場へ向かう道を人間の娘と一緒に連れ立って歩いて行くそいつの姿を見かけるものが出てきた。そりゃあ当然噂にはなった。普段はぼおっとしててんで面白味のないやつだったとはいえ、人間と一緒に出歩くなんぞ、まともな矮人のすることじゃあない。頭がおかしいんだという噂が流れた。人間にまんまと騙されて、そのうち何かよくないことのために利用されるんじゃなかろうかという声も流れた。ひどいのでは、あいつは元々気の狂った矮人なんだから、そのいうちその人間の娘をこっそり殺して、自分ひとりで食べちまうつもりなんじゃないかという噂まであった。全くひどい話さ、知ってると思うが、矮人てのは普段は人を殺したりはしない。少なくとも、食べたりするのは死んだ人間だけ、殺したり攫ったりするのは、連中があの無気味な円陣の周りに集まって、奇ッ怪な秘密の祭祀を執り行うために、生贄を使う時だけなんだ。それを、生きている人間をわざわざ殺して、しかもそれを自分ひとりで食べちまうだなんて、まぁ人の口ってもんは残酷なもんさ、特に普段から付き合いの悪いやつには容赦がないんだ。中には逆にそいつのことを心配して様子を見に来るやつもいた。自分をそいつの母親と思い込んでる牝の矮人とかだ。だが、そいつはそのどちらも気にしなかった。そもそも矮人共の群れの中じゃあ孤独だったやつだ、今更他の連中に何を言われようと気にしなかった。少なくとも、気にした素振りは決して人前にゃ出さなかったな。内心ではそれでもひどく傷ついていかのかも知れんがね。まぁ、そいつの孤独が少しばかり深まってしまったとしても、どのみち同じことだったろうさ、群れの中じゃそいつは外れ者、そのことに変わりはなかったんだ。

 そいつと娘の仲が何もかもおじゃんになっちまったのは、あれはそう、村の鍛冶屋のゲセラットじいさんが死んだ後だったかな、そいつは娘に、もし村のだれかがぽっくりいっちまったら、暫くは決して墓場にはやって来るな、もし葬式に出なけりゃならない場合でも、終わったらすぐに村に帰れと、前に何かのついでの言い含めておいたことがあったし、娘の方でも、村には矮人共の恐ろしい所業についての鬼面驚かすような公言するのを禁じられたことどもが色々と秘かに伝わっていたので、その日はきちんと用心をしておいて、墓場には来なかった。鍛冶屋のじいさんとはそんなによく知り合っていたわけでもなかったので、葬式にも出なかった。

 一方そいつの方では、少しの間娘と会えなくなってしまうことを残念がりながら、自分を母親と思い込んでいる牝の矮人が持って来てくれた鍛冶屋のじいさんの肉を前に塞ぎ込んでいた。矮人共は誰も喜んでそいつに肉を分けてやろうとはしなかったので、その牝が持って来てくれたのは、固い足首の部分だけだったんだが、鍛冶屋のじいさんは仲々に肉付きのいい男だったんで、それでも充分食べ応えはありそうだった。そいつが塞ぎ込んでいたというのは、例によって、死んだ人間の肉を食べるという自分のその行いが、ひどくあさましく、恥ずかしいことに感じられて仕方がなかったからだった。どうせ無用のものとしてゴミクズのように山に転がっている野ねずみや山猫なんかの死骸ならまだしも、わざわざ弔うために墓を作って埋めてあるものを掘り起こして口にするなんざ、そいつにはどうしても野蛮なこととしか思えなかったんだ。それに、人間は矮人とは違っているとは言っても、矮人によく似た形をしている、そんなものの毛をはぎ手足を切断しまだ赤い内臓にかぶりつくなどと、自分たちがしていることは何かおかしいんじゃないか、ひどく間違ったことが行われているんじゃないかという気がして仕方がなかった。そいつには、自分も一緒にそんなことをしなきゃならないこの世界というものが、ひどく狂った、ねじの外れたものにしか見えなかったんだな。娘と会い、話をしたことによって、そうした傾向は一層ひどくなったものらしい、そいつは、娘には自分のこうしたあさましいところがあるってことを知られるのをひどく怖れていた。そいつは娘のことを思い出している間は、自分がどんな生き物であるかを忘れられたんだが、いざ娘の前にその小さな躯をさらしてみると、自分がひどくみじめな、みにくい生き物のように思えてくるのだった。

 それでまぁ、鍛冶屋のじいさんの葬式があった次の日のことなんだが、そいつはまだその足首を食べる気が起こらないまゝ、腹の方は今にも前と後ろがくっつきそうってくらいぺこぺこだったんだが、寝床からいつもの秘密の場所へ行ってみた。片手に足首をぶら提げたまゝ、大事にしてある鏡を覗いてみると、一瞬にしてなにか非常にや《、》なムカムカした感じが込み上げて来て、それは痛みすら感じるほどの吐き気となった。胸の中がカッと熱くなって、何やらもう兇暴な気持ちが躯いっぱいにあふれて来た。ひとしきり身を震わせた後、そいつは大声で叫び出したい気分だったんだが、実際に口か漏れて来たのは、低く押し殺したうめきともつぶやきともとれぬものだった。そいつはなぜかひどく疲れて、それでも胸の中には何かが焼けた焦げかすがいつまでも燻っているようなイヤな感じを抱えたまゝ、何処へ行くでもなくいつものように山や森の中をうろついた。風は出ていないのになぜか大気がざわめいているような感じがあった。頭の鈍いしびれがひどくなり、目の前が真ッ赤に染まってゆく気がした。

 いつのまにか湖のほとりの墓場へ向かう道を歩いていたのは、別に何かどうこうしようという気があってしたことじゃあなかった。いつものようにふらふらと特に行き先を定めずに歩いていたら、足が自然とそちらへ向いてしまったんだ。だから、それは何か運命のようなものというよりは、単なる偶然の織りなす出来事だったんだろう、その日偶々そいつが鍛冶屋のじいさんの足首を持っていたということも、そこへ偶々やって来た娘と鉢合わせしてしまったことも。場所は、そいつの秘密の場所からほど遠からぬ墓場にへ通じる森の中の道。近道なんだが、普段は余り使われない道で、道端にはでかい樫の木が何本か並んでいた。娘は咄嗟に手を口に当てたが、やがて驚いたような表情を徐々に和らげると、いつものような微笑みを浮かべてそいつに向かって挨拶してきた。

 そいつは例によって最初何が起きたか分からず、今目の前にいるのが自分がずっと想い続けている娘だということが分かるとハッと正気に返り、次いで今自分がどんな風に見えるかということに思い当たって愕然とし、みるみるうちに真ッ青になっていった。娘の方からいつものように声をかけられた時、そいつは訳が分からず、焦りを募らせた。何だ? この人は何を言っているんだ? そいつは混乱した。あの全てのすばらしいものを一身に集めて固めたような娘が、自分のこんなあさましくおぞましい姿を見ても、悲鳴ひとつ上げるどころか、にっこりと微笑みかけてくるなんて! そんなことがある筈がない、そんなことは起こる筈がなかった。

 ひどく狼狽えながらも、そいつはねばつく口の中を何とか湿らせて、たどたどしく言葉を紡ぎ出した。「あ…あんた、驚かないのかい?」「ええッ?」と娘は一瞬首を傾げて分からない振りをしてみせて、その後で、「ああ、そのことね、そりゃあわたしもちょっとびっくりしちゃった。そんな風に目の前でそんなものを見るのは初めてなんだもの。確かにあんまり気持ちのいいものじゃないね、気味が悪いよ。だけど、あなた矮人だもの、矮人ってそういうものでしょう? だったら、あなたもそういうものだと思わなきゃ。大丈夫、そんなことであなたを嫌ったりはしないから」と続けた。そいつはますます訳が分からなくなった。この俺のこんな姿を見ても驚かない? この俺がこんなことをしているのを知っても軽蔑しない? これが当たり前のことだと? そいつにはどういうことか分からなかった。何かが、ぴしんと鋭い音を立ててひび割れたような感触があった。そいつはまだ巡らない頭を精一杯巡らせて、ようようのことで尋ね返した。「だ…だけど、あんた、ほ、ほら………俺は肉を食うんだぜ、死んだ人間の肉を。死んで埋められた生き物の体を食うなんて………お、おかしいとか、イヤ、とか、変、とか………思わないのかい?」娘はそうれにもう一度新ためて笑顔を見せて応えた。「あら、だってほらあたしたち人間だって肉を食うもの。牛を殺して食べたり、豚を殺して食べたり、鶏を殺して食べたり、羊を殺して食べたり、馬を殺して食べたりするもの」「何だって? …あ、あんたも肉を食うのかい?」「うん、そうよ。でもあたしたちはあなたたちみたいに生で食べたりはしないけどね。食べやすいように切って、焼いたり、煮たり、焙ったりして食べるのよ」

 そいつの腹の中の火が一気に妙な具合に弾け飛んだ。あの人が肉を食うだって? 死んだ生き物の肉を? しかも死んているやつじゃなく、わざわざそのために殺して? その生き物を死体を、しかもその上に切ったり焼いたり煮たり焙ったりするだって? それを食う? そんな筈はない、嘘か冗談じゃなかろうか? きっとそうだ、きっとそうだ………だけどこの娘は笑っている。仮令冗談だとしても、そんな冗談を言ったりすること自体が、その娘にはひどく不調和なことだった。いやばかな………だけど………頭の中で、昔誰かから聞かされた人間達についてのよくない言い伝えの数々が過って行った。村の人間達も祭りの時とか祝い事がある時には肉を食う………火や包丁を使ってさんざんいじくってもてあそんだ、死んだ動物の躯を………お上品ぶった偽善者………何も変わらない、同じだ………違う―――俺はてっきり、こんな俺の姿を見たら、あの人は悲鳴をあげて卒倒しちまうだろうと思っていた。涙を流して恐怖におののき、俺のことをとんでもなくけがらわしいものとして嫌悪の眼差しを送ってくると思っていた。そうしてもうこんなものは一瞬たりとも見ていられないという風にくるりと向きを変えて風のように駆け出して、村へ戻って行ってしまって、もう二度と墓場へは来なくなっちまうか、そうじゃなきゃもう二度と俺とは口もきいてくれないばかりか、顔を合わせようともしなくなっちまうんだろうと思っていた。俺はそんな汚らわしい生き物なんだ、そうなって当然、いやしいものが報いを受ける、それが当たり前のことなんだと思っていた。ところがどうだ、あの人は俺がこんなことをしているというのにそれを笑って許してくれたばかりか、自分も一緒なのだ、自分もあのいまわしいことをやっているのだと言う。自分もまた、あのあさましい生き物の一匹なのだと言う。違う………そんな筈はない、毎夜まいよ寝床の中で輝きを放っていたあのまばゆいばかりのあの人は、尽きせぬ驚異の泉にして神秘の本流だったあの神々しい存在は、そんなものである筈がない、そんなものであっていい訳がない。だが、あの人の言葉………あの人自身の口から語られた、あの聞くだけでも厭わしいあの告白の言葉は………!

 血塗れの包丁を手に肉にかぶりつく娘の姿が一瞬、ほんの一瞬頭に浮かんだ。それが引き金だった。そいつの中で、生まれて初めて、強大な殺意が目を覚ました。殺したい、壊したいという抑えようもない激しい欲望が、そいつの中で爆発した。娘も、手に持っている足首も、矮人の仲間共も、人間共も、世界中の一切合財を滅ぼし尽くしてやりたいという衝動が、そいつの躰の内側から奔流となって溢れ出し、隅々の筋肉にまで血が流れて行くのが分かった。背筋をゾクゾクするようなしびれが走り、急にわあっと叫び出したい気持ちに駆られた。そいつはそれまでに感じたことのない荒々しい力、嵐の前の夜や大風の日のコグラモ山の山頂に登ってみた時の感情なんぞとは比べものにならない乱暴な力が漲ってくるのを感じた。目の前の獲物を狩ってしまえ、壊して殺してめちゃくちゃに滅ぼしてしまえという誰かの声が聞こえたような気がした。わなわなと震える両手を緊張させて、そいつは、あゝ、やってやるともとさえ考えた。あの人の喉に手をかけて、ぎりぎりと舌が出るまで締めあげてやる。大きな石でもってそのうつくしい顔を何度もなんども打ちつけ、ぐしゃぐしゃにつぶしてやると思った。そいつはぶるぶると震えながら、娘の方へ一歩踏み出した。

 ………が、そこですっかり何もかもが止まってしまった。急に力が抜けて、それ以上先へ進めなくなってしまった。別に娘のことが大事で傷つけたくないと思ったからじゃない。何もかもがあっという間に色褪せてしまって、まるでどうでもよくなってしまったのだ。殺す? 殺したとしてどうする? 食うのか?―――食うしかあるまい、儀式のための殺した訳でもないんだから。そしてあの人の言った人間みたいなことをする………だが食ったからといってどうなる? 俺はもうあの人の言葉を聞いてしまった。聞きたくなかった。聞いちゃいけなかった言葉を聞いてしまった。俺はもうおしまいだ、あの人が連れて来たすばらしいもの、うつくしいものの一切合財が、俺の手からすべり落ちていってしまった。この先俺がどう足掻こうとも、仮令俺があの娘の死体の肉を食ってみたところで、それが一体どうなるわけでもない。もう取り返しはつかない、もうあの人は元には戻らないのだ………そう考えると、そいつはもうがっくりきてしまったんだ。

 そいつの中に沸き起こった殺意は、出て来た時と同じように急にしゅうしゅうと萎んでいってしまった。そいつは途端に何だかがくんと疲れてしまって、力なく肩を落とした。娘の顔を見上げてみると、それはやっぱりさっきと同じにっこりと笑った顔。それを見ていると、そいつは何もかもが何だかどうでもよくなってしまった。あらどうしたのと言いたげな娘をほうっておいてくるりと背を向けると、そいつはとぼとぼと歩き始めた。後ろで娘が何か言っていたようだったが、もうそいつの耳には入らなかった。行き先なんて決めていた訳じゃないが、そいつはとにかく休みたかったんだ。何もかもを忘れて、何も考えたくなかった。もう娘には二度と会うつもりはなかった。会ったとしても、もう以前のように無心に楽しく会話をしたりすることは出来ないだろう。そいつは濡れた雑巾のようにひどく重くぐったりした気分だった。

 と、突然、短い悲鳴が後ろの方から聞こえて来た。考えるまでもない、娘の声だ。近くには他に誰もいなかったんだからな。そいつがびっくりして振り返ると、毛の粗い薄汚い山犬が、娘の喉にざっくりと咬み付いていた。娘の足元には鍛冶屋のじいさんの足首が転がっていた。どうやら気がつかないうちにそこへ落っことしてきちまったらしい。恐らく、その血の臭いを嗅ぎ付けてやって来た山犬が、いかにもひ弱そうな獲物が一人っきりになった機会を逃さず、襲いかゝって来たんだろう。そいつは全身の血がまたさあっと逆流するのを感じたが、それはまたすぐにしおしおと萎れていった。娘の負った傷はどう見ても手遅れだったし、その山犬にしたって、そう大きくもないし大して力もなさそうだったが、そいつよりは十分強そうだった。それに、今更助けたところで何がどうなるものでもない。咬み砕かれる骨の音を聞きながら、そいつはもう一度くるりと背を向け、ふらふらと彷徨い歩いて行った。

 そいつは暫くの間はぼうっとしてずっとねぐらの中に引っ込んでいたんだが、やがて秘密の場所にまた来るようになり、そこで何日も何日も物思いに耽った。どうせ殺されるんだったら、あの山犬の牙にかゝる前に自分が殺してしまっておけばよかったかな、とも思った。だがしかし、そんなことをしてもやっぱり同じだったろうと思い直した。そいつはそれこそぽかんと莫迦みたいに一心になって、いったい何がいけなかったんだろうかと考えた。思い返される娘の姿は今でさえあんなにもうつくしく気高く神秘に満ち溢れているのに、最後の瞬間になってそのあさましい正体を現したあの娘、あの死んだ動物の肉を食う、そしてそのことを何とも思っちゃいないあの娘、思い出されるその娘は、繰り返しくりかえし思い出されるうちに段々と余計な細かいところがなくなっていって、何か漠然としたすばらしいもの、うつくしく輝くものへと変わっていった。生身の娘は死んでしまったが、その光のことを思い浮かべるたびに、そいつは何だか生きいきとした感じに満たされ、何やら知らぬ誇りとか栄光とかそうしたけだかい感情に気分が高まってゆくのを感じるのだった。そいつは次第に、その光のことばかりを一番に考えて、仲間との付き合いや、日々食べものをあさりに出掛けたりすることを、ますます疎かにするようになった。そいつは日にひに散歩しに出かける範囲を広げてゆき、或いは半日もかゝるような所まで足を伸ばすことも多くなった。お陰で仲間からは一層相手にされなくなった一方で、そいつの頭の中では、色んなことがどっさりと入り込んで来てはぐるぐると掻き回され、また通り過ぎて行った。そいつは本当に色々なことを考えた。

 そのうち、そいつはこう考えるようになった。あの娘があんなことになったのは、あれは別にあの娘が悪かった訳じゃあない、あの娘は結局のところ、只のいやしい一百姓娘に過ぎなかったんだから。きれいなドレスが足の太い百姓娘に似合わなかったからといって、それは当然じゃあないか、誰もそんなことでその娘を責めたりはしない。美しいドレスというものは高貴な身分の女性が着るものなんであって、うつくしいものを求めるならば、それに見合うだけの美しいものを用意してやらなくちゃならない。俺は間違っていた。あんな娘に期待をかけちまったのがそもそもの間違いだったんだ、美しい娘と会いたいなら、あんな百姓娘とじゃあだめなんだ、ちゃあんとそういう娘が見つかるような所を探さなきゃあ。死んだ動物の死体を食べたりはしないし、そんなことはけがらわしいと目を背けるような、れっきとした貴婦人がいる所だ。

 そう思い定めたそいつは、村の向こうにはお城があって、そこには村の連中共より身分の高い人間達が住んでいると前に聞いたことがあったのをを思い出して、村をぐるりと廻って細い森の道を進み、少しばかり高い山の中ほどまで登ると、そこの切株に腰を下ろして、そのお城とやらを毎日凝っと眺めるようになった。山までの道は少し遠くて、雨が降ったり大風が吹いたりした日にはそれなりに難儀をしたものの、そいつは毎日のようにそこへ通い続けた。そして淀んだお堀に囲まれた古びたお城の窓のひとつひとつに瞳を凝らし、どこからか自分が探しているような身分の高いけだかい女性は現れないものかと熱心に求め続けた。と言っても、窓から顔を出す女性なんてそうしょっちゅういる訳じゃあない、殆どがお城の衛兵だったり、名も知らぬどこぞの貴族かその一族と思われる者だったり、たまに女性が出て来たと思ったら、只の侍女だったり料理女だったりした。暫く暇が空いてしまう時は、お城やその周りの景色を隅々まで眺め渡し、さあこの風景のこの建物の中に住むような人というのはどのような暮らしをしているのだろう、きっと村の連中とは全く違った、何かぜいたくですばらしいものに囲まれて生活をしているのだろうと想像を巡らせた。そいつの頭の中では、まばゆいばかりのきらめくシャンデリアや、きれいに磨きあげられた銀の食器、年代ものの貴重なワインや、自分には理解は出来ない何か由緒ある貴重品の数々が城の中には満ち溢れ、そこでは整った顔立ちや体付きをした人々が清潔な衣服を纏い、優雅な挙措で歩き回り、血を一滴も流していないものばかりを食べ、上品な仕種で、うつくしいことどもを行い、高尚で繊細な会話を交わし、何でも見通すことの出来る生まれついての頭脳と高貴な者にふさわしい鉄の意志とによって日々この世界をよりすてきなものにするために立派に立ち働いているのだった。

 そいつはその美しく立派な城の中を夢想することに一日の大半を費し、たまに窓から誰かの頭が覗くと、ハッとして、それがもしやうつくしく気高い貴婦人か令嬢ででもあるまいかと、期待に満ちて身を固くし、そしてまた失望を繰り返すのだった。

 或る時、そいつはひとりの美しい、と言っても矮人てえのはそんなに目がよくないもんだから、半分以上はそいつがそう思い込んだだけだったんだが、とにかくそいつが美しいと思った女を見掛けた。その娘は城の中でも特に高い部分に付いている窓を実にたおやかな手つきで開け、細かい模様に織り込まれたレースのカーテンをのけると、窓枠に両手を載せて目を閉じ、静かに、だが深い深呼吸を繰り返した。純白のドレスがまるでその娘の栄光を讃えるかのように日の光を浴びてきらきらと輝き、胸より下まで垂れた豊かな髪は、まるでその娘からこんこんと湧き出る生命そのものが、束となって溢れ出た滝のようだった。そいつは間違いなく身分の高い女だった。はしたない汚れ仕事なんかには手を出したりはしない、うつくしい純潔の大輪だった。そいつはあれこそ公女に違いないと思った、あれこそ、この城の富と権力と血統とが長年その全労力を傾けて育て上げたうつくしいものどもが凝集したもの、この国に存在するものうちで最も純粋でけがれないものに違いなかった。

 娘は暫し城の外に広がる森の景色を眺めていたが、やがて窓を少し開けたまゝ中へ引っ込んでしまった。その日はそれきりもうその娘は姿を見せはしなかったが、その日ねぐらに着いたそいつの胸の中では、あの娘だ、あの娘こそ、俺がほんとうに待っていた娘なんだという確信が、一晩中、荒れ狂う渦となって歓喜のダンスを踊った。

 そいつはその日から本当に毎日、その山へと通い詰めた。そしてあの娘が現れた窓だけを日がな一日ずうっと見て過ごした。よくよく考えてみれば、あの日目にしたその娘がその城の公女だって証しは何にもあるわけじゃなし、その窓にしたって、その娘の部屋の窓だったかどうか分かったもんじゃないんだが、そいつにもそうくらいのことは考えついていた。だがそいつにはそんなことどうでもよかったんだ。そいつにしてみれば、その娘の他に、その娘以上に公女らしい女を見かけたことがある訳じゃなし、その娘を見かけたのもその窓で一回きりだったんで、他の娘や他の窓にわざわざ注意しているなんてのは、ムダ以上の何でもないと思えたんだ。

 やがてそいつはその同じ窓で二度、三度、極くたまに、本当にたまになんだが、その同じ娘、少なくとも同じ娘だとそいつが思い込んだものをそいつは見掛けた。その度にそいつは有頂天になり、うつくしいと思っていた頃のあの村の娘のことを思い出している時と同じような、とてつもない喜びに包まれた。その娘が頭を出すだけで、それまで凝っと待ち続けていた山の中の退屈な時間が、全て消し飛んでしまう気がした。自分は今度こそほんとうにうつくしい娘を見つけたんだという気持ちが、そいつをまるで王者のように誇らしい、堂々とした気分にさせた。

 回を重ねるごとに、そいつがその娘のことを考える時間は長くなっていった。そいつはその娘と話したり、一緒に歩いたりなどという大それた望みは持っちゃいなかった。何しろ相手は公女さまだ、おいそれと近付くことができる相手じゃあないし、たゞ遠くからそのお姿を見ることだって、こうしてさんざん苦労しなけりゃならない。そいつは遠くから眺めているだけで満足しようとした。少なくとも、今の自分にはそれが望み得る精一杯だと心得てはいた。だが、望みってやつはそう思ったからってどうにかできるようなもんじゃあない。そいつは次第に、その娘に自分を見付けてもらいたいと、秘かに思うようになっていった。今は自分がこうして近くの山の中からあの娘があの窓から顔を出すのを待っているだけだけれど、あの娘の方からもきっとこっちのいる山の様子は見えている筈だ、それに人間ってのは矮人よりは目がいい、だとすれば、次にあの娘が窓から顔を出した時、ひょっとして周囲の景色を見渡して、そこでもしかしたらこの山に目を留めるかもしれない、そして偶然、こちらを凝ぃっと見ている小さな塊があることに気が付くかもしれない。最初はそりゃあ気にもしない。だが、その次もまた同じように小さな黒い塊が自分の方を凝ぃっと見ていたらどうだろう? 何かおかしいと思わないだろうか? そしてその次もまたそこにいたら? 気味が悪いと思われるだろうか? 娘はきっとその小さな黒い塊のことをもっとよく知ろうとするだろう。身を乗り出してひとみを凝らし、もっとはっきり見ようとするかも知れないし、或いは家来の者に尋ねてみるかも知れない。或いは、人を遣わしてここまで寄越すかもしれない。家来はきっと、山の中から不作法にもこちらを凝ぃっと眺めているのは、いやしい矮人のひとりであると報告するだろう。娘は怒るだろう、いや激怒することだろう。人間の屍肉をあさるようないやしい矮人のごとき生き物が、不遜にも誉れ高き公女の部屋をまじまじと見るなどと! 何といまわしいことだろうか? 娘は伝令をやって、この俺に命令を伝えるか、いや兵士をここまで寄越して、この俺をひっ立てて来させるだろう。俺は娘の前に引き摺って行かれるが、娘はさもけがらわしいという顔をして、こちらを見ようともしないだろう、そしてその方のごときいやしい存在が、畏れ多くも公女のごとき尊いお方に対して、執拗な視線を向けるなど無礼千万、俺のしたことは万死に値する、恥ずべき不敬であるとなじるだろう。そして娘は冷然と言い放つのだ、その方のような者と同じ天の下におって同じ空気を吸っていると思うだけで虫酸が走る、きさまのようなやつばらは、エメンド山の火口にでも身を投げて、一刻も早くこの地上から姿を消してしまえ、と。

 そいつはその秘かな希いを繰り返しくりかえし夢想した。そして自分に情け容赦のない宣告が下されるところを想像しては、随喜の涙を流すのだった。あのお方が一言言って下されば、俺はこのみにくい身体を喜んでエメンド山の火口に投げ捨ててしまおう、自分の命はあのお方のためにあるのだし、あのお方が死ねと一言言って下されば、自分は何の躊躇いもなくあのお方のために死ぬだろう。悲愴な覚悟を以てする訳ではない、況してやあのお方のことを恨みつゝするのではない、自分はあのお方のために喜んでこの身を差し出すのだ、罰せられ、清め払われるべき一片のゴミだ、醜い汚点だ、そんな俺が俺に下されたけだかいお方の言葉に従う機会ができるというのだ、俺としては寧ろ感謝してそれを受け取るべきなのだ。あゝ、何とすばらしいことだろうか、ほんとうの美のために命を捧げられるということは!

 そいつは逸る気持ちに駆り立てられるまゝ、エメンド山へも通うようになった。もし自分にその火口へ飛び込んで死ねという命が下ったら、すぐさま火口へ向かって身を投げられるようにするための下準備だ。そいつはお城から一番近く行けて、しかもお城から一番見えそうな道を探して歩き回った。そいつは、火口のどの辺が、一番身を投げやすいか考えた。そしてどんな恰好で身を投げれば、あのお方を讃えるのに一番ふさわしいだろうかと、何度もなんども思案した。滑稽に見えるだろう? だが当人は大真面目だったんだ。エメンド山の火口から流れる煙を全身に浴びて真っ黒になって帰って来るそいつを見て、小さな矮人共ははやしたて、バカにした。だがそいつの様子があんまりにも堂々として怒ったり言い訳したりするでもなかったので、そうしたこともやがてなくなっていっていしまった。もっと正確に言えば、みんな飽きちまったんだろうな、そいつのこうした習慣は、その後何年も続いたんだから。

 実際、そいつは今でも、お城の近くの山やエメンド山へ通っているんだ。まぁ少しは食べ物集めもしなくちゃならないし、寝床へも入らなきゃならんので時間がなくなっちまったんだろう、あの秘密の場所へ行くことはめっきり減っちまったみたいだがね。そいつは今でもよく真っ黒になって、だけど目だけはきらきらと輝かせて、「あのお方」がいつかこちらの視線に気付いてくれることを待ち続けているんだ。そしていつか「死ね」というその一言がそのうつくしい唇の間から自分に向けて発せられることを、そいつはずっと待ちこがれているんだ。

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