昨日・今日・明日
社会人生活、研修期間は学生気分のまま楽しめた。ノートをとるふりして眠気と戦いつつ社会人としての心得を学んでいくわけだが、服装が背広にかわっただけで、中身は先月までの俺のまま。三月から四月に変わっただけで人間がそんなに成長したり変わったりする訳でもない。
元短大生のお嬢様っぽい河瀬さんは見た目のとおり真面目な性格なようで俺とは違って真剣に研修に挑んでいるようだ。スポーツウーマンという感じの松梨さんも俺と同じように研修に退屈しきっているようだが、それを極力顔に出さないように気合いを入れて頑張っている。月見里さんはあの好奇心に満ちた楽しそうな目で研修をうけているようにも見えた。しかし隣からそっと彼女のノートを覗くとあのブログで活躍していた兎のイラストがそこにも登場し、時間とともに増えていっている。研修をうけながら落書きも楽しんでいるようだ。最後に描かれた兎に至っては気持ち良さそうに丸くなって寝ている。
ついこないだまで高校生だった井口なんて完全に会社をなめている。ややギャルが入ったメイクでやってきて、研修中は隠しようもないほど俯せになって寝ている。マナー講座においては、キャッキャとテンション高くふざけて受けていたために講師に大目玉くらい、それでも反省なく無邪気に笑っていた。
その様子を河瀬さんは眉を顰め眺め、松梨さんと俺は微笑ましく笑いながら見ていた。
「成実ちゃん、ダメだよ、社会人なんだからもっと真面目なフリ出来るようにしないと!」
お昼をみんなで一緒に食べているとき、月見里さんは井口をそう窘める。その叱り方もどうかと思うが、自分だってそう真面目にうけていたわけではないので、何もいえない。
それに『エヘヘ』と声を出して笑う井口。化粧していてもこういう笑い方すると、先月まで制服きていた女子高生だったというのがよく分かる。
「でもさ〜黒くんだって、魂抜けたような顔して聞いてたよ!」
井口はコチラをみてニヤリと笑ってくる。よくあんなにぐっすり寝ていた状況で、まわりの状況も見ていたものだと別の意味で感心してしまった。
研修中は皆、そんなのんびりした時間とやり取りを楽しんでいた。でも、ノホホンと楽しかったのは研修期間の間のみだった。
研修も終わり、配属辞令授与の時がくる。
俺と松梨さんは営業部に、井口は製造部に、河瀬さんはデザイン部に、そして月見里さんは営業部制作課という所に配属されることになる。俺は月見里さんが面接の時からデザイン部を志望していたのを知っていたのでチラリと彼女の顔を見る。いつもニコニコしていた彼女の顔に笑顔はなく、俯いていた。
井口のみが製造部のある本社ビルでそのまま勤務で、他の人はそこから五十メートル離れた賃貸ビルの六階にある営業部が勤務先となる。井口は、『私一人だけこの汚いビルで仕事なんて嫌だ!』と喚いていたがコレばかりは仕方が無い。皆彼女を散々宥めたあと、それぞれの職場へと散っていった。
映画やドラマで営業マンたるものを見てそれなりに知っていたつもりだが、実際やってみると全然違う。最初は上司と一緒に付き添いという形でのスタートであってとしても、自分が印刷というものをあまり知らない事で、ミスも多く現場に怒られるわ、お客様には呆れられるわ、上司に迷惑かけるわ、もう散々である。自分がどうしようもないダメ男に思えてくる。
同じ営業部に配属された松梨さんは、俺と同じような苦労に加え、お客様がエロ系に強い出版社だった。仕事の内容がセクハラのような事もあり、彼女の眉間の皺が会社にいるとき消えることがなかった。
河瀬さんだけは、元々デザイン系の勉強をしてきていた事もあるのか淡々と何の問題もなく仕事をこなし職場に溶け込んでいるように見えた。
そして月見里さんは、丸顔で頭がバーコードの上司に毎日ネチネチと怒られている。
「何度言っても、分からないホントお前馬鹿だな!」「グズグズするな!」「ボケ!」
彼女の上司は兎に角口が悪い。そんな上司にも『はい!』と笑顔を必死で作り仕事をしている。
彼女の課は、営業部にあってもやや特殊で現場に近い仕事の形態をしている。お客様と直に接して相談しながら印刷の元となる版下を作るまでを行っている。
部屋の隅にあるその空間はなんともどんよりしている。いるのは加齢臭が漂ってきそうなオヤジが三人。新人の彼女が一人で平均年齢下げているような状況である。
端からみているだけでも、何か大変そうなクセのある上司ばかりである。特にトップである井筒次長は、横暴でしかも細かく、他の課とぶつかる事も多く社内でも煙たがれている存在で、現場からは嫌悪すらされている。
課の歓迎会の時に、上司が眉を顰め、彼女のいる部署に対してこんな事を言っていた。
「あの子のどのくらいもつかな〜。あの部署さ、人材育てるのが下手でさ、もって一年で、みんな半年とかで辞めていっちゃうんだよね。だから同期の君が見守ってあげてよ」
望んだ部署には入れて貰えず、月見里さんはとんでもない場所に行かされたようだ。
席は近いので、色々みえてしまう。見ていると、彼女が印刷物の元となる版下を持って、その陰険な上司に指示を仰ぎにいっているようだ。
「それくらい、自分で考えてやれ!」
そんな怒鳴り声が聞こえる。月見里さんは困った顔で、彼女を無視して再び机に向かって仕事を再開した上司の禿げた頭部ジッと見つめる。
勝手にやったらやったで怒り、指示を仰ぎにいっても怒る。その理不尽な次長に対してコチラが苛ついてくる。
しかし彼女は何故か、あのヘラっとした笑顔になる。
「わかりました! なら『適当』にやらせて頂きますね!」
『適当』に力を込めてそう言い放ち、月見里さんは上司の席から離れようとする。去っていく部下を次長が慌てて呼び止める。指示は貰えたようで、指示をくれた上司に対して嬉しそうに笑う。
「あの子、大物だな」
俺と同じようにその様子を隣で見ていた先輩が、面白そうにつぶやく。