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青い釦

作者: 雪野灯里
掲載日:2026/06/17

俺はどうやら運が悪いみたいだ。

ここ数日はよく晴れた日が続いていたというのに、帰る日に限って悪天候で船が欠航だなんて。

昨日のニュースでは、天気が荒れるのは明日の夜からだと言っていなかったか。

昼前は運航しそうな雰囲気だったから、予定通り帰るつもりでいたのに、夕方くらいから海が思った以上に荒れ始めた。帰るのはどうやら明日以降に延期しなければならないらしい。

人口二百人にも満たないこの小さな離島は、本島との交通手段が船しかない。

だからその船が動かない以上、どうすることもできなかった。


暇を持て余し、もう一日過ごす場所を探して島を歩いていると、崖の上にこんな天候にもかかわらず営業している喫茶店を見つけた。

俺は強くなり続ける雨から逃げるように中に入った。

店内にはオーナーらしき七十代くらいの落ち着いた雰囲気の男性が一人いるだけだった。

カウンター席に着き、コーヒーを頼む。

手際よく入れたそれを差し出したオーナーの袖口についているカフスがふと目に留まった。

いや、それは通常のカフスボタンとは些か違っていた。レディースのカーディガンに付いているような、深い青色をした2センチくらいの丸いボタンがついていたのだ。


「本当は今日この島を出るつもりだったんですけど、この天気で船が出なくて。」

そう言うと、オーナーは「そうでしょうね。」と穏やかに頷いた。

「悪い時にいらっしゃいましたね。毎年この日は海が荒れるんです。」

彼は大きな窓から海に目をやった。

「でも晴れた夜は、穏やかで美しい場所なんですよ。」

彼につられて俺も窓の向こうを見た。雨に煙る海は色を失ったように見える。

「月が出ると浜辺が明るくて、深い色をした水面に映る月光が綺麗でね。眠れない夜の散歩にはちょうどいいんです。」

その言葉にさっき見た袖口の違和感が蘇った。

「……そのカフス、珍しいですね。」

オーナーはちらと、自分の袖を見た。

「ああ、これですか。」

それからまた窓の外へ視線をやってこう言った。

「若い頃、あの浜辺で拾ったものなんです。」

それから彼はまた話し始めた。雨は衰える様子もなく窓を叩き続けている。

雨宿りにはまだ時間がかかりそうだ。

俺はコーヒーを飲みながら彼の話を聞くことにした。



私はこの島で生まれこの島で育ちました。

当時は今より人が多かったので、島の中にも学校があったんです。お陰で生まれてこの方、島を出ずに生きてきました。生活に困ったことはありませんが、娯楽の少ない場所です。私の学生時代の楽しみといえば月夜に浜辺を散歩することでした。

ある日いつものように散歩をしていたら、波に打ち付けられたのか、浜辺に一つ、ボタンが落ちていたんです。そんなもの捨ておけばいいのにどうしてか拾ってしまいましてね、上着のポケットに入れて帰りました。


それからしばらく、そのボタンのことは忘れていました。次に海へ行ったのは、数日後のことです。

その日も綺麗な月が出ていました。風もなく、波の音だけが静かに響く、美しい夜でした。

乾いた砂の上を歩いていると、前方に岩に座る人影が見えたんです。

彼女は靴も履かずに足元の海を見ていました。月明かりにぼんやりと照らされて、顔はよく見えなかったのに、私はなぜか彼女から目を離せませんでした。

声をかけるべきか否かと迷っていると、彼女が私に気づいて振り返りました。


おそらく私より幾分か年上の女性でした。

この世に存在するどんな言葉でも言い表せないようなとても美しい人だった。

彼女はよく晴れた夜だというのに、ボタンがひとつ取れている濡れたカーディガンを着ていました。

それに付いていたのは深い青色の、小さなボタンでした。私は見とれてしまって声を出すことすらできませんでした。そんな私を彼女はじっと見つめていました。


私は何とか頭を働かせました。

「その服のボタンを落としませんでしたか。数日前にここで同じものを拾ったんです。」

そう言って上着からボタンを取り出して見せました。彼女はしばらく答えませんでした。

傷一つない足をしばらく波にちゃぷちゃぷと遊ばせて、そしてようやく口を開きました。

「ええ、きっと私のです。」

彼女の声は空洞に響く小さな鈴のようでした。


私がボタンを返そうとすると、彼女は少し困った顔をして言いました。

「……ごめんなさい、付け方が分からないんです。」

珍しいものだと思いながら、私はそのボタンを縫い付けてあげることにしました。

けれど、夜の散歩に裁縫道具など持っていませんから、その日はそのカーディガンを受け取って帰りました。

いつ返せばいいかと問うと、彼女はすこし考えるそぶりをして、「いつでも。私はいつもここにいますから。」とぎこちなく手を振りました。


次の日カーディガンをもって浜辺に行くと彼女は昨日と同じように岩に腰掛けていました。

カーディガンを返すと彼女は嬉しそうにはにかんでお礼にと白い石をくれました。私は後になってからそれが真珠だと知りました。

確信があったわけではないですが、彼女が普通でないことはその時から何となく察していました。


それから私たちは月の出ている夜には必ず浜辺で会うようになりました。

彼女はいつもあのカーディガンを着て同じ岩に腰掛けていました。私は少し離れて座って海を眺めながら話をしました。

彼女は自分の身の上話はしたがりませんでしたが、その分私の話を聞きたがりました。夜通し話して空が白けていくと、彼女はいつも「今晩はここまでですね。」と言ってやはりぎこちなく手を振って私を見送りました。


そんな夜を繰り返しているうちに、私はどんどん彼女に心惹かれていく自分を自覚しました。

しかし、彼女はやはり普通の人とはどうも違っていたんです。いつも同じ格好だし、ずっと海に足をつけているのに寒がる様子がない。

ある日、あまりにも風の強い夜だったもので「寒くないですか。」と聞いてみたんです。彼女はつま先で波を弾きながら「寒いってどういう感じですか。」と返してきました。

それが決定的な瞬間でした。


それからも私は毎晩浜辺に行きました。彼女はいつも変わらずにそこにいました。けれど私の方はもう前と同じではいられませんでした。打ち付ける波の音を聞くたびに彼女が人ではないことを思い出してしまう。けれど、それでも会いに行かずにはいられなかったんです。


ある冬の夜のことでした。月が高く、海が不気味なほど静かな夜。

彼女はいつもの岩に腰掛けていて、私はその隣に立っていました。私たちはしばらく何も話さずに海を見ていましたが、不意に、言葉が口をついて出てしまったんです。

「……あなた、人ではないんでしょう。」

自分でも驚くほど穏やかな声でした。どうしてそんなことを言ってしまったのか、私は今でも分かりません。

彼女はただ足先で波を揺らしながら、少しだけ間を置いてから言いました。

「どうして、そう思うんですか」

 私は答えられませんでした。長い沈黙が流れたあと、彼女はふっと笑って立ち上がりました。

「どこで間違えちゃったんだろう。」

彼女は立ち上がって海に向かって歩き始めました。

「まだ貴方と会う前、海の中から浜辺で散歩する貴方を見かけたんです。その時からどうしても貴方とお近づきになりたくて。」

彼女は胸元のボタンを触りながら言いました。

「貴方が拾ってくれたらいいなと思って、このボタンをちぎってそこに投げておいたんです。ちゃんとボタンを拾ってくれたのも、それをポケットにいれていたのもずっと海から見ていました。あの貴方が話しかけてくれた夜、こんなに上手くいくなんて、と嬉しかったけれど、やっぱり人のふりをするのって難しいですね。」


海に向かって歩みを進めていく彼女の背中に私は思わず叫んでいました。

「あなたが人でなくても!それでもいいと言ったら、また私と会ってくれますか!」

振り返った彼女は泣いていました。

「いいえ、人になりきれない私じゃだめだわ。貴方を幸せにはできませんから。」

そう言って胸元のボタンを1つちぎって投げてよこすと、彼女はもう振り返らずに月光がそそぐ海に飛び込んでしまいました。波が彼女を覆い尽くしてしまうと、そこにはもう何もありませんでした。

ただ、私の足元に転がるこの青いボタンが一つ残されている以外には。



「長いこと話してしまいましたね。」

その言葉にふと我に返った。いつの間にか窓を叩く轟音は止んでいる。

「毎年別れた日になると海があのように大荒れするんです。」

そう言って彼は眉を下げて笑った。

「彼女に未練があるならいつでもこっちに来てくれていい。その気持ちでこの店をはじめたんです。いつも私が彼女を訪ねていたから、今度は貴女から、と。でも私もいい歳になってしまいました。もう彼女と会う機会はないかもしれませんね。」


俺は礼を言って席を立った。振り返ると、彼はもう窓の外を見ていた。外には静かな波音が響いている。

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