第1話 歪んだ腕時計
歪んた腕時計にこめられた記憶とその思い
二十年前の大火災で行方不明になった男の“形見の腕時計”が、突然コロニーに戻ってきた。 歪んだケース。読めない“最後の手紙”。 そして依頼人の願いは―― 「一時間でいい。もう一度、動いているところを見たい」 修理は不可能。費用も払えない。 それでも、この依頼だけは断れなかった…
今、目の前には古びた機械仕掛けの腕時計がある。
見ず知らずの夫人が持ち込んできたものだ。
人類が宇宙に住み始めて数百年。
この時代にゼンマイ仕掛けの腕時計など必要ない。
それでも莫大な金を払ってまで“動かしたがる人間”がいる。
俺は、その狂った趣味の後始末をしている。
俺の名はクーガー。妻のローラと共に、
“大昔のゼンマイ仕掛け”の腕時計を修理するという、時代錯誤な仕事をしている。
もちろん、機械式時計に実用性なんてない。
だがコロニーの富豪たちは、数百年前に作られた精巧な“おもちゃ”を信じられない額で買い漁る。
軽くて小さく、輸送しやすく、古き地球文化の象徴でもある――
腕時計は、彼らにとって“ちょうどいい贅沢品”なのだ。
だからこそ、俺たちのような職人が必要になる。
……とはいえ、同業者は数えるほどしかいない。
最初に触れた古びた腕時計。
たまに修理依頼が来る機種で、貴重ではあるが珍しくはない。
そして、その時計の向こう側に座る初老の女性。
なぜ今、腕時計とその女性がそろって俺の前にいるのか――
その理由を少し説明しておきたい。
数時間前、俺のチャットツールに、まったく見知らぬ名前から修理依頼が届いた。
この世界で“完全な赤の他人”から連絡が来ることはまずない。
必ず誰かの紹介がある。
全く知らない相手からの問い合わせなど、初めてと言っていい。
それだけ、この趣味は特殊で、人を選び、そしてとんでもなく高額な金が動く世界なのだ。
さらに、客と直接会うこともほとんどない。
依頼はチャットで受け、見積もりを出し、品物が送られてきてから本見積りを作成する。
オーバーホールを施し、また送り返す――それが普通の流れだ。
富豪たちは金はあっても時間がない。
だから余計なやり取りを嫌い、必要最低限のコミュニケーションで済ませようとする。
信用が何より重要な世界だ。
そんな常識から大きく外れた依頼だった。
メッセージにはこう書かれていた。
「形見の腕時計を動くように修理してほしい。同じコロニーに住んでいるので、一度お会いして話をしたい」
送り主の名は――エレナ・グレイス。
聞いたことのない名前だった。
腕時計コレクターなら、直接の付き合いがなくても名前くらいは把握している。
だが、この名にはまったく心当たりがない。
俺は返信した。
どこから連絡先を知ったのか、基本的に対面対応はしていないこと、
そして写真を見る限り修理には“一人分の年収を軽く超える”費用がかかる可能性があることを伝えた。
「思い出の品なら、そのまま飾っておくのも一つの方法ですよ」
そう添えて。
返ってきたメッセージにはこうあった。
「ミハエルからあなたのことを聞きました。修理できるかどうかも含めて、一度お会いしてお話ししたい」
ミハエル――まったく聞き覚えがない。
腕時計の修理を頼むような人間は限られている。
紹介者の名前くらい、どこかで耳にしているはずだ。
だが“ミハエル”には心当たりがない。
正直、困っていた。
本音を言えば、こういう依頼は受けたくない。
メッセージの文面から、依頼人が裕福ではないことはすぐに分かった。
金の問題ではない。
得体の知れない仕事には関わりたくない。
ましてや“形見”となると、なおさらだ。
そんなとき、師匠の言葉が頭をよぎった。
「お客様には誠実であれ。貴賤で人を見てはいけない。そんなことをすれば、いずれお前自身が見比べられるぞ」
若い頃、耳にタコができるほど叩き込まれた教えだ。
その声に背中を押され、俺は覚悟を決めた。
エレナ・グレイスと会う時間を約束した。
そして今、こうして彼女と腕時計が、俺の目の前にある――。
目の前にいる女性――年は五十代半ばほどだろうか。
見覚えはない。
その手元に置かれた腕時計は、写真よりはましだが、それでも状態は良いとは言えない。
直せないわけではないが……簡単な仕事ではなさそうだ。
こういう時は、事情を深く聞かないほうがいい。
踏み込みすぎると、断るタイミングを失いかねないからだ。
そこへ妻のローラがお茶を運んできて、夫人の前にそっと置き、俺の横に腰を下ろした。
こういう場面でローラがいてくれるのは、本当に助かる。
女性同士のほうが相手も話しやすいし、ローラはいつも絶妙なタイミングで会話を誘導してくれる。
俺は夫人に許可をもらい、腕時計をそっと手に取った。
その瞬間、胸の奥に小さな違和感が走る。
……ケースに歪み?
あまり見ない損傷だ。
外観だけで“一筋縄ではいかない”ことが分かった。
そこで前置きをしておく。
「事情をあまりお聞きするつもりはありませんが……」
そして本題に入った。
「エレナさん。この腕時計を“動くように”してほしいとのことですが、今の状態を見る限り、修理には相当な手間と時間がかかります。もちろん、金額もそれなりに……」
これは脅しでも値切りでもなく、職人としての誠意だ。
この状態の時計を莫大な費用をかけてまで動かす価値は、普通ならまずない。
だからこそ、俺は提案した。
「やはり、外装の仕上げ――ポリッシュをして飾られるのがよろしいのではないでしょうか」
しかし夫人は静かに首を振った。
「二十年前……夫の思い出の品なんです」
その声には、押し殺したような響きがあった。
「昔は、ちゃんと動いていました。一時間でもいい……ほんの少しでいいんです。動いているところを、もう一度見てみたいんです」
ローラが柔らかい声で会話を引き取る。
「なぜ、動いていることにこだわるんですか?」
その間、俺の頭には別の疑問が浮かんでいた。
――二十年前に動いていた?
なのに、このケースの“歪み”は何だ?
普通の経年劣化ではこうはならない。何か大きな力がかかったはずだ。
エレナは静かに語り始めた。
「夫は……この時計は何百年も動いてきたんだ、とよく言っていました。
もし自分が死んでも、この時計はこれからもずっと時を刻み続けるんだって……」
そこで一度、言葉を飲み込むように息をつく。
「子供にも、その時計が動いているところを見せたいと……ずっと考えていたんです」
ローラがうなずきながら言葉を返す。
「そのお気持ちは、よくわかります。だからこそ、私たちのように時計をメンテナンスする人間がいるんです。
でも……形あるものは、どんなに大切にしていても、いつかは壊れてしまうんですよ」
俺は、この修理が商売としてはまったく割に合わないと感じていた。
それでも、あえて核心に触れる。
「エレナさん。もし直すとしたら……どれくらい出せますか」
夫人が口にした金額は、頭の中のざっとした見積もりより一桁……いや、二桁近く低かった。
もっとも、俺が提示されるであろうと予想した金額の範囲でもあった。
この状態の時計を動かすには、本来その“さらに上”を覚悟してもらう必要がある。
場合によっては、さらにかかるかもしれない。
今の時代のコレクターは、とにかくオリジナルにこだわる。
修理にも“当時の部品”や“同じ材質”を求める。
だが今、宇宙で主流なのはチタン合金、アルミ合金、炭素繊維、セラミック。
一方、この時計に使われている鉄ニッケル合金――いわゆるステンレスは、現在コロニーや月では生産されていない。
つまり地球でしか作られていないのだ。
そのステンレスをこのコロニーまで運ぶだけで、夫人の提示額など簡単に吹き飛ぶ。
タブレットで部品会社の在庫を確認すると、このモデルのパーツがいくつか残っていた。
だが、どれも高い。
仮にすべての部品をチタン合金で切り出して入れ替えたとしても、中身はまるごと別物になる。
そんなものは“修理”とは呼べない。
それにゼンマイだけはどうにもならない。
チタン合金では軽すぎて、必要なトルクが出ない。
ローラが俺と腕時計を見てから、静かに言う。
「エレナさん。今の時代、機械式の時計を“動かす”というのは、とても贅沢なことなんです。これは、エレナさんが思っている以上に難しいことなんですよ」
この時計の修理は、趣味ならともかく、商売としては成り立たない。
ケースの歪みを補正するだけでも膨大な時間がかかる。
部品代よりも、その作業時間のほうが重い。
それに――
この夫人に、そんな莫大な金額を払わせるわけにはいかない。
そう思った。
残念だが、ここははっきり伝えなければならない――
そう口を開こうとした瞬間、店の呼び鈴が鳴った。
ローラが席を立ち、店先へ向かう。
俺は夫人に、ローラが戻るまで少し考える時間を与えた。
店頭でローラが誰かと話す声が聞こえる。
しばらくして、その声が近づいてきた。
やがてローラが戻ってきた。
呼び鈴を鳴らした人物を伴って。




