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王妃教育も社交界も、全部うんざりです  作者: 小林翼


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第29話

 司祭の声が、教会の高い天井に、静かに響き渡っていた。


「——汝、ディルクハルト・グレイウルフは、この女、アンジェリカ・ローゼンベルクを、妻として娶り、病める時も、健やかなる時も、喜びの時も、悲しみの時も、その命ある限り、愛し、守ることを、誓うか」


 ディルクハルトは、短く、深く、答えた。


「誓います」


 その声は、大きくはなかった。


 だが、教会の石壁を震わせるような、揺るぎない重みがあった。



「汝、アンジェリカ・ローゼンベルクは、この男、ディルクハルト・グレイウルフを、夫として迎え、病める時も、健やかなる時も、喜びの時も、悲しみの時も、その命ある限り、愛し、支えることを、誓うか」


 アンジェリカは、深く、息を吸った。


 胸の中で、この半年間の出来事が、走馬燈のように駆け抜けた。


 婚約破棄の夜。修道院へ向かう旅路。魔獣の襲撃。雪山の月光草。疫病との闘い。領民の感謝。王都での対決。そして、辺境への帰還——。


 全てが、この瞬間へと、繋がっていた。



「——誓います」


 彼女の声は、震えていた。


 けれど、その震えは、恐れではなく、深い、深い、幸福から来るものだった。


 ディルクハルトは、彼女の震える手を、自分の大きな掌で、しっかりと包んだ。


 司祭が、柔らかく頷いた。


「それでは、指輪の交換を」


 ヨハンが、銀の盆に乗せた二つの指輪を、恭しく運んできた。



 ディルクハルトは、小さな銀の輪を、手に取った。


 そして、アンジェリカの左手の薬指——青い宝石の指輪が嵌まる、まさにその指の根元に、結婚指輪を、そっと重ねた。


 誂えたように、二つの輪は、ぴたりと、揃った。


 次に、アンジェリカが、大きな銀の輪を手に取った。


 ディルクハルトの左手の、骨ばった薬指に、慎重に、指輪を滑らせた。彼の剣を握り慣れた、無骨な指に、銀の輪は静かに、馴染んでいった。



 司祭が、両手を広げた。


「——これをもって、両人は、夫婦となりました」


 堂内に、深い、静寂が、降りた。


 続いて、司祭は、穏やかに、告げた。


「それでは、誓いの口づけを」


 ディルクハルトは、アンジェリカの方を、ゆっくりと向いた。



 彼の灰青色の瞳が、彼女を見つめた。


 彼は、一瞬、躊躇いを見せた。


 ずっと、この男は、彼女の額にしか、唇を落としてこなかった。軽い、控えめな触れ方を、ずっと守ってきた。


 だが、今は違う。


 今日、彼は、彼女の夫となった。


 ディルクハルトは、深く、息を吸った。そして、彼女の頬に、そっと、手を添えた。大きく、温かい掌が、彼女の頬を包んだ。



 彼が、ゆっくりと、顔を寄せてきた。


 アンジェリカは、目を閉じた。


 唇が、触れた。


 それは、ほんの一瞬の、静かな触れ合いだった。けれど、その一瞬に、この半年のすべてが、込められていた。森での出会い、雪山の夜、研究室での徹夜、庭園での求婚、そして王都での闘い——すべてが、この一つの口づけに、昇華していた。


 彼の唇は、思ったよりも、柔らかかった。


 そして、少しだけ、震えていた。



 唇が離れると、アンジェリカは、そっと、目を開けた。


 ディルクハルトは、未だ、彼女の頬に手を添えたまま、じっと、彼女を見つめていた。その灰青色の瞳には、彼女が初めて見る——涙の、膜が、張っていた。


 この、冷徹な銀狼卿が。


 戦場で鬼神と呼ばれ、感情を見せぬ武人と称された男が。


 今、彼女の前で、静かに、涙を堪えていた。


「ディルクハルト様」


 彼女は、囁くように、彼の名を呼んだ。


 彼は、微かに、頷いた。


 ただ、それだけだった。



 教会の扉が、大きく開かれた。


 堂内に詰めかけていた領民たちが、一斉に、歓声を上げた。


 花びらが、雪のように、堂内に舞い込んできた。外にいた人々が、一斉に、野の花を宙に投げたのだった。白いクレマチス、淡い紫のライラック、小さな野バラの花びらが、春の光の中を、ひらひらと舞い降りてきた。


 二人の上に、花の祝福が、注がれた。


 アンジェリカは、笑いながら、涙した。



 教会の前に出ると、さらに大きな歓声が、待っていた。


 城下町のすべての人々が、そこに集まっていた。子どもたちは花を投げ、女たちは拍手をし、男たちは帽子を振った。音楽隊が、陽気な祝いの曲を奏で始めた。どこからともなく、子どもたちの合唱が湧き上がった。


 アンジェリカは、その光景に、息を呑んだ。


 これは、王都の豪奢な式では、決して得られぬものだった。


 血の通った、本物の祝福だった。



 あの、七歳の男の子が、人混みの中から、彼女の元に駆け寄ってきた。


 彼は、今日は、小さな紺色の晴れ着を纏っていた。手には、一輪の、白い野の花を握りしめていた。


「ねえちゃ!」


 彼は、息を切らせて、花を差し出した。


「これ!」


 アンジェリカは、屈んで、花を受け取った。


「ありがとう」


「おめでとう、ねえちゃ」


「ありがとう、本当に、ありがとう」


 彼女は、男の子の頬に、軽く、口づけた。男の子は、耳まで真っ赤になって、転げるように、母親の元へ逃げ帰っていった。



 その様子を、ディルクハルトが、少し離れた場所から、見ていた。


 彼は、静かに、微笑んでいた。


 ヨハンが、その傍に、そっと歩み寄ってきた。


「——閣下」


「なんだ」


「お母上様が、ご覧になっておいでだと、思われませんか」


 ディルクハルトは、しばらく、空を見上げた。


 春の青空が、高く、澄んでいた。薄い雲が、一筋、ゆっくりと流れていく。


「……そうだな」


 彼は、静かに、呟いた。


「見ていて、くれるかもしれん」



 その日の午後、城の中庭で、質素ながら温かい披露の宴が開かれた。


 領民たちが、皆、招かれた。長い食卓が並び、パン、肉、チーズ、葡萄酒——グレイウルフ領で採れる食材のすべてが、惜しみなく振る舞われた。音楽隊が軽快な曲を奏で、若者たちが踊り始めた。


 アンジェリカとディルクハルトは、食卓の中央に、並んで座っていた。


 次から次へと、領民たちが、祝いの言葉を伝えにやってきた。アンジェリカは、一人一人に、丁寧に応えた。その合間に、ディルクハルトは、時折、彼女の手を、そっと握った。


 夕陽が、傾いていった。


 中庭は、淡い橙色に染まった。



 やがて、音楽が、静かな曲に変わった。


 ディルクハルトが、立ち上がり、アンジェリカに手を差し伸べた。


「踊ろう」


「はい」


 彼女は、彼の手を取った。


 二人は、中庭の中央に進み出た。


 そして、ゆっくりと、優しく、春の黄昏の中で、舞った。領民たちが、囲んで、温かな拍手を送った。


 その輪の中で、アンジェリカの薬指では、銀の指輪が、二つ、並んで、静かに輝いていた。


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