第5節 大山鳴動にして鼠一匹
社の外へ出た瞬間、空気が変わった。
夜気は同じはずなのに、どこかだけ“硬い”。
人の意志が、山の静けさに混ざり込んでいる。
ギン子が耳をぴくりと動かす。
ギン子「……来ましたね。幻留の“縁”へ」
境内の端、鳥居の影から──
ひとりの男が、靴音も立てずに現れた。
黒のスーツに茶色のジャケット、不健康そうな細身で目のクマが深い無表情の男。
戌亥「……根津さん」
根津は、いつもの温度で微かに笑った。
優しい笑み。丁寧な声。人当たりのいい“上司”。
根津「こんばんは、戌亥くん。……探したよ」
社の中から少しだけ頭を出した真守が、息を呑む。
真守「特異対策局の……」
ギン子「真守さんは出ないで、社の中から出ないでください。」
根津は視線だけでギン子たちの方を一度確認し、すぐに戌亥へ戻した。
根津「ここは局の管轄だ。保護領域に“無断で”入るのは、少々いただけないね」
戌亥は、笑わなかった。
静かに、ただ言う。
戌亥「……尾行、してたんですね」
根津「"特異対策課"からの指令だよ。君は、、、危険でもあるからね。」
ギン子が一歩出て話す。
ギン子「根津殿。北稲荷山は確かに局の保護領域。ですが、狐の社は──」
根津は穏やかなまま、言葉を切った。
根津「ギン子さん。契約の話は、後でいい。
今日は“戌亥くん”の回収が目的だ」
回収。
その単語が、胸の奥で嫌な音を立てた。
戌亥「……俺を、物扱いですか」
根津は困ったように眉を下げる。
根津「……その顔は、知ってしまった顔だ。申し訳ないが、今回も"上層部案件"。回収せよとのことだからね。」
戌亥「根津さん。俺は逃げません。……でも、戻りもしない」
根津の笑みが、ほんのわずかに薄くなる。
根津「戌亥くんとは、良いパートナーになれると思ったのだが⋯」
次の瞬間、社の灯籠に照らされていた根津の影が伸びた。
影が一直線に戌亥の方へ奔り、
影の通った境内の土と石畳が、一本の線のように盛り上がり、槍の形になって戌亥へ突き出す。
戌亥(……地形を使う術式?)
戌亥は跳ばない。
代わりに左手──鬼の籠手を前へ出した。
ガン、と鈍い音。
槍の先端が砕け散り、破片が雪のように舞う。
真守「……っ!」
根津は驚かない。むしろ、嬉しそうですらあった。
根津「そうか。
……“守護の力”。
やはり君は──」
二撃目。三撃目。
今度は地面から“黒い杭”が連続で生える。踊るように角度を変えて襲う。
戌亥は、籠手で弾き、受け、叩き落とす。
動きは速いのに、無駄がない。
白炎も出さない。まずは“抑える”。
根津「……以前の君なら、境内を燃やしていただろうね。」
戌亥「……俺の火は、怒りの玩具じゃない」
ジャケットのポケットに手を突っ込みながら根津は不敵に笑う。
根津の足元から、黒い筋が走る。
地面の中の“根”が起き上がるように、細い束が戌亥の足首へ絡みついた。
根津「縫い留める。──“縛”」
足が止まる。
戌亥は一瞬だけ目を閉じた。
黒紋が疼く。白炎が求めてくる。
(燃やすか?)
違う。
戌亥は、言葉にしないまま“選んだ”。
白炎は、爆ぜない。
細く、鋭く、刃のように右手の指先から走る。
“この縛”だけを焼き切る。
炎は最低限。
境内も、狐たちも、根津さんも──傷つけない。
根津の目が細くなる。
根津「……制御できているんだな。素晴らしいよ」
戌亥は足を踏み出し、距離を詰めた。
籠手の拳が、根津の足元を狙う。
しかしまた、根津の足元から影が伸び、黒い盾となり戌亥の拳を防ぐ
根津「落ち着いているな。私の足元の呪印にも気づいていたか。」
戌亥「ええ⋯根津さんはそこから動けないようですし、その呪印を壊せば、影の力は使えなくなるんですよね」
戌亥(根津さんの足元から伸びる複数の影、
そしてその影が通った"地面"が槍となり盾となる⋯。)
戌亥「ギン子さんすみません!後で弁償します!」
戌亥は右手から細かく圧縮した白炎の弾丸を2つ撃ち出す
狙いは、根津の背後にある2つの灯籠
根津「制御⋯いや支配か。」
根津は右手を伸ばし、その右手の影から地面が盛りあがり、また盾となり白炎の弾丸を防ぐ
戌亥「本命は⋯こっちです。」
2つ目の白炎は根津に向かって曲がる。
根津「呪いに反応させたのか⋯!」
根津は左手を二発目の白炎へ突出し、影で防いだ。
その刹那
白炎の狼となった戌亥が超高速で根津を通り越し、灯籠を2つとも破壊した。
根津「っ!」
根津の笑みが、初めて崩れた。
根津「……なるほど。そういう使い方か」
戌亥は背後からスピードを落とさずに踏み込む。
根津を照らさないように白炎はブーストだけで最小限に抑える
体当たりしてくる戌亥に対して、
根津も影を広げて壁を盛り上げたが、灯籠の光を失った分、範囲は小さいく、影の輪郭がぼやけている。
壁に激突する瞬間
戌亥は再度全身を白炎で包み
狼のシルエットで高速旋回した
根津「⋯フェイントか!」
勢い殺さず鬼の籠手が──呪印へ。
ドン、と低い衝撃。
呪印が刻まれていた地面が破壊された衝撃で、
根津の身体が数メートル飛び、石畳に転がった。
だが根津は受け身を取り、すぐ立つ。
根津「痛いなぁ」
戌亥「まだやりますか」
根津は服の埃を払う。
表情は穏やかに戻っている。けれど目だけが鋭い。
根津「仕方ないさ。……蛇神さんの指令は絶対だ」
戌亥(特異対策課の蛇神さん⋯やはりあの人の指令か。)
根津は両手を広げ、境内の“境界”へ触れた。
根津「戌亥くんには、この呪いを見せたことはなかったな。」
空気が軋む。
ポケットから出した根津の左手から藁が伸びる。
藁は瞬く間に伸び、繁殖し
洪水のように戌亥の周りを囲む
地面が、天井がないのに“圧”を作り始める。
根津「君を壊したくはない。だから──動きを止める」
次の瞬間、戌亥の周囲にたくさんの“釘”が落ちた。
戌亥は、白炎を一気に上げ周囲一帯を吹き飛びしたくなる衝動を抑えた。
代わりに──火力ではなく“方向”を選ぶ。
戌亥は床を蹴り、まだ藁に覆われていない“空”へ走った。
籠手で襲いかかる“藁”を殴り、亀裂を作り、そこへ白炎を流し込む。
枠が割れる。
火は爆発しない。溶断だけする。
根津「……!」
戌亥は割れた隙間から滑り出る。
そして、根津の懐へ。
右手の黒紋が、静かに脈打つ。
戌亥(燃やすのは……この人じゃない)
白炎は根津のを避け、根津が未だに手を突っ込んだままの“右ポケット”だけを焼いた。
地面の根が崩れる。
同時に、籠手の一撃。
根津の膝が落ちた。
ガク、と音がした。
根津「……っ」
戌亥は追撃しない。
籠手を下ろし、息を吐く。
根津は膝をついたまま、苦笑した。
根津「ははは⋯
君こそが“特異点”かもしれない。
⋯と、上層部が言っていた意味が⋯わかる気がするよ」
戌亥「……特異点?」
根津「……今は逃げなさい。
蛇神さんは……僕のように甘くないよ。」
その言葉だけ残して、根津は倒れた。
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境内に、静けさが戻る。
真守が駆け寄ろうとするのを、ギン子が手で制した。
ギン子「……触れない方がよいでしょう。局の術式には、追跡の“縁”が付くこともあります」
戌亥は根津を見下ろし、拳を握った。
(特異対策局を、本格的に敵に回したのかな)
胸の奥が冷える。
狐たちのことがよぎる。
戌亥「……ギン子さん。ここの皆さんは……大丈夫ですか」
ギン子は静かに頷いた。
ギン子「我らは局と“契約”を結んでおります。利があるうちは、滅ぼされることはありません」
戌亥「利が……あるうちは」
ギン子「はい。──だからこそ、あなたは急いだ方がよい」
ギン子は社の奥へ視線を向ける。
ギン子「先ほどお伝えした式神術式の専門家。黒羊家。ここよりもっともっと北。北第3地区におります」
戌亥は、真守を見る。
真守は一瞬、言いかけた。
“私も行く”と。
でも、言葉を飲み込んで、代わりに強く頷いた。
真守「……わかってます。」
戌亥「……うん」
真守は唇を噛み、拳を握ってから、言った。
真守「でも、私……ここで祈りの修行を続けます!
ギン子さんたちと一緒に。先輩のこと、祈ります」
戌亥「……ありがとう」
真守は一歩近づいて、小さく胸を張る。
真守「先輩。お願いがあります」
戌亥「なに」
真守「痛いとき、キツイときは"助けて"って、言ってくださいね!」
戌亥は、少しだけ笑った。
戌亥「……壊れそうになったら、助けてって言う」
真守の目が、少し潤む。
真守「……約束です」
戌亥は頷き、白い犬のぬいぐるみを胸の内側へそっとしまった。
犬童の声が、奥でうるさく笑った気がした。
ギン子が、深く頭を下げる。
ギン子「戌亥殿。北へ。黒羊家へ。……どうか、幸運を祈ります。」
戌亥は鳥居を振り返り、社と狐たちと真守を目に焼き付けた。
そして、前を向く。
戌亥(復讐じゃない。知るために。救うために)
白炎は静かに、足元で揺れた。
籠手は、重く確かなままそこにある。
戌亥「……行ってきます」
真守「いってらっしゃい。戌亥先輩」
北の夜へ、戌亥は歩き出した。
――第二章 終
――第三章へ続く




