冷酷公爵×拾われ令嬢、偽聖女への逆襲劇
聖堂には光が差し込み、
聖女クラリスが白衣を翻して壇上に立った。
「皆さまに神の加護がありますように」
柔らかな声が響くたび、人々の顔がほころぶ。
子どもたちは花を掲げ、司祭たちは一斉に跪いた。
その笑みの下に潜むものを、誰も疑わなかった。
ただ一人――アルヴァン・ディール公爵を除いて。
彼は群衆の中で静かにその女を見つめていた。
完璧に整えられた微笑、その奥に潜む闇を知りながら。
だが、手は出せない。
あの完成された“聖女の笑み”を前に、
ただ冷ややかに見送るしかなかった。
◆
アルヴァン・ディール公爵は、その日も書類の山に埋もれていた。
国境の徴税、軍備の再編、疫病対策――
王都に渦巻く火種は尽きない。
だから婚約の報せが届いたときも、
彼は無造作に紙へ判をひとつ落とし、それで終わりにした。
「エメル伯爵家の令嬢、リリアンヌ。家柄は古いが力はない。
公爵家の足を引っ張ることはないでしょう」
家宰の言葉に、アルヴァンは眉ひとつ動かさなかった。
政略で選ばれた娘に情を向ける暇などない――
それが彼の答えだった。
初めて顔を合わせたのは、書類を整えた数日後の執務室だった。
「ひゃっ……あ、あのっ、は、初めまして。
リリアンヌ・エメルと申します!」
声が半音上ずる。
薄い栗色の髪をきっちり結い上げ、白い肌は緊張でさらに青ざめていた。
灰青の大きな瞳は怯えた小鹿のように揺れ、裾を持つ指が小刻みに震える。
耳まで赤くして深く頭を下げる姿は、なるほど不器用そうだった。
「……ディール公だ。今後は、公爵家の婚約者としてふるまえ」
「は……はい……」
リリアンヌは必死に背筋を伸ばした。
けれどアルヴァンはすでに視線を紙へ戻している。
「家宰に案内させる。身の回りのことは任せろ」
それだけ言い、ペンを走らせた。
金の瞳が彼女を見上げることはない。
「……失礼、いたします」
小さな声とともに、扉が閉じた。
紙束を繰りながら、彼は低くつぶやく。
「……支障がなければ、それでいい」
婚約とは、政務を妨げないためのただの形式――
それが彼の結論だった。
◆
リリアンヌは婚約者として公爵邸に住み込み、
将来の公爵夫人の教育を受けることになった。
「教育係のマリナです」
「リリアンヌ様。まずは基本の礼から始めましょう。裾のさばき方、姿勢、歩幅――」
「は、はいっ……!」
初日、彼女は何度も裾を踏み、転びかけた。
それでもすぐ立ち上がり、笑顔で「もう一度お願いします」と頭を下げた。
その素直さに、冷ややかだった視線がわずかに揺らぐ。
食卓ではうっかり音を立て、帳簿では「む、難しいですね……」と眉を寄せる。
それでも深呼吸し、もう一度挑む。
「……この計算、合っていませんわ。ここを足し忘れています」
「えっ、あ……す、すみません。でも、足せば……あ、こうかな?」
「……そうです。覚えは早いのですね」
廊下で皿を落とした下働きを見れば、慌てて一緒に拾い「大丈夫ですよ」と笑う。
庭師には「きれいですね、とても素敵」と微笑んだ。
――次第に、冷たかった屋敷の空気は少しずつ和らいでいく。
◆
その日の夕刻。
リリアンヌは小さく息を整え、執務室の扉を叩いた。
「……公爵様。今日もお仕事、お疲れさまです」
まだ声は上ずり、笑顔もぎこちない。
盆のカップから、選んだ茶葉の香りがふわりと立つ。
「今日は、わたしが選んだ茶葉を持ってきました。……どうぞ」
「……ああ」
アルヴァンは手を止め、黙って受け取る。
緊張のあまり、彼女はつい見つめてしまった。
「……」
「ご、ごめんなさい、まじまじ見てしまって……」
「……構わん」
「ありがとうございます。少しでも、お仕事の気が紛れますように」
おずおずと浮かぶ笑みは、ひたむきでどこか不器用――それでも温かい。
金の瞳が一瞬だけ揺れ、すぐ紙へ戻る。
だがペン先はかすかに止まっていた。
――その日を境に、アルヴァンの意識のどこかで、
屋敷のどこに彼女がいるのかが、わずかに引っかかるようになった。
◆
公爵家の代表として、彼女はマリナを伴い初の大きな式典――春の祈祷祭に出席した。
「すみません……なんども読み間違えちゃって」
「……あのくらいなら、そこまでひどくはありませんよ」
緊張で幾度か噛んだが、目立つ失態はなく、式はつつがなく終わる。
帰路につこうとしたとき、柔らかな声が背に届いた。
「初めてで緊張なさっていたでしょう。とても立派でしたわ」
振り向くと、白衣の聖女クラリスが微笑んでいた。
その言葉に、リリアンヌは肩の力を抜き、ほっとした笑顔で返す。
「ありがとうございます」
――数日後。公爵家に一通の招待状が届いた。
『先日のご縁をうれしく思い、ささやかな茶会にお招き申し上げます。
未来の公爵夫人に、孤児院支援の新しい計画をお話しできれば光栄です』
差出人は聖女クラリス。
公的な印はなく、あくまで私的な茶会という体裁だった。
「……どうなさいますか、お嬢様」
マリナが慎重な声で問いかける。
「い、行ってみようと思います……。聖女様がわざわざ……」
マリナは同行を申し出たが、返事が届く前にクラリスから丁寧な使者が訪れた。
「このたびはほんの内輪の集まりにございますゆえ。
どうぞお嬢様おひとりでお越しくださいませ。
未来の公爵夫人の方と、ゆっくりお話ししたいのです」
やわらかな微笑と共に、断る余地のない言い方だった。
マリナはわずかに眉を寄せたが、家宰はあっさり許可を出した。
「聖女様からの誘いを断るわけにはいかん。お前の経験にもなる」
結局、リリアンヌはひとりで出かけることになった。
「聖女様が私を覚えてくださっているなんて……うれしい」
胸の奥が少し温かくなりながら、彼女は馬車に揺られた。
◆
「リリアンヌ様、いらっしゃいませ。今日はお越しくださりありがとうございます」
「お、お招きくださりありがとうございます」
小さなテーブルに茶器と書類が並んでいる。
クラリスは微笑みながら、一枚の束を差し出した。
「これは孤児院への寄付品の目録ですの。
もしよろしければ、未来の公爵夫人として確認していただけませんか?」
「え、わ、わたしが……?」
「ええ。公爵家からも物資が届きますでしょう?
こういうことを知っておくと、いずれ役立ちますわ」
「わ……わかりました……」
数字が並ぶ行を指でたどりながら、懸命に読み進める。
不慣れでも逃げずに取り組む姿を、クラリスはにこやかに眺めていた。
「まあ……お優しい方ですこと」
◆
こうして、リリアンヌは時折ひとりで呼び出されるようになった。
孤児院の物資の数合わせ、寄付金の記録写し、祈りの式次第の準備――
どれも「未来の夫人なら知っていて当然」と言われれば断れないものばかりだった。
しかし、ある日。
「毛布が足りないのですって」
「え? わ、私が……?」
「まあ、リリアンヌ様がうっかりされたのですね」
周囲に笑いが広がる。
「リリアンヌだもんな」「またか……」
やがて帳簿の金額が合わない、献金の受け渡しで数字がずれる――
そんな“失敗”がじわじわと増えていった。
最初は励ましてくれていた人々の視線が、次第に冷たくなっていく。
その夜。リリアンヌは帰宅して机に突っ伏した。
マリナが心配そうに見守るが、彼女はかすかに笑って「大丈夫」とだけ答えた。
アルヴァンは政務で帰宅が遅く、この一連の出来事をまだ知らないままだった――。
◆
初夏の午後。
ディール公爵家の執務室は、いつもと同じように書類の山に覆われていた。
その扉を、リリアンヌが両手で押し開ける。
白い指先が震えているのを、アルヴァンは見逃さなかった。
「……リリアンヌ。どうした」
彼女はかすかに笑った。
だが、その笑顔は疲れ切っていた。
「こ、公爵様……お時間をいただきたく参りました」
背後でマリナが心配そうに立ちすくむ。
アルヴァンは手を止め、視線を上げた。
「話せ」
リリアンヌは胸の前で指を組み、深く息を吸った。
それでも声は震えている。
「わたくし……この婚約を、解かせていただきたく、存じます」
空気が一瞬、止まった。
「……何を言っている」
「……公爵家の婚約者として、恥を重ねました。
慈善の場でも、祈祷会でも……何度もミスをしました。
皆さまが“頼りない”と笑うのも、事実です」
アルヴァンの眉がわずかに動く。
「お前は努力していた。知っている」
「努力しても……足りませんでした。
このままでは公爵家の重荷になるだけ……。
頼りない娘など、要らないでしょう」
彼女の柔らかな笑みはもう消え、憔悴しきった顔がそこにあった。
「……そうか」
アルヴァンはしばし黙し、低く問う。
「お前の意志か」
「……はい」
静かな返事。
アルヴァンはしばし沈黙したのち、低く告げる。
「……わかった。正式な書状をこちらからエメル伯爵家に送る。
それで解消の手続きを進めよう」
「……ありがとうございます」
小さく息を吐いたリリアンヌは、もう一度だけ頭を下げ、静かに部屋を後にした。
マリナが声をかけようとしたが、アルヴァンは片手を上げて制した。
扉が閉まると、執務室には静寂が落ちた。
彼はそのまま机に視線を落とし、しばらく動かなかった。
――数日後。
エメル伯爵家から正式な婚約解消の書類が届いた。
同じ朝、リリアンヌは公爵家を去ったと伝えられる。
アルヴァンは静かに立ち上がり、彼女の部屋を訪れた。
机の上に、飾りの欠けた銀の髪飾りがひとつ残されていた。
彼はそれを静かに手に取った。
それきり、彼は触れることも、誰にも話すこともなかった。
◆
リリアンヌが去ってから、季節がひとつ巡った。
監査報告を受けていたときのこと。
公爵家は相変わらず政務の渦中にあり、アルヴァンも休む間もない日々を送っていた。
だが、彼の机の片隅には、あの銀の髪飾りがひっそりと置かれたままだった。
ある日、孤児院の帳簿を差し出した若い書記官が、ふとつぶやいた。
「このあたりの記録……そういえば、以前はリリアンヌ様が――聖女様のお指示で」
アルヴァンの目が鋭く光る。
「……聖女の指示だと?」
「は、はい。あの頃は聖女クラリス様が“未来の公爵夫人にぜひ経験を”と仰って……。
物資の管理を任せていらしたと聞いております」
「……」
「でも、その……記録の紛失や数字の不一致が続いて。
皆、“おっとりしてるから仕方ない”って……」
書記官は青ざめて口をつぐんだ。
アルヴァンはしばし沈黙し、低く「下がれ」とだけ告げた。
扉が閉まる音を聞きながら、彼は指先で机を軽く叩いた。
(リリアンヌが……あの娘が、そこまで無能だったか?)
淡々とした顔のまま視線を落とす。
胸の奥にざらりとした違和感が残る。
慎重なはずの彼女が、あれほど立て続けに数字を間違える姿は想像できない。
「……マリナ」
呼びかけられた彼女が背筋を伸ばす。
「リリアンヌは、そんなに数字を取り違えるような女だったか」
マリナは一瞬言葉を選び、静かに首を横に振った。
「……習いは遅い方でしたが、一度覚えたことは正確にこなす方です。
むやみに間違いを重ねるような方ではありませんでした」
アルヴァンの瞳が細くなる。
「そうか」
それ以上言葉は発さなかったが、金の光の奥に冷えた何かが宿った。
その日を境に、別の場所からも声が耳に届くようになった。
廊下ですれ違う役人たちのひそひそ声。
「毛布の数が足りなかったって、あの時の件だろ?」
「リリアンヌ様が数を間違えたって話だったな」
「公爵家の娘だっていうのに、頼りなさすぎるってさ」
施療院の関係者からも断片的な噂が聞こえる。
「聖女様が“学びの機会を”とおっしゃってたわね」
「でも結果は……。数字をよく間違えていたし」
「泣いて謝っていたって聞いたけど、本当なのかしら」
ある晩、執務室で報告を終えたマリナが小さくこぼした。
「……あの頃のお嬢様は、よく疲れた顔をして帰ってこられました。
けれど何があったのかは、語られず……。
あの時、もっとお声をかけていればと、今となっては悔やまれます」
アルヴァンは黙ったまま拳を握りしめる。
だが――証はない。
ただの噂ばかりだ。
聖女クラリスはいまだ清らかな象徴として人々の崇敬を集め、
公の場で彼女を告発するなど無謀に等しい。
軍政を預かる公爵家が、王家の庇護を受ける聖女を告発するのは容易ではない。
証拠があっても、宗教法廷の許可と王命を経ずに動けば「軍が政治に介入した」と見なされ、
王政と軍政の均衡を崩しかねない。
やがて彼のもとに届いたのは、
リリアンヌが地方の小貴族との縁談を受け入れ、
すでに新しい家で穏やかな日々を送っているという報せだった――。
机の上には、あの日の銀の髪飾りが静かに飾られている。
彼はただ、長い沈黙の中で指先に冷たい重みを感じるだけだった。
◆
――リリアンヌが去ってから、二年が過ぎた。
公爵家の空気は相変わらず冷え、彼自身も政務に忙殺される日々を続けていた。
そんなある日、処刑台にかけられかけたひとりの娘を保護することになった。
セシリア・ローラン――不器用で、学も礼儀も持たず、
聖女クラリスの慈善の名のもとに罪を押しつけられた娘だ。
そのとき、彼は群衆の前で吐き捨てた。
「くだらん女だ。だが、くだらぬ理由で殺されるのはもっとくだらん」
あの一言は、公爵としての冷徹な判断であり、同時に――
かつて守れなかった誰かへの、遅すぎた誓いでもあった。
彼はセシリアを屋敷に迎え入れ、徹底的に鍛え上げた。
始めこそ拒絶し、要領の悪さから何度もつまずいた彼女だったが、
やがて覚悟を決めると、顔を上げ続けた。
「……お前は、立ち上がるか」
その日から、彼女は何度倒れても諦めることなく前を見た。
彼は無言で銀の髪飾りを見やり、監査院へ照会を送った。
まもなく王命が下り、臨時監査の権限を得る。
そして――その時は訪れた。
◆
王宮で催された夜会。
煌めく燭台の下、豪奢な広間には緊張が張り詰めていた。
「この国では、すべての寄付金はクラリス様を経由して
孤児院や施療院に渡ります」
セシリアが机上の帳簿を叩いた。
それは、施療院に彼女自身が足を運び、閲覧申請をして写しを手に入れた記録だ。
大広間は息を呑んだまま静まり返った。
「その記録から、七十金の行方が消えています。
それを説明できるのは――ただ一人。
……聖女クラリス様、あなたです」
クラリスの顔から血の気が引いた。
「ち、違いますわ……これは、何かの間違いで……!」
狼狽する聖女の声が震える。
「――取り押さえよ」
金の瞳が冷たく光り、広間を射抜いた。
「王命を預かるこの公爵が命ずる。
聖女であろうと例外はない」
衛兵たちがすぐに動き、クラリスを取り囲む。
「やめなさい! 逆恨みでしょう!?
あなたは私に復讐したいだけ――!」
「……私は公だ」
低い声が広間を支配する。
「この国の寄付帳簿は王命のもとにある。
数字を汚し、金を奪った者は、誰であれ裁かれる。
聖女であろうと例外はない」
「いやっ、放しなさい! 私は聖女なのよ!
神に選ばれた……!」
その叫びは無情に遮られた。
「――連れていけ」
短く鋭い命が下り、白衣が人々の中に消えていく。
アルヴァンは、静かに立ったまま去り行くセシリアを見送った。
◆
夜会が終わった後、彼は邸の応接間にいた。
煌びやかな広間とは違い、ここは静かな空気に包まれている。
窓辺に立ち、しばし黙したのち、振り返って口を開いた。
「……くだらん女では、なかったな」
彼女――セシリアが目を見開く。
だがすぐ、苦笑を浮かべて首を振る。
「いいえ、私はくだらない人間でした。
抜け出せたのは、あなたのおかげです。
……感謝しております」
その笑みは柔らかく、まっすぐだった。
俺の胸の奥で、何かが小さく揺れる。
驚きが一瞬、視線に走ったのを自覚する。
次いで浮かんだのは――氷を溶かすような淡い光。
「そうか……」
そう返しながら、机の上の銀の髪飾りに手を伸ばした。
飾りの石は欠け、今ではもう使い物にならない。
(守れなかったものがある。取り戻せないものもある。
それでも――この娘が、俺の届かなかった場所まで辿り着いた)
後悔を埋めるように引き取った少女が、今や自らの力で立ち、誰も裁けなかった悪を打った。
遅すぎた悔いは消えない。
だが、わずかに救われた気がする。
蝋燭の灯が揺れ、壁に映る影が重なった。
氷のように固めてきた胸の奥に、ひとすじの温もりが差し込んだ。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
ブックマークや感想・評価などいただけると励みになります。
◆お知らせ
今後の新作予告や更新情報は、Twitter(X)でお知らせしています。
→ @serena_narou
ぜひフォローしてチェックしていただけたら嬉しいです。




