パン屋とパン勇者
朝の街は活気に満ちていた。
露店の掛け声、焼きたての香ばしい匂い、馬車のきしむ音。
昨日の赤印依頼を果たした俺たちの名前は、すでに街中で広まり始めていた。
――いや、正確には「俺の名前」じゃなくて「パン勇者」だが。
「見て! あの人よ!」
「パン食べて戦ったっていう、あの……」
「パン勇者!!」
通りを歩くだけで、子どもたちが指を差し、大人たちまでニヤニヤしながら噂している。
俺はフードを深くかぶり、顔を隠した。
「……恥ずかしい」
「いいじゃねぇか! 人気者だぞ!」
リオが腹を抱えて笑いながら肩を組んでくる。
「俺が求めてたのは“伝説の勇者”みたいな扱いであって、パン食いのネタじゃねぇ!」
「いやいや、街中の奴らが笑って暮らせるのはお前のおかげだ。誇っていい」
リオはあっけらかんと言うが、アイリスは冷ややかに一言。
「……私は『パン勇者』って呼ぶのは嫌。変な人と一緒だと思われる」
「いや仲間だろ!? 一緒に戦ったじゃん!?」
シルフィエルは両手を合わせ、目を輝かせていた。
「でも、いい響きですよ。“パンで癒す勇者”。人々の心も救えそうです!」
「そんな聖人みたいな解釈しないでくれ!」
⸻
人目を避けるため、裏通りを抜けて歩いていると、香ばしい匂いに足を止めた。
木の看板には大きく「パン工房・ミレット」と刻まれている。
「……おい、入ってみるか?」
「えっ、ここでパン買うの? 恥ずかしくね?」
「何言ってんだ。お前のスキル発動源だろ? むしろ聖地巡礼だ」
リオに背中を押され、俺はしぶしぶ店の扉を開けた。
カランカラン――。
店内には焼きたてのパンの匂いが充満していた。
丸パン、クロワッサン、干し果物を練り込んだ甘いパン……棚いっぱいに並ぶ姿に思わず喉が鳴った。
「いらっしゃいませ!」
奥から出てきたのは、小麦色の肌をした元気な少女だった。
栗色の髪を三つ編みにまとめ、エプロン姿がよく似合う。
「お客さん? ちょうど今、焼き立てが出たとこだよ!」
彼女は笑顔でトレイを掲げた。湯気の立つ黄金色のパンがずらりと並ぶ。
「う、うまそう……」
俺は思わず見惚れた。
「どうぞ試食してって!」
差し出されたパンを一口かじった瞬間、口の中に甘さと香ばしさが広がった。
そして――
ピコーン!
目の前にシステムウィンドウが現れる。
【スキル発動:パンがうまい】
HP・MPが全回復しました。
「ちょっ……店でスキル発動すんなよ!」
リオが吹き出しそうになる。
「だってうまいんだよ! 勝手に回復すんだよ!」
俺は慌てて口を押さえるが、シルフィエルはうっとりと呟いた。
「なんて美しい循環……ユウトさんの体とパンの調和が見えるようです」
「いや、そんな芸術的に言うな!!」
少女は目を丸くした。
「……あの、もしかして……パン勇者さんですか?」
「ちが――」
否定するより早く、リオが爆笑しながら答えた。
「そうだそうだ! コイツが噂のパン勇者だ!」
「わぁ! 本物!? うちのパンで世界を救ってください!!」
少女は両手を握りしめ、瞳を輝かせる。
「いや、世界はパンで救えねぇだろ!」
「救えます! だってお兄さんの顔、パンを食べた瞬間すっごく幸せそうでした!」
「う、うわぁ……」
俺は耳まで真っ赤になり、頭を抱えるしかなかった。
⸻
買い物を終えて外に出た俺は、ため息をついた。
「……俺、絶対“パン勇者”で定着するな」
「安心しろ。俺はもうその呼び名しか使わねぇ」
「リオ! お前はもう少しデリカシーを持て!」
アイリスは袋を抱えたまま、珍しく口元を緩めた。
「でも……悪くない。パン屋の子、あんなに嬉しそうだった」
「……あ」
その言葉に俺は一瞬黙る。
街の人々の笑顔。
パン屋の少女の無邪気な喜び。
俺のふざけたスキルで、人が笑ってくれるなら――
「……まあ、パン勇者でもいいか」
思わず小さく呟いていた。
⸻
その夜。
街の片隅の酒場で、黒い外套を纏った男たちがひそひそと話していた。
「……聞いたか。パンを食って無尽蔵に戦う異邦人」
「魔王軍にとっても脅威になる。放置はできん」
テーブルに置かれた地図に赤い印が付けられる。
そこには――俺たちがいる街の名が刻まれていた。
次の影は、すぐそこまで迫っていた。