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ボア・ファング襲撃戦のあとで

広場が静寂を取り戻すまで、しばらく時間がかかった。木屑と果物の匂い、踏みつけられた草のにおい、そしてまだ微かに残る血の臭いが混ざり合っている。人々は呆然と地面に座り込み、逃げ惑った子供たちは母親の膝にしがみついて震えていた。


「……皆、大丈夫か?」

俺は声を振り絞って周囲に向けた。返ってきたのは泣き声やすすり泣き、時折上がる安堵の声だった。


「勇者さん、ありがとう!」

「助かったわ!」


誰かがそう叫ぶと、辺りの空気が一斉に軽くなった。見知らぬ町で、見知らぬ人たちが笑いながらこちらを見ている。理解できないほど温かい視線だった。胸の中の何かが、ほんの少しだけ震えた。


――僕は、これを待っていたのかもしれない。


あのブラック企業の地下で、終わりの見えない残業と理不尽に押しつぶされそうになっていたころ、こんな目で誰かを救うことなんて想像もしていなかった。けれど今、ここにいると、そのときの自分が遠く霞んで見える。


「ユウトさん、無理はしないでくださいね」

シルフィエルの声が、俺の耳に柔らかく響く。彼女は風のようにふわりと浮き、笑っていたが、その瞳には真剣さが宿っていた。


「わかってる。……でも、あの子(商人の小さな息子)を見てられなかったんだ。パンで治してよかった」

俺は、さっきパンで治した商人の息子を思い出す。壊れた屋台の陰で、男の子が膝を擦りむいて泣いていた。俺は躊躇なく袋からパンを取り出し、齧らせた。彼の顔色はみるみる明るくなり、傷は赤みを帯びながらも塞がっていった。


「――ほんとに、パンで治るんだな」

傍らにいた老婆が涙をこぼしながら呟いた。周囲の目が一斉にこちらへ集まる。好奇と畏敬と、少しの恐れが混じった視線。


「パンがあれば不死身だってさ。……いや、冗談だけど」

リオが肩をすくめて笑った。その豪快さが周りの空気を和らげる。彼の存在は、俺にとってただの“助けてくれた剣士”以上のものになりつつあった。



賞金と報酬、それから噂


街長(とにかく胸の厚い老人)が、我々を広場の中央へ呼んだ。公式に報奨を渡すためらしい。俺たちは僅かながらのコインと、焼きたてのパン、それに住民からの感謝状をもらった。パン屋の主人は「勇者さん、お礼です」と言って笑いながらもう一つ大きなパンを差し出した。俺はそれを受け取り、少し照れくさく笑った。


だがその場で、噂が生まれる。魔獣を倒した“見慣れない旅人”が、パンを食べて回復していた――という話は瞬く間に広がった。子供が真似してパンを齧る真似をしてみせ、年寄りたちは肩を寄せて「勇者ではないのか」と囁き合う。


「俺、勇者って言われるの嫌なんだけどな……」

内心ではそう思いながらも、外では困った顔を作る。人々の期待は嬉しいけれど、同時に重い。戻れない世界のことを思うと、胸が締め付けられる。だが、今はまだ──この街にいる人たちを助けたい。その気持ちが、徐々に前面に出てきていた。


「噂は広がるだろう。だが、注目を浴びるってのは良い面もある。援助や情報が集まるからな」

リオは冷静に言った。彼は喜劇的な豪傑ぶりの裏で、街の生態や人の行動を読み取る器用さを持っている。危険を察知する勘も鋭い。


「でも、変な注目は嫌だな」

「変なのが寄ってきたら俺がぶっ飛ばすから安心しろ」

リオが言うと、子供たちが「かっこいい!」と目を輝かせた。俺はなぜか照れてしまって、ふとパンを齧りながら俯いた。



冒険者ギルドへの道。だが、手続きで躓く


夕刻、リオの案内で我々は冒険者ギルドへ向かった。ギルドの建物は重厚で、入り口には依頼の札がびっしりと貼られている。中に入ると、事務的な空気と活気が混ざり合っていた。受付の女性(小柄で目が鋭い)は、名簿と書類の山を抱え、忙しそうに手を動かしている。


「報告、魔獣討伐の件で登録を――」

リオが受付に一言告げると、受付の女性の目が俺に止まった。


「あなたが、その……見慣れない旅人ね? 詳しく話を聞かせて」

話していくうちに、我々がボア・ファングを倒したいきさつ、そして俺の“パンで回復する”件がぼんやりと伝わっていった。受付は雲行きを変え、控えめに興奮しているのがわかった。


「……これは、噂の『精霊契約者』というやつかしら?」

受付の女性が小声で呟いた。シルフィエルが半歩前に出て、やや誇らしげにそのまま姿を浮かべる。受付の女性は驚愕しつつも、手続きを進めた。


だが、問題が起きる。登録に必要な身分証明、推薦者、そして登録費用だ。俺には身分証はない。推薦者はリオが名乗ってくれたが、登録費用がネックになった。ここでみるみる俺の顔が青ざめる。


「金はあるのか?」

リオが真顔で訊く。俺は首を横に振った。


「しょうがねぇな……」

リオは財布を取り出し、渋りながらも紙束を受付に差し出した。俺は言葉も出なかった。彼が軽く笑って「俺の分もこれで賄ってやる」と肩を叩く。貸しを作られた気分で、俺は居心地が悪かったが、その暖かさに素直に救われた。



夜、宿屋での対話とリオの素顔


ギルドに登録を済ませた後、リオは俺を近くの宿屋に連れて行った。宿屋の女将は一見厳ついが気の良い女性で、部屋は粗末ながら居心地が良かった。夕食は大きなスープとパン。町のパン屋からの差し入れだ。


「兄ちゃん、さっきは助かったわ。子供が元気になってさ」

女将がにこやかに微笑む。俺はただ頷いた。温かいスープが体に染みる。目の前の湯気だけで、なぜか涙が出そうになる。


食事の後、リオと俺は宿の裏手の小さな空き地に出た。月が低く、風が穏やかに吹いている。シルフィエルは俺の肩に寄り添い、星空を見上げていた。


「リオさん、さっきのこと……なんで俺を助けたの?」

俺は率直に尋ねた。あの時の“大丈夫だ”という一言の裏にあるものを知りたかった。


リオは一瞬目を細め、遠くを見るような顔になった。


「俺はな、昔はこの街の傭兵だった。だが、ある時、城の上層部の腐敗を知った。命令で民間人を犠牲にする話があってな……俺はそれを受け入れられなかった。反発して地位も家も失った」

彼の声には、怒りと疲労、それに諦観が混じっている。


「それで、ここへ戻ってきた。誰もが安心して暮らせる町を守りたくてな。強くなりたい――でも、弱い人間を守るのは、力だけじゃ足りねぇって気づいたんだ。だから俺は、剣で、そして街の人たちの信頼でここにいる」

彼は軽く笑った。それは悲しみを含んだ笑いだった。


「それで、誰かを守るって……簡単じゃねぇってわかるだろ。だからこそ、こういう“偶然”を見過ごせなかった。お前、ただの偶然じゃない。妙な“風”を感じたんだ」

リオは拳を軽く握って空に向けた。月明かりに赤髪が淡く光る。


俺は胸の奥が熱くなるのを感じた。リオの言葉は、ただの同情でも英雄的な持ち上げでもない。生き方そのものの宣言だった。彼は自分を取り戻すために、あるいはもう二度と誰かを裏切りたくないという覚悟でここにいる。


「俺も、昔のことは忘れられない。でも、ここで誰かの役に立てるなら、それでいいと思うようになった」

リオは俺をまっすぐ見つめた。その視線に、期待も、試練も混じっているように思えた。


「ユウト、お前は……どうだ?」

彼の問いに、俺は一瞬言葉を詰まらせた。ブラック企業での自分と、ここでの自分。その間にあるものを、どう説明すればいいのか。


「帰る理由がない、って最初は思った。……でも、ここで誰かを助けると、あの頃の苦しみが無駄じゃなかった気がしてくるんだ。楽しい、って思えることもある。恥ずかしいほど単純だけど」

俺は小さく笑った。リオはそれを聞いて、にやりと笑った。


「よし、それなら喧嘩する価値はありそうだ」

「喧嘩っていうか、これから一緒にやるってこと?」

「そうだ。だが条件がある」

「条件?」


「お前、見境なくパンを配るなよ。街のパン屋が悲鳴を上げるからな」

リオの冗談に、俺は思わず吹き出した。月は俺たちの笑いを優しく包み込むように瞬いていた。



シルフィエルの告白と、魔法の練習


宿屋に戻ると、シルフィエルがふと真面目な顔になった。


「ユウトさん、私からも一つお願いがあります」

「ん?」

「あなたは戦いで強くなると言いましたが、無計画に力を使うのは危険です。魔力は循環しますが、扱いを誤ると周囲を傷つけることがあります。だから、私と訓練をしましょう」

彼女の声は優しいが、その内容は厳しい。


翌日から、俺は風の使い方をシルフィエルとリオに付き合ってもらいながら基礎から練習することになった。まずは「意識の切り替え」。シルフィエルは小さな羽根(風の欠片)を作らせ、それを操る術を教える。


「イメージを細かく持つこと。一本の矢を放つのと同じで、風も一点に集中すれば力が落ち着きます」

シルフィエルはそう言って、俺の手首を優しく取る。彼女の魔力は涼やかで、教え方が丁寧だ。最初は風が手元で暴れるだけだったが、何度も繰り返すうちに小さな渦が指先に宿るようになった。


リオはその横で腕を組み、無骨な励ましをくれる。

「力が暴れるうちは、足場を固めろ。剣でも魔法でも、体を支えられなきゃ使い物にならねぇ」

彼の言葉は理にかなっていて、俺は次第に身体と魔力のラインを感じられるようになった。


訓練は地味で遠回りに見えたが、確実に成果が出る。風の刃の切っ先が安定し、範囲や速度を自分で調整できるようになった。シルフィエルは更に先の技を少しだけ見せてくれた。小さな“旋風”を作り、相手の重心を崩す応用。これを使えば、体格差のある相手とも殴り合わずに戦える。


「ユウトさん、あなたには精霊親和性Sがある。それは非常に珍しい。正しく育てれば、精霊のように風をまとうことも可能です」

シルフィエルの言葉は、まるで未来を約束するように柔らかい。だが同時に、重みもある。俺はMPをパンで回復しつつ、自分の力量を冷静に見つめ直した。



小さな行動が生む大きな波紋


ある朝、俺が市場でパンを買っていたとき、小さな出来事が起きた。荷台から落ちた籠を拾おうとした年配の女性が腰を痛めて倒れた。周りの人々が慌てる中、俺はとっさにパンを差し出し、回復させた。女性は立ち上がり、驚いた目で俺を見た。


「ほら、さっきも見たでしょう? パンで治すんですって!」

一人の商人が叫ぶと、たちまち人だかりができた。子供が近づき、掌をかざして「魔法見せて!」とねだる。俺は照れくさくも、少し戸惑いながらも、簡単な風の渦を作って見せた。歓声と拍手が上がる。


この小さな親切が、街の中で話題になり、評判となる。翌日には「パンの勇者」として噂が小さな火の粉のように広がっていた。嬉しい反面、気がかりもあった。噂が広がれば、それだけ注目も増え、良からぬ者たちも寄ってくる。シルフィエルは慎重だった。


「評判は武器にもなるし、標的にもなります。私たちは準備を怠らないようにしましょう」

彼女の冷静さは、リオの豪胆さといいバランスを作った。



夜明け前の影――予感


その夜、屋根の上で物陰に潜む影があった。細い煙草のようなものを口にくわえ、冷たい目で街を見下ろしている。彼は短い笛を取り出し、内側に仕込まれた小さな鏡でこちらを覗いた後、静かに口をもぐもぐと動かした。


「ふん……一人の噂か。だが都に報告すれば、面白いことになるだろう」

彼はそのまま闇に溶け、どこかへ走り去った。風が通り、パンの香りのする街角を通り過ぎていった。


リオはその夜も酒場で誰かと話し込み、俺は宿でシルフィエルと魔法の復習をしていた。窓の外、月は少し欠け始めていて、世界は静かだった。だが静けさの裏に、見えない動きがある――そんな予感が、ぴったりと胸に張りつく。


「何かあるのか?」

シルフィエルは薄く眉を寄せる。俺は黙って窓の外を見続けた。


「遠くで誰かが動いているような気がする。でも、今はこの街を守る。それだけだ」

俺は自分に言い聞かせるようにそう呟いた。リオの背中が、酒場の灯りの向こうでぽつんと見えた。彼の姿は、思った以上に頼りになる盾になりそうだ。



ささやかな誓い、そして次の標的


人からの感謝と、喜び。練習で得た自信と小さな失敗。リオの過去話が胸に残る夜。俺は自分がここにいる理由を、少しずつ言葉にできるようになってきた。


「俺は、誰かが笑って暮らせる世界のために戦う。ブラック企業の頃の自分を取り戻すためでも、復讐のためでもない。単純に、人を守りたいんだ」

心底からそう思ったとき、シルフィエルが小さく微笑んだ。風が、俺の髪を優しく撫でる。


リオは翌朝、俺を見て真剣な顔をした。

「噂が広がれば、良い依頼も来る。だが、その分リスクも増える。俺たちは準備をしておく。まずはギルドの仕事をこなしつつ、街の警備を手伝おう。あと、お前、パンは少し節約しろ。いざって時に足りなくなる」

俺は苦笑いしながら頷いた。


「了解だ。パンは大事にする」

そう言って、俺は背中の布袋を確認した。中にはまだシルフィエルがくれた“始まりのパン”が幾つか入っている。これは俺が頼れる“最後の切り札”かもしれない。だが、頼りすぎてはいけない。自分の力で立てるように、もっと練習をしよう。


遠くの丘の向こう、朝霧がゆっくりと広がっていく。新しい依頼札がギルドの掲示板に貼られる音が、町の中で小さく鳴る。誰かの足音が、慌ただしく続いている。


「次はどんな朝が来るのかな」

シルフィエルが呟く。俺は深呼吸をして、剣を肩に担いだリオを見送る。


「面白くなりそうだ」

俺は自嘲気味に笑いながらも、胸の中に芽生えた確かな決意を感じていた。

次回、ギルドに舞い込む特別依頼。そして王都からの“視線”。勇者候補としての噂は、思わぬ方向へ波紋を広げ始める。ユウトは、パンと風の刃と共に、どこまで行けるのか。

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