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#07 照る過去

 ——僕は数年前まで、教師だった。


 楷の親は両親共に教師で、とても厳格な家庭だった。昔から、正しく生きろと育てられてきた。人の手本になる様な教師になれと。だからか楷は人の顔色を(うかが)い、決して間違わない様に生きてきた。


 親の期待に応える為に、楷は教師になった。

 選ぶ余地はほとんど無かったし、大学の授業も教育実習も、働き出してからもずっと大変だった。

 けれど不思議と、楷は嫌では無かった。正しく生きれているという実感を得られるこの仕事が、輝く生徒達の音が好きだった。


 生徒達には『話が難しい』『つまらない』そう言われることが多かった。しかし、楷はただ教えることが、教師でいることが何より楽しくて仕方なかった。

 どうしたら理解してもらえるか、興味を持ってもらえるか、何を面白いと感じ、何を退屈に感じるのか。それらを一人で考える時間も、生徒それぞれから教えてもらう時間も楷の好きな時間だった。


 その想いが通じたのか、次第に生徒の方から授業の質問や日常の相談を受けることが増えた。相談をした生徒達もみな、正しく寄り添ってくれる先生だと、楷を認め始めた。


 ——ただ一つ、僕には決定的な欠陥があった。



 終礼を知らせるチャイムが鳴り響き、帰宅する生徒や部活へ向かう生徒で廊下が賑わう。


「楷先生、また明日」

「はい、さようなら。気をつけて帰って下さいね」


 楷は生徒達を見送り、職員室に向かっていた。

 同じく職員室に向かう教師が、楷のすぐ後ろから声を掛けた。首からは『早瀬(はやせ)』と書かれた名札を下げている。


「楷先生、お疲れ様っす。今日、一杯どうっすか?」

「……早瀬先生、髪切りました?」

「え、楷先生すごい。今日、誰も気づいてくれなかったんすよ」


 楷は空笑(そらわら)いをしながら、自分のデスクについた。


「危なかった……」


 楷がこの職業続けている、もう一つの理由。

 それは生徒を含め、教師の全員が名札をつけているということ。楷にとってはそれが、何より重要だった。

 楷には、人の顔がもやのかかった肌色の丸くらいにしか見えていない。顔が正しく、認識出来ないのだ。何故だか、だんだんと見えなくなってしまった。女性なのか男性なのか、声を聞くまで分からない事もよくある。だから髪型やメガネ、洋服の特徴などに頼るのだ。

 その為、髪型を変えられると、途端に誰なのか分からなくなる楷にとって、名札が唯一のヒントになる。


 その代わりなのか楷は、耳が人より少し発達していた。声の違いがわかるというよりも感情の機微、人が本来表情から読み取ることを音として聴き分けることが出来た。



 デスクの上の書類を片しながら、楷は思い出したように答えた。


「あ、飲みには行きません」

「やっぱ、今回もダメかぁ」


 早瀬は、笑いながらそう言った。


    *


 そんなある日、楷は昇降口で自分のクラスの生徒を見掛けた。ただ声を掛けて、挨拶をするだけのつもりだった。

 しかし、その生徒はいつもと少し様子が違った。質問と回答のリズムに、ほんの僅かなズレを感じた。こちらの音が届いていない様な、特有の音の揺らぎを感じた気がした。


「耳、聞こえにくいですか?」


 しかしその生徒は音楽の世界の人で、本当に耳が聞こえていないとしたら大きな問題だ。もしそうだとしても病院に通っているはずで、こんな音楽の素人が言う音の揺らめきがどうだとか、そんな感覚的な話はとても伝えられない。楷はそう思って、慌てて補足した。


「違うなら良いんです。可能性の一つというか、その、気にしないで下さい」


 楷がそう言うと、その生徒は笑った。

 思い過ごしだったのだと、楷は安堵し「また、明日」そう言って歩き出そうとした。


「ありがとう」


 彼女は少しチグハグに、そう言った。


 楷には、その感謝の意味が分からなかった。少し気掛かりで、その日の夜『音楽家 耳の病気』とキーボードに打ち込んだ。


「……難聴」



 翌日。終礼後に楷は、その可能性を潰すつもりでその生徒に伝えた。


「昨日の件ですが……素人の僕が言うのは大変恐縮ですが、まだ病院に行っていないのであれば一度受診した方が良いかと……」

「昨日の件?」

「はい。昨日昇降口で、少し耳が聞こえずらそうに見えたと言った件です」

「耳……?」

「可能性ではありますが、受診してみるだけでも」

「……ありがとう、先生」


 その生徒は、慌てて教室を飛び出して行った。


「あ、いえ。さようなら」



 ——それからすぐに、僕は教師を辞めた。


 僕は、教師をすることの許されない欠陥品だから。

 一つ気掛かりなのは、彼女の事だった。耳の調子はどうなったのか、僕の言動は彼女を傷つけてはいないだろうか。輝きを、失ってはいないだろうか。

 あの日の感謝は、どういう意味だったのか——。


    *


 楷はずっと、正しくない自分を嫌っていた。

 幼い頃からずっと、人の顔がわからない欠陥品で、成長しても親の期待に応えられず、正しく生きられない自分を、誰よりも否定していた。


 その欠陥を、少しだけ肯定出来る。そう思えた教師という職も、欠陥によって失った。

 そしてあの日の生徒にも、最後まで寄り添うことが出来なかった。


 青谷(かなで)——響の姉である生徒への後悔を、ずっと背負っていた。


 そんな後悔を拭う様に、今度こそ最後まで寄り添える様に。少しでも美しい光で、照らせるように——楷はそんな想いで、授業を引き受けた。


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