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#06 Recapitulation

 田舎道を通る赤いバイク。

 その運転手の楷は、何とも言えない顔をしていた。


「……というわけで、休憩の一時間に響さんのお宅でなんというか、授業をすることになりました」


 まるで交際を始めたかの様な初々しさで楷は、先の一時間を報告した。それを聞いた鏑木もまた、初々しいアベックを見るかの様に目尻に皺を寄せ、老眼鏡を頭に乗せた。


「ほう、響さんねぇ。仲良くなったみたいで良かった。やっぱり楷くんは、頼りになるなぁ」

「……僕は、本当に何も」


 鏑木は、楷の抱えた闇の様なものを僅かに感じ取り、わざと明るく声を掛けた。


「ま、理由は何であれ話し相手が出来て、響ちゃんは嬉しいと思うぞ?」

「だと良いんですけど……」



 まだ蝉の声が響く頃。たった一時間の彼らの授業が始まった。授業といっても、教科書をなぞって何かを教える訳ではない。

 ただ言葉を交わし、文字を綴る。最終目標は、響の母親に手紙の返事を書くことだ。



「響さんは、いつも食事はどうしてるんですか?」

『どうって、宅配。お手伝いさんいないし』


 楷は配達の度に見かけるあの、町に似合わない配達員はそういうことかと今更ながら納得していた。そして、自分で作るという選択肢がそもそもない辺りが、響の生きていた世界の裕福さを物語っているな。などと考えていた。


「響さんって、もしかしなくてもお嬢様ですよね」

『もしかしなくても?』


 響は、すぐに楷の言葉を不思議そうに復唱した。


「あ、えっとこれは、誘導文句というか……」


 世間話をしていたかと思えば、急に教科書を読むかの様な授業が始まる。かと思えば説明を遮って、世間話が始まったりもする。そんなただの会話の様な授業だった。


『なるほど。楷さんの説明はいつも分かりやすいね』

「そんなことは、ないです」


 思わず喜ぶ楷を気にも止めず、響は何か思い出した様に慌てて立ち上がった。


『今日は、相談があったんだった』


 響は持ってきたタブレットを楷に見せた。

 以前から響は、SNSに自分の絵を載せていたそうだ。その絵が所謂(いわゆる)、バズったらしい。そして『作品展に出さないか』と声が掛かったそうだ。


「それで、相談っていうのは……もしかしたら詐欺かもとか、そういう?」


 不安げにそう言った楷の言葉を、響は手をブンブン振って否定した。


『この人がちゃんとした人なのは確認した。そうじゃなくて、作品を出すってなるとタイトルをね、付けなくちゃいけないんだって』

「絵の、ですか?」

『うん。それを、楷さんにお願いしたいなって』

「……僕は絵のことは、全然分かりませんよ?」


 楷は心底不思議そうに、そう尋ねた。すると響は、部屋の隅から前に見せてくれた油絵とスケッチブックを持ってきて、もう一度楷に見せた。


『この絵だったら、なんてタイトルを付ける?』

「えっと……記憶、とかですかね」

『記憶?』

「はい。居るはずの観客も奏者も、楽器も存在しない圧倒的な静寂の空間。だけど、確かにそこに居るその人に注がれるスポットライト。それはきっと楽しかった、美しかった過去の記憶で唯一の温かさなのかなと。言うなれば、過去の余韻。でも、その記憶の一番の核である楽器。この場合恐らくピアノだと思うのですが、それを描かない所に寂しさが滲んでいる気がしました。朧げな記憶の様なその、不自然な音の様なものが印象的だなと思っていたので……」


 楷のそんな拙い感想を聴いた響は、スケッチブックを開き一枚の絵を見せた。

 その絵は、広い会場を埋め尽くすほどの観客。その誰もが瞳を輝かせ、舞台上の一人の女性に視線を注いでいる様だった。舞台の女性はこの会場の誰よりも楽しそうに、そしてとても愛おしそうにピアノを演奏しているのだ。

 黒鉛だけで描かれているにも関わらず、煌びやかな感情が鮮明に見える絵。そんな音が聴こえると、楷は思った。


『これね、初めて大きな会場で演奏した時に描いたの。で、この別荘に来て、油絵にして清書みたいな? しようかなって思ったの。でもいざキャンバスに向かうと鮮明に思い出せなかったというか、上手く描けなかったんだよね。何かぐわーってしちゃって、だから全部塗りつぶして今描けるとこだけ描いたの』


 楷は少し、驚いていた。

 絵のことも勿論そうだが、楷には、今の響は楽しそうに写っていて、耳が聞こえないことなんてとっくに気にしていない様に見えていたから。ピアノに変わるものも見つけて、前に進んでいる様に感じていたから。

 しかし、あの油絵に描かれていた一脚の椅子は、響そのものだった。希望も期待も失い、誰もない世界にただ佇んでいる。今でも一人で、寂しそうに余韻の中に閉じ込められている。

 でもその一脚の椅子にはまだ、ピアノを愛おしく思っていた響は間違いなく座っていて、好きなことに真っ直ぐだった輝く響きを、その記憶の中で輝く少女を、楷は塗り潰された絵からも感じたのだ。


『楷さんは、いつも隠した私の気持ちを見つけてくれる。何ていうか、そういう人にタイトルを付けて欲しい。あと、今の解説みたいなのもっと聞きたい。嬉しい』

「……分かりました。僕で力になれるのなら」


 楷は響の『描く世界を言葉にして欲しい』というその想いに、寄り添うことにした。

 出来れば正しく、響の想いが届く事を願った。


    *


 何の隔たりも無い夕陽町の広い空を、夏の長い赤が染めていた。


 帰る支度を済ませた鏑木が、楷の後ろから声を掛ける。


「楷くん、今日も残業かい?」

「お疲れ様です。いえ、もう帰ります」


 楷は響の描いた絵のタイトルを、熟考していた。


 昼間に楷が名前を付けた『記憶』とは、また別の温かくて美しい絵だ。

 ここにもやはり、人は描かれていない。だが柔らかな色のピアノと、その周りに散りばまられた楽譜やバイオリン、手紙などが緻密に、大切に描かれ、ぎゅっと宝箱のように詰め込まれている様だった。それはどこか懐かしくて、けれどもまだ抜け出せない孤独な静寂にも似ていた。そんな全てを、窓から差し込む茜色の陽の光が温かく照らしている。

 ずっとそこにあって、そっと背中を押してくれる様な絵だった。


 ——そんな、愛おしい音が聴こえた。



「響ちゃんの?」

「はい。あ、一応勤務時間は終わってからしてますので」

「そんなことは気にしてないさ。いつでもしたら良い。俺なんて、しょっちゅうサボってる」


 悪びれもなくそう言った鏑木に、楷は眉を下げて微笑んだ。


「じゃ、ジジイは先に失礼するよ。楷くんも、無理せず帰れよ〜」


 鏑木は楷のデスクに、小さなお饅頭を一つ置いて郵便局を後にした。


「お疲れ様です」


 静かになった郵便局に、楷の声だけが微かに響いた。

 楷は、以前鏑木から預かった『響ちゃん』そう書かれたメモを見つめた。


 ——僕は、力になれているだろうか。


 息を深く吐き、楷はそんなことを思っていた。

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