#05 日々の広がり
楷は自分の過去を思い出していた。
教師をしていた頃を——。
その時、長閑な町に正午を知らせるチャイムが響いた。その音にハッとした楷を、響は首を傾げて見つめていた。
「あ、すみません。また明日でもいいですか?」
響は、少し視線を落として頷いた。
「いや、その……じゃあ少しだけ待っててもらっていいですか?」
響はまた首を傾げたが、楷は別荘を後にして郵便局へ向かった。
「ただいま戻りました。休憩頂きます」
楷はそう言って配達のバッグ類を元の場所に戻し、そのまま踵を返して家から持って来たお弁当を手に、足早に郵便局を出ようとした。
「どうした、楷くん。外で食べるのか?」
老眼鏡を鼻に掛けたままの鏑木が、楷を見上げてそう言った。
「あの、実は……」
楷は響の別荘でのことを報告し、また今から響の元に向かう旨を伝えた。
「楷くんは本当に真面目で、頼りになるなぁ。でも、休憩はきちんと休むんだぞ」
「はい」
楷はまた、響の別荘に向かった。
*
汗だくの楷が別荘のベルを鳴らすと、響は慌てて部屋に招き入れた。
「すみません。移動は多めに見てくれるそうなので、一時間休憩の間お話ししましょう」
響は嬉しそうに頷き、またペットボトルのオレンジジュースを出してくれた。
「自己紹介がまだでしたね。僕は、渡瀬楷と申します」
少し間が空いた後、響は文字を打ち込んだスマホを見せてくれた。
『楷さんね。私は、響です』
「はい、存じております。丈さんに頼まれて、というか勝手に少し状況を伺ってしまいました。しかし、決して怪しい者ではありません」
響はスマホの画面を見ながら、クスッと笑った。
『怪しい者って面白いね。確かに、最初ちょっと何だこの人とは思った』
「やはり、不審でしたよね。その節はすみませんでした。恐怖を与えるつもりは毛頭無く……」
すると響は、一層笑って楷の言葉を遮った。
『言葉難しくて全然分かんない。何、けあたまって』
響は、ヒーヒー言いながらお腹を抱えて笑っていたが、楷はあの頃の様にただ『教える』ということに必死だった。
「あ、すみません。これは、も・う・と・うです。毛頭無い。毛ほども思ってないという意味です。あとは何でしょうか、不審とかもですかね。これは疑わしいとか、訝しむとか。あ、訝しむも難しいか。えっと……」
『あー、いいや。大丈夫。楷さんが怪しい人じゃ無いってのは、知ってるし』
「……すみません」
『いや、楷さんと話してると勉強になる。機械みたい? いや、辞書みたい?』
「……真面目すぎると、よく言われます」
『それだ、真面目。良いじゃん。何か、良いよ』
「そう……ですか」
響の感覚的なその言葉に、楷は何だか少しだけ救われた気がした。
『楷さんはいろんなこと知ってるし、良いと思う。やっぱり、先生みたい』
「……知りたいことを、知ってるだけです。それにほとんどが、ただの僕の意見です。でも僕も、色々知っているのは良いことだとは思います。知ることは時に視野を広げ、時に理想を狭めます。しかし、選択肢を広げ、自分に合った現実を学ぶことが出来るのです」
『自分に合った現実?』
「はい。起きた事は同じでも、感じ方や捉え方によって現実は自分に寄り添ってくれるし、その選択肢を見つけ出すことが出来るのだと、僕は思います。色々な生き方を選べるということかも知れないですね」
きっと学校で教わる学びとは、違うだろう。正しい学びではないかもしれない。
それでも楷は手本になる正解ではなく、自分が正しく生きていられる道を知って欲しい。ただ、そう思った。
『なるほど。それめっちゃ良いね。私もしたい』
響は、目をキラキラさせて楷にスマホを見せた。
「……では、響さんは何か好きなことはありますか?」
『急だね』
「まずは知っている事をと思いまして。それに学びの入り口は、興味だと思うので。何か受け取りやすい取っ掛かりがあれば、吸収率も上がるはずです」
『好きなことか。昔はピアノだったけど……』
言葉を知るよりも前からピアノを始めたこと、毎日の様に部屋に籠りピアノばかり弾いていたこと、両親や周りの大人達に凄いと褒められることが嬉しかったこと、舞台に立った時そこから見る客席の景色が好きだったこと。
音楽と共にあったその過去は、幸せで楽しい日々だったのだと容易に想像出来た。
『でも今は、絵かな』
楷は、ピアノの無い広い部屋を見渡した。
すると、部屋の端に置かれた布の掛かったキャンバスが目に付いた。
「あれも、響さんが?」
『うん。昔から好きで、頭がゴチャゴチャした時は描いたりしてる』
「見てもいいですか?」
楷がそう言うと響は目尻に皺を寄せて頷き、キャンバスを覆っていた布を取った。
そこには、白い照明に照らされた一脚の黒い椅子が描かれていた。見たところピアノに付属して使われる様な、長方形の少しクッション性のある黒い椅子。
それが、観客のいない暗い会場にポツンと、ひとつだけ佇んでいるのだ。
「どこか寂しげで、でもとても美しい絵ですね。楽器も奏者も居ないのに、そこに音楽がある様な気になります」
響は軽快に文字を打ち、キャンバスの側に置かれていたスケッチブックを手に取った。
『もっと、ピアノって感じのもいっぱいあるよ』
響は褒められたことが嬉しいのか、下書きの様に鉛筆で描かれた絵を楷に見せた。
『小さい時から、絵は描いてたの。ピアノが上手く弾けなくて、ぐわーってした時とか。描いてると音が消えて、無心になれたし。絵を褒めて貰えることも、結構あったんだ』
「素敵な絵ですもんね」
その時、楷のスマホが一時間の時を奏でた。
「……すみません。時間です」
楷はそう言って、響にスマホを見せた。響は、寂しそうに手元に目線を落とした。
オレンジジュースを手に取り、楷は徐に話し始めた。融通の利かない楷にしては珍しく、行き先の知れぬ見切り発車だった。
「一つ、分かったことがあります」
響の目線が、楷に向いた。
「響さんは、知らないだけなんですね。自分の気持ちを表す為の言葉を」
——これは単なる、僕の我儘だ。僕の中の止まった時間を動かしたいだけ。
ただ、過去の後悔に上書きしたいだけ。
『え、急に悪口?』
「いえ、きっと分かってはいるんだと思います。自分の気持ちも、人の気持ちも。だから、絵や音楽で表現することが出来る。だからこそ、それを言葉に出来たらより沢山の人に、伝えたい人に想いが伝わるはずなんです。言葉は、人間の共通言語だと思うから」
——こんな自分勝手な理屈で、この時間を繋ぎ止めようとする僕に、響さんの言葉が一筋の光の様に差し込む。
『じゃあ、楷さんが教えてよ』
「え?」
『私に言葉を教えて。伝えたい想いを、伝えたい人に伝えられる為の授業をしてよ』
響のその言葉からは何となく少し悲しそうで、少し嬉しそうな音が聴こえた。
「授業……」
楷はその響のその音に、希望を感じてしまった。
出来なかった『先生』をやり直せる様な、その言葉に甘えた。
——こうして僕らの静かな日常に、微かな音が流れ始めた。