表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/12

#05 日々の広がり

 楷は自分の過去を思い出していた。

 教師をしていた頃を——。


 その時、長閑(のどか)な町に正午を知らせるチャイムが響いた。その音にハッとした楷を、響は首を傾げて見つめていた。


「あ、すみません。また明日でもいいですか?」


 響は、少し視線を落として頷いた。


「いや、その……じゃあ少しだけ待っててもらっていいですか?」


 響はまた首を傾げたが、楷は別荘を後にして郵便局へ向かった。



「ただいま戻りました。休憩頂きます」


 楷はそう言って配達のバッグ類を元の場所に戻し、そのまま(きびす)を返して家から持って来たお弁当を手に、足早に郵便局を出ようとした。


「どうした、楷くん。外で食べるのか?」


 老眼鏡を鼻に掛けたままの鏑木が、楷を見上げてそう言った。


「あの、実は……」


 楷は響の別荘でのことを報告し、また今から響の元に向かう(むね)を伝えた。


「楷くんは本当に真面目で、頼りになるなぁ。でも、休憩はきちんと休むんだぞ」

「はい」


 楷はまた、響の別荘に向かった。


    *


 汗だくの楷が別荘のベルを鳴らすと、響は慌てて部屋に招き入れた。


「すみません。移動は多めに見てくれるそうなので、一時間休憩の間お話ししましょう」


 響は嬉しそうに頷き、またペットボトルのオレンジジュースを出してくれた。


「自己紹介がまだでしたね。僕は、渡瀬楷と申します」


 少し間が空いた後、響は文字を打ち込んだスマホを見せてくれた。


『楷さんね。私は、響です』

「はい、存じております。丈さんに頼まれて、というか勝手に少し状況を伺ってしまいました。しかし、決して怪しい者ではありません」


 響はスマホの画面を見ながら、クスッと笑った。


『怪しい者って面白いね。確かに、最初ちょっと何だこの人とは思った』

「やはり、不審でしたよね。その節はすみませんでした。恐怖を与えるつもりは毛頭無く……」


 すると響は、一層笑って楷の言葉を遮った。


『言葉難しくて全然分かんない。何、けあたまって』


 響は、ヒーヒー言いながらお腹を抱えて笑っていたが、楷はあの頃の様にただ『教える』ということに必死だった。


「あ、すみません。これは、も・う・と・うです。毛頭無い。毛ほども思ってないという意味です。あとは何でしょうか、不審とかもですかね。これは疑わしいとか、(いぶか)しむとか。あ、訝しむも難しいか。えっと……」

『あー、いいや。大丈夫。楷さんが怪しい人じゃ無いってのは、知ってるし』

「……すみません」

『いや、楷さんと話してると勉強になる。機械みたい? いや、辞書みたい?』

「……真面目すぎると、よく言われます」

『それだ、真面目。良いじゃん。何か、良いよ』

「そう……ですか」


 響の感覚的なその言葉に、楷は何だか少しだけ救われた気がした。


『楷さんはいろんなこと知ってるし、良いと思う。やっぱり、先生みたい』

「……知りたいことを、知ってるだけです。それにほとんどが、ただの僕の意見です。でも僕も、色々知っているのは良いことだとは思います。知ることは時に視野を広げ、時に理想を狭めます。しかし、選択肢を広げ、自分に合った現実を学ぶことが出来るのです」

『自分に合った現実?』

「はい。起きた事は同じでも、感じ方や捉え方によって現実は自分に寄り添ってくれるし、その選択肢を見つけ出すことが出来るのだと、僕は思います。色々な生き方を選べるということかも知れないですね」


 きっと学校で教わる学びとは、違うだろう。正しい学びではないかもしれない。

 それでも楷は手本になる正解ではなく、自分が正しく生きていられる道を知って欲しい。ただ、そう思った。


『なるほど。それめっちゃ良いね。私もしたい』


 響は、目をキラキラさせて楷にスマホを見せた。


「……では、響さんは何か好きなことはありますか?」

『急だね』

「まずは知っている事をと思いまして。それに学びの入り口は、興味だと思うので。何か受け取りやすい取っ掛かりがあれば、吸収率も上がるはずです」

『好きなことか。昔はピアノだったけど……』


 言葉を知るよりも前からピアノを始めたこと、毎日の様に部屋に(こも)りピアノばかり弾いていたこと、両親や周りの大人達に凄いと褒められることが嬉しかったこと、舞台に立った時そこから見る客席の景色が好きだったこと。

 音楽と共にあったその過去は、幸せで楽しい日々だったのだと容易に想像出来た。


『でも今は、絵かな』


 楷は、ピアノの無い広い部屋を見渡した。

 すると、部屋の端に置かれた布の掛かったキャンバスが目に付いた。


「あれも、響さんが?」

『うん。昔から好きで、頭がゴチャゴチャした時は描いたりしてる』

「見てもいいですか?」


 楷がそう言うと響は目尻に皺を寄せて頷き、キャンバスを覆っていた布を取った。

 そこには、白い照明に照らされた一脚の黒い椅子が描かれていた。見たところピアノに付属して使われる様な、長方形の少しクッション性のある黒い椅子。

 それが、観客のいない暗い会場にポツンと、ひとつだけ(たたず)んでいるのだ。


「どこか寂しげで、でもとても美しい絵ですね。楽器も奏者も居ないのに、そこに音楽がある様な気になります」


 響は軽快に文字を打ち、キャンバスの側に置かれていたスケッチブックを手に取った。


『もっと、ピアノって感じのもいっぱいあるよ』


 響は褒められたことが嬉しいのか、下書きの様に鉛筆で描かれた絵を楷に見せた。


『小さい時から、絵は描いてたの。ピアノが上手く弾けなくて、ぐわーってした時とか。描いてると音が消えて、無心になれたし。絵を褒めて貰えることも、結構あったんだ』

「素敵な絵ですもんね」


 その時、楷のスマホが一時間の時を奏でた。


「……すみません。時間です」


 楷はそう言って、響にスマホを見せた。響は、寂しそうに手元に目線を落とした。

 オレンジジュースを手に取り、楷は(おもむろ)に話し始めた。融通の利かない楷にしては珍しく、行き先の知れぬ見切り発車だった。


「一つ、分かったことがあります」


 響の目線が、楷に向いた。


「響さんは、知らないだけなんですね。自分の気持ちを表す為の言葉を」



 ——これは単なる、僕の我儘(わがまま)だ。僕の中の止まった時間を動かしたいだけ。

 ただ、過去の後悔に上書きしたいだけ。



『え、急に悪口?』

「いえ、きっと分かってはいるんだと思います。自分の気持ちも、人の気持ちも。だから、絵や音楽で表現することが出来る。だからこそ、それを言葉に出来たらより沢山の人に、伝えたい人に想いが伝わるはずなんです。言葉は、人間の共通言語だと思うから」



 ——こんな自分勝手な理屈で、この時間を繋ぎ止めようとする僕に、響さんの言葉が一筋の光の様に差し込む。



『じゃあ、楷さんが教えてよ』

「え?」

『私に言葉を教えて。伝えたい想いを、伝えたい人に伝えられる為の授業をしてよ』


 響のその言葉からは何となく少し悲しそうで、少し嬉しそうな音が聴こえた。


「授業……」


 楷はその響のその音に、希望を感じてしまった。

 出来なかった『先生』をやり直せる様な、その言葉に甘えた。



 ——こうして僕らの静かな日常に、(かす)かな音が流れ始めた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ