#00 Modulation - 寄り道 -
俺は、とっくに老いぼれた郵便局員だ。
この町で生まれ、この町で育ち郵便局でしか働いたことのない男。老眼鏡をしょっちゅう失くす様な普通の、だらしが無いただのジジイだ。
町と呼ぶには少な過ぎる人達と、自然豊かでだだっ広い緑に囲まれた場所。腰の曲がったばあさんか偏屈なジジイしか住んでいない様な、なんて事のない普通の田舎だ。
でも俺はこの町が、何だかんだで好きだ。時間を費やす程の娯楽は無いが、その分人と人との距離が近い。みんなが誰かを想っている。そういう温かいこの町が、俺は好きだ。
俺はそんな町の人に、寄り添う郵便局員になりたかった。若い頃は配達の度に、町の爺さん婆さんの家に上がり込んでいた。配達以外の仕事を猛スピードで終わらせて、配達にほとんどの時間を割いた。ちょっとした雑用や、何でもない愚痴の様な悩みを聞いていた。それがいつしかこの町の、郵便配達員の仕事になっていた。
しかしここ数年、配達に出向くには少々歳を食い過ぎた俺の代わりに、研修と称して本社から若い奴が一人派遣される様になった。長閑なこの町であらかたの仕事を覚え、また本社へ戻って行くというのがここの主な人の流れだ。
若者達は本社に言われるがまま、行きたくもない田舎に配属され退屈な日々を過ごす。
だが幸いなことに、ここへ配属される新人は皆、良い子達ばかりでこんな田舎での暮らしを楽しいと、俺のことを『丈さん』なんて呼び慕ってくれる。本社に戻ってからも、時折顔を出しに来てくれる子も居るくらいだ。
それでも、こんな田舎での勤務を自ら希望する人は、今まで一人も居なかった——。
渡瀬楷。
そう名乗ったのは、本社から長期勤務希望の社員だと、報せのあった青年だった。
「楷くんは、希望出してここに来てくれたんだよな?」
「はい。自然豊かな土地で、働きたいと思い希望を出させていただきました」
初めて会った日から楷くんは、堅苦しくて真面目で人のお手本になる様なそんな正しい青年だった。若いのに俺よりしっかりしていて、俺とは真逆の正しさを具現化した様な性格だった。
「楷くんは真面目だなぁ」
俺がそう言うと、楷くんはいつも少し困った顔をする。
俺にはその理由は、分からなかった。でも知りたいと、力になりたいと思った。
*
その日は郵便局に、珍しく来訪があった。
「よっ。久しぶりだな、親父」
軽快に声を掛け郵便局に入って来たのは、鏑木の息子の光之助だ。
今は夕陽町からは離れた場所で、中学の教師をしている。
「おお、光か。どうした、いきなり」
「いや、たまには顔出そうかな……って、あれ?」
光之助は目を丸くさせ、楷に視線を向けた。
「楷先生?」
「え、あ、えっと……」
楷はそれが誰なのか、まるで分からない様だった。
「あ、俺です。早瀬です」
そう言った光之助は、とても慣れた様子だった。
光之助もとい、早瀬は楷と以前の職場が同じだったらしい。
しかし楷は、何かを誤魔化す様に「……ああ、髪切りました?」とだけ尋ねた。
「いや、切ってないっすよ。あ、前に会った時からは切ってますね。切ったっす」
二人の距離はさほど近くはなさそうだが、どうやら仲は良さそうだ。僅かな沈黙の後、何かに気づいたかの様に早瀬は口を開いた。
「あ、うち親が離婚してて、母親の姓なんすよ。仲は良いんで気にしないで大丈夫っす」
早瀬は、軽い話し口でチャラチャラしている様に見られがちだが、人の気持ちや弱い所に誰よりも早く気付き、先回りの出来る優しさを持っている。
鏑木に似て、人に寄り添う男なのだ。
「で、楷先生、今日は飲みに行きますか?」
「行きません」
楷はそう即答したが、不思議と嫌がっている様ではなかった。
「やっぱ、ダメかぁ」
早瀬もどこか嬉しそうにそう言った。
「じゃ、俺は奥さんのとこ行ってくるわ」
「今日はそっちに泊まるのか?」
鏑木がそう聞くと早瀬は、少し考えたフリをした後こう言った。
「いや、夜はこっちで食おうかな。じゃあね、楷先生」
早瀬はそう言って、郵便局を後にした。
「ったく、何しに来たんだあいつは」
「ですね」
楷はそう言って、小さく微笑んだ。
「楷くん、光之助と知り合いだったんだな。驚いた」
鏑木は自分のデスクに付き、メモの用紙を広げた。
「はい、僕もです。まさかまた早瀬先生に会うとは思っていなかったので」
「迷惑かけてただろう。嫌なら、はっきり断るといい。多少の事で、あいつは傷付かん」
「あ、いえ」
楷は、デスクに置かれた鏑木のメモに視線を移した。
「それより、これは?」
「ああ、これか。ここの人達の困り事とか、悩みなんかを書き出してるんだよ。何か出来ることないかと思ってな。で、たまに見返すんだ。解決したか、力になれたかってな」
楷はメモを一枚拾い上げ、ゆっくり読み上げた。
「楷くんを笑わせる方法……って僕、そんなに無愛想ですか?」
「いやいや、楷くんはどんな事で笑うのかなって気になっただけだ。気にしないでくれ」
少し不服そうな楷は、また別のメモを読み上げる。
「千代さん。若い頃は、音楽を嗜んでいた。旦那さんが三年前に他界。蔵の片付け予定。家族仲は良いが、娘さんの結婚以来あまり会えていない。って後半のこれは流石に、僕らには解決出来ないのでは……」
楷は静かに驚き、手書きのメモをまじまじと見つめた。
「まあな。あ、でも昨日の夜調べてたら、リモートっていうのか? それなら離れてても顔を見て話したり出来るみたいでな。ただこんな田舎だから、電波の事とか使い方が分かる奴が居ないってのが問題なんだよなぁ」
鏑木はそう言って、昨夜調べたばかりのサイトやタブレットの資料を見せた。
「こんなに……」
「全部のページ印刷したら、家中の紙がなくなっちまった。俺ら世代は、どうも紙じゃないと頭に入って来なくてな」
「……丈さんこんなにしてて、夜ちゃんと眠れてますか?」
「もうこの歳になると、寝ても寝なくても大して疲れは取れないんだよな。まぁ、眠たくはなるんだけどな」
鏑木がそう言って笑うと、楷は何やらスマホを操作し始めた。
「……だからいつも、日中に寝てるんですね」
「バレてたか。事務仕事って、眠たくなるんだよなぁ」
「夜に寝て、日中は仕事をして下さい」
「はい、楷先生」
そう言った時、鏑木には楷の表情がまた少し曇った様に見えた。
「……僕も手伝います。前にリモート授業を実施したことがありまして、少しなら力になれると思います。良いタブレット端末、探しておきます」
「本当? 助かるよ。楷くんは、頼りになるね」
「いえ。使える脳は多い方が良いと、思うだけですので」
不器用な楷のその言葉は、とても真剣に人を想う優しさだと鏑木は思った。
「……楷くんも、悩み事あったら言ってくれな」
鏑木は町の人達の悩みを聞くように、何の気なしにそう言った。
「え? あ、はい」
「使える脳は、多い方が良いんだろ? ジジイの脳みそなら、いつでも貸してやるよ」
「……ありがとうございます」
楷は驚いた様に目を丸くして、少し嬉しそうにそう言った。
結局楷の悩みを、鏑木はまだ知らない。それでも、たった一つ——
「あれ。俺、眼鏡どこやったかな」
「頭に、乗ってますよ」
「おお、本当だ。悪いな」
鏑木はメモに『楷くんは、俺が眼鏡を失くすと笑う』と書き足した。
——楷の笑顔の元をたった一つだけ知った鏑木は、心底嬉しそうに笑っていた。
きっと鏑木は、人の為に勝手に頭を悩ますのが好きなのだろう。そしてそんな鏑木に、住民達は皆、心を開いてしまうのだろう。頼ってしまうのだろう。
だから鏑木は、夕陽町屈指の情報通で、町に寄り添う郵便局員なのだ。