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不幸について

作者: 相浦アキラ

 以前知り合いに「幸福じゃないと生きてる甲斐がありませんよね」みたいな事を言われて、適当に相槌を返しながらも内心「そうかな?」と思ったことがありました。


 幸福じゃないと生きてる甲斐が無いとしたら、不幸そうな人間を集めて片っ端から安楽死させていくのが良い社会という事になるのでしょうか。そもそも幸不幸は明確に区別が付けられるものでもないでしょう。幸福の中にも不幸があり、不幸の中にも幸福があったり、幸福が不幸に転じたり不幸が幸福に転じる事も良くある話です。


 結婚して子供が出来たところで、子供を事故で亡くしてしまうかも知れません。しかしだからといって「こんな不幸な事になるなら産まなければ良かった」という親は中々いないでしょう。子供を失った悲しみは確かに不幸でしょうが、子供と過ごした幸福があったからこその不幸であり、それはかけがえのない悲しみでもある筈です。押すだけで子供の記憶だけ消す事ができる装置があったとして、親はそのスイッチを押すでしょうか。そういった人生の妙味は外部から分かりやすく表面的に見える幸不幸とは全くかけ離れたところにあります。


 しかしそういった感情の複雑さを理解できない人が多いのか、雑に希望をばらまき表面的な幸福の奴隷になるのが昨今の流れのようです。コスパやらタイパなんて言葉まで出てきて、いかに効率よく快を得るかばかり重視されています。一方で日本の現状は30年以上不況を拗らせ、GDPも4位転落と衰退もいよいよ極まってきており、全くよくなる素振りも要素も無く、格差もどんどん広がってきています。全員が幸福になるのは不可能と言わざるを得ません。


 これに対し「いかに他者を出し抜いて幸福になるか」とか「いかにシロアリを倒して幸福を奪い返すか」といった議論ばかり繰り広げられたり、他方では負け組となり幸福を諦めきれずルサンチマンたらたらで誰彼構わず攻撃する人々や、全てを諦めてひたすら現実逃避にいそしむ人々が織りなす地獄絵図が見受けられますが、いい加減気をしっかり持って自分の不幸を見つめ直す事が今一番大切なのではないかと思います。


 もちろん自分の不幸を見つめると言うのは中々難しい事ではあります。今の社会は上手い事できていて、一応誰しも平等にチャンスがあるという空気作りが丁寧になされているので、落伍者は自己責任であるというコンセンサスがふんわり出来ています。だから自分の不幸を見つめるという事は自分の失敗を見つめるという事に繋がりやすく耐えられず結局誰かに八つ当たりしてしまったり、反対に卑屈になって自分を責めてばかりで何もかも嫌になってしまいがちです。ルサンチマンが全くないという人間もそうそうないのでそのあたりの雑音も絡まって来ます。それでも不幸をしっかり見つめていれば、何かしらの気付きが得られるかも知れません。自分の不幸を自分の中に取り戻す事ができるかも知れません。


 私は幸福になるなと言っている訳ではありません。ただ、不幸と言うのは一時的に見えなくする事はできても根本的な解決は難しいです。例えば給料が安すぎて結婚できなくて孤独で苦しい、不幸だという男がいたとします。彼は政府の失策のせいで自分は苦しんでいると考えネット掲示板で執拗に政治家を批判し続けていす。この場合半分は彼の批判は当たっているかも知れませんが、何かの間違いで彼が金持ちになって結婚して子供が出来たとしても、彼が元来孤独であるという事には変わり在りません。人は他者と直接的に認識を共有する事はできませんし、結局は自分の認識だけが絶対です。互いに自分の認識の中にキャラクターとして他者を閉じ込め、無意識に利用しようとします。いくら言葉で「愛している」と言われても、心の中はどうしたって確かめようがありません。


 結局彼は変わらず孤独な自分に気付き再び不幸になってしまいましたが、重要なのはここからどうするかです。「結局人はどこまで行っても孤独なんだな」と自分の不幸を噛み締め、そういった諦観からスタートして自分に出来る事を探して行くのか「嫁が悪い子供が悪い社会が悪い」とまた何かのせいにしてひたすら嘆き続けるのか。離婚して別の相手と結婚するという手もありますが、どうせ彼はすぐ失望するでしょう。


 元々人間というのが不幸になるように出来ている生き物でしょう。なまじ認識が優れているばかりに幸福の中にすら不幸を見つけ出してしまいますし、巨大な意識に反して現実世界に及ぼす力はカスみたいなものでそのギャップに苦しまねばなりません。いくら逃れようとしても無意識を生き切る事もできず、老いていく哀しみも死んでいく哀しみもいやおうなしに意識させられます。いくら現実世界に富を積み上げても、死ぬときには何もかも喪わなければなりません。


 そういう不幸は確かに不幸ではあるのですが、それは人間として生きたからこそ得る事が出来た不幸であり、不幸というのは自己そのものでもある訳です。そしてそういった自己を掴んで行く事が真に成長するという事であり、自分の人生を生きるという事ではないかと思います。



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