映画とごっこ遊び
小学校にあがる前までは、ママと呼んでいた。
周りの子が母親を『お母さん』とか『母さん』とか、気取ったやつなんかは『おふくろ』とか。
だから俺も、『ママ』じゃ恥ずかしくて。
鍵をぐるりと回して玄関を開けると、靴があった。黒のローファー。真ん中に銀色の金具がついてる。たぶん高いやつ。
ランドセルをテレビの脇に置き、ダイニングテーブル上のノートパソコンと書類と本の山に向かって「ただいま」と声をかけた。
「おかえりなさい」
テーブルの向こうに回ると、ぐしゃりとまとめた髪に、眼鏡をかけた化粧っけのない女がペーパーバックに鼻先をつっこんでいる。
ペーパーバックの表紙には、俺とおんなじくらいの年齢の女の子のドアップ。モノクロで、タイトルのところが黒く塗りつぶされていて、文字が赤い。だからたぶんホラーだ。英語は読めない。
「ランさん、今度はホラーなの?」
「よくわかったわね」
「だってその本、なんかコエーし」
バサリと乱暴にペーパーバックをテーブルに置くと、ランさんは眼鏡を外して俺を見た。それから少し考えるように首を傾げる。
「これから遊びに行く?」
「ううん。ランさん、今日は家にいるんだろ? そんならゴッコ遊びしよ」
ランさんはクリップで留めていた長い髪をバサリとおろして、にやっと笑って言った。「いいわよ」と。
ランさんは、化粧っけがなくても唇が赤い。
映画配給会社で働くランさんは、映画が好き。
映画のためなら平気で俺を忘れるし、誰かに預けることもしないで海外に飛ぶ。
ランさんの親も親戚も、誰も連絡がとれない。だから見かねたランさんの同僚が、俺の面倒を見てくれたりする。
だけど家にいるときは、ランさんはちゃんと俺を可愛がってくれる。
ランさんと俺のお気に入りの遊びは、ごっこ遊び。
映画のキャラクターになりきる。
邦画だったら日本語だけど、洋画だったら英語をしゃべる。英語以外の言葉は、ランさんがうまくないから、英語か日本語になる。
今日の俺はジョン。
ランさんはサラ。警察病院に入院させられながら、ムキムキに体を鍛えて銃をぶっぱなして戦う。かっこいい女戦士の役。
俺の目は青と茶のまだらで、髪は日に当たると金色。
父親は日本人じゃないとランさんが言っていた。
「わたしはあんたの母親だけど、母さんなんて呼ばないで」
ごっこ遊びの中でだけ、ランさんを『母さん』と呼べる。
だからごっこ遊びが好きだ。
今日のランさんはサラ。『母さん』って呼んでいい日だ。