中編
「兄がそんな事を!? お怪我はありませんでしたか!?」
「いえ、特には……少し、驚いただけですので……」
「まさか……今までそんな乱暴は一度もなかったのに……」
翌日、入れ替わっていたクリスが事態を聞いて、セリアの安否を気に掛ける。
彼が言うには、グレンがそんな行動を取るのは初めてのことらしい。
だから屋敷の従者も、あれだけ焦っていたのか。
取り敢えず大事がない事を伝えると、大きく安堵はしたようだった。
しかし、徐々に影の差す顔へと変わっていく。
「これは、少しお仕置きが必要みたいですね」
「お、お仕置き?」
「あぁ、気にしないで下さい。きっと兄も、気が立っているだけです。少し叱れば、直ぐに元に戻りますよ。そろそろ兄も、当主としての自覚を持ってもらわなければ」
思わず聞き返すが、クリスは一転して爽やかな笑顔を見せた。
僅かな黒さが見えたのは、気のせいではないだろう。
一瞬だけ素の顔が見えた気がする。
セリアは調子を取り戻しつつ、彼が兄であるグレンに親しみを抱いていること。
家族として、本当に尊敬していることを知った。
「クリス様は、お兄様を大切に思っているのですね」
「私達はお互いに記憶を共有していませんし、お互いの顔も見られません。それでも、生まれてからずっと一緒、ですからね」
「それなのに……浄化を望んでいるのですか?」
「勿論です。私達は、貴族ですから」
それでもクリスは浄化を欲していた。
貴族として、兄のために自分が消えるべきなのだと信じて疑わない。
何故、そんな笑顔で答えられるのか。
セリアの胸がチクリと痛む。
そこにある瞳の色を見て、自然と彼女は口を開いていた。
「私も、聖女です」
「……セリア様?」
「ですが聖女の力も今では衰えるばかりで、今回の件が済めば、お役御免になります。そうなれば、私はただの村娘です」
「ご自身を卑下される必要はありません。セリア様の噂は聞いています。どのような依頼も完璧にこなし、ただの一度も失敗はなかったと。それは聖女のお力だけで成し遂げられるものではなかったでしょう。セリア様の純心あってこそ、その偉業は果たされたのです」
「私は……ただ必死だっただけです」
クリスには褒められたが、セリアからすれば仕方のない事だった。
歴代の聖女と比べ、彼女の出生はあまりに貧しい。
どうしてこんな娘がと、成り立ての頃は敵意を抱かれたこともある。
だからこそ、必死になるしかなかった。
縋るものも、頼るものもなく、ただ過去の聖女だけを追い続けた。
「失望されたくなくて、期待に応えたくて……。それだけしか考えていなかったからこそ、今になって気付くんです。後から失ってしまう怖さを……」
「……」
「だからこそ、クリス様には今一度考え直して頂きたいのです」
「私に……?」
「本当に、呪いを解く必要があるのかどうか」
聖女でなくなれば、もう何もない。
何も残っていない。
それが今のセリアである。
そして対面しているクリスも、同じように見えた。
弟である彼がいなくなれば、兄のグレンはどうするのか。
もしかしたら、鼻で笑うのかもしれない。
それでも一体、何が残っているのか。
目前に迫る孤独を前に、彼女はそう考えてしまう。
するとクリスはその言葉を聞いて、辛そうな顔をした。
「私を受け入れてくれる人など、今まで誰もいなかった。そんな私に、貴方は慈悲を与えて下さるのですね? 貴方は本当に、太陽のようなお方だ」
「そ、そんな……私は別に……」
「もっと早く貴方に出会えていれば、私も変われたかもしれません」
彼がおもむろに椅子から立ち上がる。
近づくその姿に、力強さはない。
慈しむように片膝を立て、それからセリアの手を取る。
「しかし、今の私にとっては毒なのです。その温かさが、私の心を溶かしてしまう」
表情は、悲しみの色を見せていた。
救いの手すらも、クリスにとっては眩しすぎたのかもしれない。
それ程までに、彼は自分を責め続けていたのか。
「貴方に忌避されれば、それも元に戻るのでしょうか?」
「え……」
「貴方を傷つければ、私は望みを……」
不意に、クリスはそんな事を言った。
僅かにその手に力が込められ、一瞬だけセリアは虚を突かれる。
しかし、それだけだった。
彼の力は徐々に失われ、美しい手はセリアからゆっくりと離れた。
「申し訳ありません。やはり私は半端者です……。兄のようには、なれない……」
非礼を詫びるように、クリスは頭を下げる。
それから踏み止まろうとする彼女の背中を押した。
「たとえ力を失おうとも、セリア様はセリア様です。貴方には歴代の聖女様に並び立てるほどの努力を成された。それは間違いなく貴方自身の力です。何処へ行こうと、何者であろうと、変わることはありません。どうか、胸を張って下さい」
「クリス様……」
「そして私達もシュトラール家の当主。これから先、途絶えることはないのです」
「……」
「お願いします。私を、消して下さい」
クリスとの対談も、そこで終わった。
それ以上、互いに話すべき事が見つからなかったからだ。
結局、何も進展しなかった。
自室に戻ったセリアは思わず息を吐いた。
「何をやってるんだろう……。私は、どうしてあんな事を……」
本来、呪いを解くことこそが聖女として役目だ。
今の彼女はその役目に反している。
クリスが言ったような、これまでの努力を無に帰すことに他ならない。
それでも、今まで聖女として崇められていたセリアは、彼の姿に自分を重ね合わせる。
そうしてまた、意味もなく胸を痛める。
「同じなんだ……。あの人は、聖女としてじゃなくて……私自身を見てくれていた……。何もない、平民の私を……だから……?」
同情、なのだろうか。
それとも憐れみか。
分からないが、こんな感情は初めてだった。
聖女としてではなく、自分自身を認められたことが、嬉しかったのだろうか。
色々な感情が混ぜこぜになってセリアは頭を悩ませるが、やはり浄化に踏み切ることは出来なかった。
そうこうしている内に時間が経ち、再び夕暮れが訪れる。
流石に考えも煮詰まってきた。
少しは気晴らしに外に出た方が良いかもしれない。
シュトラール家の従者に許可を取った上で、セリアは屋敷の庭園を歩くことにした。
日照りも少なく、僅かに涼しさすらあるが、これ位の方が歩きやすい。
平民ならば絶対に近寄れないだろう美麗な植物庭園を鑑賞し、頭の熱を冷ましていく。
と、そこに見覚えのある人物が見えた。
「今の姿……もしかして、グレン様……?」
後姿だけだったが、それは間違いなくシュトラール家の当主だった。
この時間帯なら、既にグレンと入れ替わっている頃だろう。
しかし、何をしに来たのか。
彼の乱暴さを考えるなら、庭園に立ち寄るとは思えない。
何となく気になり、セリアは後を追う。
すると庭園を抜けた場所、大きな小屋に辿り着いた。
「よーしよし。良い子だ。相変わらず可愛いやつだな、お前は」
今までとは全く違う声色が聞こえてくる。
覗き見ると、グレンは小屋にいた動物と戯れていた。
真っ白な大型犬だ。
人一人分くらいの大きさはあり、その白い毛並みは毛布のように柔らかそうだ。
そんな洋犬が、あのグレンに懐いている。
顔の辺りをくすぐられ、彼は僅かに笑った。
「はは。おいおい、くすぐったいっての」
「……」
「クリスの奴、仕返しのつもりか……? こんな事なら、あんな真似するんじゃなかったな……」
「あの……グレン様、ですよね?」
「なっ!?」
自然と歩み寄って声を掛けると、グレンは仰天して振り返った。
互いに数秒の沈黙が訪れる。
それから彼は小さく咳払いをした。
「コホン……聖女、此処に何の用だ?」
「いえ、その……もう遅いと思いますけど……」
「くっ!?」
流石に誤魔化しようがない。
グレンの表情からは、昨日に見た冷徹さは消えていた。
よく分からなくなって、セリアはそれぞれを見比べる。
大型犬は、人懐っこい顔をしていた。
ほぼ他人であるセリアに対しても、吠えることはない。
興味深そうに、傍に近寄って来るだけだ。
考えるよりも先に、彼女は白犬の頭を撫でた。
モフモフである。
「大型犬ですね? 何かあったんですか?」
「べ、別に……クリスに先を越されただけだ」
「先?」
「餌をやったんだよ。ラビは餌を食べてる時が、一番可愛いんだ」
「……」
「……言っておくが、俺は別に何とも思ってないけどな。これは、客観的な事実だ」
どうやら白犬はラビと言うらしい。
そして、出てこないだろうと思っていた言葉の数々が、グレンの口から飛び出してきた。
クリスが言っていたお仕置きとは、この事だったのか。
そう思い、セリアは自然と笑ってしまう。
「ふふっ」
「っ!? お、お前……! 何を笑って……!」
「ご、ごめんなさい……。でも何だか、可笑しくって……」
笑うなんて久しぶりだ。
照れくさそうにするグレンが、年相応の青年に見える。
いや、これこそが彼の素なのだろう。
言われていた通り、聖女という存在が気に入らず、あんな曲がった態度を取っていたのだ。
少しだけセリアは安心する。
グレンはそんな彼女から何かを感じ取ったのか。
ラビを撫でながら、小さい声で問う。
「……クリスに何か言われたのか?」
「!」
「昨日とは様子が違う。あの時は、明らかに俺を警戒していただろ」
「それは、貴方が乱暴な態度を見せるから……」
「言っただろ? 何をしようと、俺の勝手だと」
再び、グレンは仮面を付けて取り繕うとする。
その言葉は、今までよりも固い。
とても本心から出た言葉には聞こえなかった。
尻尾を振るラビを見て、セリアは問い返す。
「分かりません。昨日の貴方と、今の貴方は、どうしても同じに見えないんです」
「……」
「何を隠しているのですか?」
「……それも聖女のご高説か。素晴らしい話じゃないか」
昨日と同じように聖女を軽視する発言が聞こえるが、あの時ほど感情的にはなれない。
そもそも、既にセリアは聖女の称号を失う寸前の身。
どんな言葉でも救いになっていた声は、直ぐにでも意味のない雑音に変わっていく。
「もう、私は聖女ではなくなります。これが終われば」
「終わりはしないだろ。歴代の聖女も、力を失った後は教会に従事したと聞く。お前には居場所があるじゃないか」
「それでも……今のようには続きません。周りの目は当然変わります」
何の変哲もない少女が、担ぎ上げられ、そのまま降ろされる。
周りは気にしていないのかもしれない。
それでも、当事者であるセリアは違う。
環境の違い、周囲の態度、それらをどうしても見比べてしまう。
「歴代の聖女様に顔向けが出来るように、私は全力で使命を果たしてきました。教会にあるのは、聖女としての私だけ。血反吐を吐くことだって、一人でないと許されませんでした」
「……」
「本当のことを言うと、私は教会に残る気はありません」
「どうする気だ?」
「そうですね……。顔も広く伝わっていますし、どこか遠い所にでも移り住もうかと……」
「何故だ……? 何故、今までの自分を捨てるような真似を……?」
「私は元々、身寄りのない村娘です。自分らしく生きていきたいんです」
当然ではあるが教会では、聖女らしい振る舞いを強いられた。
平民であろうと関係はない。
力あるものの責務として、人々の前に立つ上で相応しい教養を身につけられた。
突然それに目覚めたセリアには、ただ息苦しいだけだった。
だからこそ今では、聖女セリアを知らない地へ移り住むことすら望んでいた。
「グレン様は、どうなのですか?」
「……」
「差し出がましい発言だとは分かっています。しかし、呪いを解くことが本当に良い事なのでしょうか」
「他の貴族達に蔑まれながら、生きていけと言うのか?」
「違います。クリス様と、話し合ってほしいのです。手紙でも、伝言でも……お互いに話し合えば、何か別の方法が……」
「……そんな事に意味はないな」
それでもグレンは拒絶する。
「アイツと話す事は何もない。どちらがシュトラール家にとって相応しい人間か。必要なのはそれだけだ」
「どうしてそんな……それを言うなら貴方は……」
相応しいという意味でなら、既に決まりかけている。
ラビと戯れるグレンならまだしも、それ以外の態度はあまりに悪い。
厄介者と扱われても仕方ないだろう。
何故そんな、自ら悪意を持たれるような真似をするのか。
そんな事をすれば、浄化される側として選ばれても何も言えない。
しかし、そこまで考えてセリアはようやく気付く。
彼が窓ガラスを割った事実。
クリスが言っていた、今までにない粗暴さだったという話。
神官達の進言。
そこにある意図を知り、彼女は思わず呟いた。
「まさか……グレン様は、そのためにわざと……?」
「おい」
直後、威圧的な声が響く。
彼はセリアをジッと見据えていた。
「それ以上、何も言うな」
「……!」
「お前は聖女だ。呪いを持つ者を解き放つことが目的で、此処に来たはずだ。今までそうやってきたのなら、同じようにやって見せろ」
「私は……」
「客観的な事実だ。私情を挟むな。どちらが浄化するに相応しいか、お前はもう分かっている筈だ」
貴族として、聖女として正しい役目を果たす。
それをグレンは望んでいる。
或いは彼自身、どちらが相応しいか答えを出していたのかもしれない。
自分の思いを覆い隠すように、悟られないように牽制する。
そして寂しそうに寄りかかってくるラビを、優しげな表情で撫でた。
「ラビ、元気でな」
別れを惜しんでいるようにしか聞こえず、セリアは何も言えなかった。
そうしてグレンは無言のまま屋敷に戻っていく。
後を追う事も出来ず、悲しそうに鳴くラビを見て、また胸を痛める。
私情を挟んではいけない。
それは聖女として活動する上で学んだ、規則の一つだ。
個人的事情を挟めば、そこに付け込もうとする者達が現れる。
あくまで聖女は、分け隔てなく救いを与えなければならない。
セリアは規則を理解し、今まで準じてきた。
今回も同じ、つもりだった。
「聖女様、お決まりになりましたか?」
「……」
「差し出がましい発言をお許しください。しかしあのグレン・シュトラールは、神官である私達にもあからさまな敵意を向けてきました。とても伯爵貴族として正しい者とは思えません。やはり、浄化すべきは……」
「少し、一人にして下さい」
「え?」
「……お願いします」
屋敷の自室に戻ったセリアは、再び一人で考え込む。
答えなど出ない事は分かっていた。
しかし、どうしても一人にしてほしかった。
「私に、どちらか選べというの……? そんなの……!」
彼らはどちらも、自身の浄化を望んでいる。
それは生まれてから共に支え合ってきた家族を守るため。
自分の事など構わない。
貴族という建前を理由に、セリアに生殺与奪の権を与えた。
だが、切り捨てられない。
仮に選んだとしても、残された者は決してその結末を望まないだろう。
悲痛な表情を浮かべる様子が、容易に想像できる。
分かっている。
私情を挟んでいる事は言うまでもない。
聖女として、最後に相応しい決断をしなければならない。
選ばなければ、終わらない。
「選ぶのは、聖女としての私……? それとも……」
本当に大切なのは何か。
考えている内に、気付けば再び夜が訪れていた。
食事や必要な身なりと手入れを終え、深夜に差し迫る。
やけに時間が経つのが早い。
結局、その間もグレンとは距離を縮めることは出来なかった。
向こうがあからさまに避けているのが分かったからだ。
いつまでも先延ばしには出来ない。
神官が急かしていたので、期限としても明日までが限界だろう。
一体、どうすれば。
また思考が煮詰まって来たと感じ始めると、何やら部屋の外でバタバタとした音が聞こえ始める。
加えて聞き慣れない、ラビの吠える声までもが届く。
騒々しいために、彼女は扉の方へと向かった。
「何……? またあの人が乱暴な事をして……?」
こんな夜にわざわざ騒ぎ立てる必要もないだろう。
意味があったとしても、それをクリスが望んでいるとは思えない。
心境を知るセリアは、グレンに忠告しようと扉を開ける。
するとその瞬間、嫌な予感が全身を震わせた。
明かりの灯った廊下の先に、見慣れない男が現れる。
屋敷の従者らしき服は着ているが、その眼はあまりにギラついていた。
「動くんじゃねぇ」
「!?」
「聖女、オレのいう事を聞け。そうでなければ、お前の首を掻き切るぜぇ?」
それは、屋敷の者ではなかった。