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第一章 〈其の六〉


「何か目的でも有るの、弥四郎には?」

「有るな__」

弥四郎は、きっぱりと言い切った。

「俺が修行の旅に出たのは__確かに腕を磨いて己の武芸を向上させる事、それが一つやけど、それも最終的な目的の為の過程と言えるな」

「何よ、その目的って」

「それは__」

弥四郎が、遠い眼を空に向けた。

「或る人との約束の為や」

「約束?」

「そうや」

弥四郎が、何かを思い出すかのように視線を虚空に放った。

「試合の約束や」

「試合?」

「そう__」

綾音の言葉に頷くように、弥四郎が空に向けていた顔を下に降ろした。

「あれは、俺がまだ、五、六才位やったかなあ、その人が俺の住んでる大和の国へ立ち寄ったんや。強かった。その人の強さに、俺はガキながら戦慄を覚えた。その時、俺は約束したんや。俺が大人になって、一人前の兵法者になったら、試合を受けて欲しいてな」

意外に純真な弥四郎の思い出話に、綾音も素直に聞き入っているようであった。

「勿論、子供の言う事や。多分その人は俺の事なんか憶えてはれへんやろう。せやけど、俺にとっては生涯を決定するほどの約束やったんや。俺の祖父も兵法者でな、それで自分も一流の武芸者になるて決めとったんやけど、その人との試合を目標に、俺は今日まで修業に明け暮れ、ひたすら己を磨いてきたつもりや」

「へえ__」

何やら、思わぬ美談に綾音もついつい聞き入ってしまっている様子である。

「それで、さ__」

綾音が遠慮気味に口を挟んだ。

「その、弥四郎が約束した人って、なんていう人?」

「その人の名前は__」

今一度、弥四郎が天を仰いで言った。

「新免宮本武蔵玄信殿や」

弥四郎は、あらん限りの想いを込めてその名を口にした。

綾音は無言であった。

暫し、意味不明の沈黙がそこに漂っていた。

「なんじゃい?」

綾音が、伸びあがって弥四郎の額に掌を当てていた。どうやら熱を計っているらしい。

「一体なにやっとんねん」

「アンタねえ__」

綾音が呆れたように言った。

「相手が誰だか分かってんの?宮本武蔵よ、宮本武蔵!」

心底どうしようもないという口調で、綾音が言った。

「武蔵って言ったらあれでしょ、やっぱり、あの宮本武蔵」

「当り前じゃ」

弥四郎が言った。

「宮本武蔵ちゅうたら他にどの武蔵殿が居るねん」

宮本武蔵には複数説がある。彼は武術でも剣術から杖術、鎖鎌に無手勝流など多数の流派を残している上、兵法のみならず書道や彫刻、絵画などで多岐に渡る才能を発揮している為、それぞれの分野での名人が宮本武蔵を名乗って御互いの宣伝に使ったというのである。

「アンタねえ__」

今一度、綾音が弥四郎に言った。

「相手が誰だか分かって言ってんの?」

「当然」

弥四郎も、綾音に負けじと踏ん反り返って答える。

「宮本武蔵でしょ?あんたなんかが敵うワケないじゃない!アタマおかしいんじゃない?」

「そらそうかも知れん」

弥四郎も、否定はしなかった。

「あの宮本武蔵なんでしょ?弥四郎なんかが束になって掛って行っても勝てる筈ないでしょ」

「そらまあ__」

答える弥四郎の声が低くなっている。確かに否定はしないが、流石にここまで言い切られると余り気分の良いものではないようだ。

「よしなさいって、幾らなんでも相手が強過ぎるわよ。宮本武蔵って言ったら、五十回以上試合して負けた事無いんでしょ?室町将軍兵法指南役とか、細川家の佐々木小次郎なんかに勝った、日本一の剣客なんでしょ?弥四郎が幾ら腕に自信があるって言っても、武蔵に勝てる道理なんてないわよ!」

弥四郎を止める綾音の口調が、厭に熱を帯び始めている。

「今の日本で、宮本武蔵に勝てる武芸者って言ったら一人しかいないわよ」

「誰や?」

「決まってるでしょう」

綾音は、胸を張って、自信を持って言い切った。

「あたしの十兵衛様よ!」

またしてもそれか、と言うように、弥四郎がゲンナリと肩を落とした。

「綾音は?」

「え?」

弥四郎の質問に、綾音が不思議そうな顔を見せた。

「綾音は、なんでこないな所に居るんかいな」

聞きながらも、正直弥四郎も及び腰である。何せ先程、言い方は幾分ぞんざいであったものの当人の身を案じて言った言葉に激怒しただけに、このような質問に対してまたも癇癪を起しはしないかと心配な弥四郎であった。

「__」

綾音は言葉に詰まった。

矢張り、あまり聞かれたくないらしい。

「あ、言いとう無かったら無理に言わんでも……」

「んー」

うつむく様におとがいを引いて、綾音は考え込んでいる。

「言いたくない」

弥四郎の方に向き直ると、努めて明るく綾音は答えた。

「だから言わない」

それだけ言うと、弾む様な足取りで駆け出した綾音は、元気にこちらを振り向いた。

「ほら、弥四郎、早く早く!さっさと来ないと置いてくわよ」

「はははは__」

こうなると弥四郎も、力無く笑うしかなかった。

二人が進み行く東海道に、風が吹いている。

空はどこまでも青かった。




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