第一章 〈其の五〉
「弥四郎、兵法者って言ってたわよね」
「言うたぞ」
綾音の質問に、堂々と答える弥四郎であった。
「やっぱり、武者修行の旅してるわけ?」
「それ以外に何が有るねん」
「じゃあ、ずっと上方の方に居たの?」
「いや__」
弥四郎がふっと空を仰ぎながら言った。
「ついこの間まで江戸に居った」
「江戸?」
「うん」
意外な答えに、綾音が目を見開いた。
「何、旅の途中で江戸に寄ってたわけ?」
「いや、そうや無うてな」
弥四郎が綾音の方を振り向きながら言った。
「江戸に住んどったんや」
「うっそー?!」
その、丸出しの上方訛りから近々まで彼が機内に住んでいたとばかり思い込んでいた綾音は、弥四郎の言葉に頓狂な声を上げた。
「かなり永い事居ったでえ。六,七年は住んどったかいな」
「なんで?」
「なんで、とは?」
「なんでそんなに永い事江戸に暮らしてるのに、上方言葉が治らない訳?」
「厭な言い方すんな」
弥四郎は、その種の考え方に対し恐らく関西人が時代を超えて等しく抱くであろう極々平均的な感想を口にした。
「上方の人間が、なんでわざわざ江戸の田舎言葉なんぞに合わせなあかんねん。五畿内は太閤殿下の時代から、更にその前から京の天子様もおわす日本の中心やないけ」
踏ん反り返って関西人の誇りを口にする弥四郎に、綾音は何となく親しみを深めた様な想いだった。
「せやけど、一応武家言葉位は喋れるけどな」
「へえ」
「意外におわしますや?」
言った途端に取って付けた様な武家言葉を口にする弥四郎であった。
「拙者とて武士の端くれ、御城内に在っては宮仕えの身に候えば、些かなりとも武家のたしなみは心得て御座る」
「御城内?」
弥四郎の言った、思わぬ不用意な一言に綾音が耳ざとく反応した。
「御城内って、まさか……」
「ああ__」
しくじった、と言うように弥四郎がそっぽを向いた。
「まあな__」
ここでその話題を打ち切りたいという内心を、相手にも分からせようと露骨に態度に表わす弥四郎だったが、綾音は容赦しなかった。そんな綾音の目線に抗しきれず、弥四郎は仕方なく言葉を継いだ。
「江戸城で勤番やってたんや」
「ええー!?」
またまた綾音がけたたましく声を上げた。道行く旅人が、何事かと振り向くほどの声音だった。
「弥四郎って、御旗本だったの?」
「ん、まあ__」
弥四郎が、曖昧に言葉を濁した。
「親父が直参でな。それで俺も一応登城して色々__」
「へえー__」
綾音が目の色を変えて弥四郎を見返した。
「弥四郎って、凄いんだ、意外と」
「何が」
「だって、天下の御直参でしょ」
そう言うと、弥四郎が鼻で笑った。
「要するに毎日毎日登城して、日がな一日無意味な役所勤めして、それだけで無駄飯頂戴しとるんやから、直参言うんは結構な商売やで」
「んもう」
綾音が、またしても機嫌を損ねて唇を尖らせた。
「何よ、折角褒めてあげてんのにイ__」
「褒めるてなあ」
弥四郎も嫌そうな顔で言った。
「そないな肩書褒められてもちっとも嬉しうないわ」
「弥四郎のへそ曲がりイ」
「ふん」
綾音に負けじと、弥四郎も口元を歪めて対抗する。
「実際、城勤めて、何やっとった思う?」
「知らないわよォ、そんな事」
「何百石たら言う旗本が、日がな一日詰めの間で時間だけ潰して、刻限になったら将軍の御膳運んだりなんやで、ろくな仕事もせんと目の玉飛び出るほどの俸禄取りくさるねんから、ホンマ何考えとるねん、全く」
「へえ__」
普段考えたことも無い話だけに、綾音もただ弥四郎の言葉に相槌を打つだけであった。
「わしも、別にやる事言うたら何とてないのに時間だけ潰して終わり。ろくろく武術の稽古もでけへんかったわ」
「そう言えば、弥四郎って兵法者だって言ってたわよね」
先程口にした言葉を、今一度繰り返す綾音であった。
「そうや」
「武者修行の旅だって言ってたわよね」
「はいはい」
「じゃあ、特別に目的なんてないよね?」
「うーん……」
綾音の言葉に、弥四郎が首をひねった。
「何、なんか目的有るの?」
「まあ、有るというたら……」
妙に意味有り気に、勿体つける弥四郎であった。
「自分を鍛える事?」
「ま、それはそうやけどな」
弥四郎が、更に意味深な態度で言った。