第一章 〈其の壱〉
武蔵国。
ここは天下の東海道、神奈川宿と保土ヶ谷宿の間である。
「何すんのよ!」
年の頃なら十六,七と言った娘に絡んでいるのは見るからにガラの悪い浪人体の男達、一,二,三……総勢十人近くであった。人通りの多い往来のど真ん中だが、誰もこの狼藉を咎めようとはしない。偶に足を止めようとする者があれば、浪人の仲間が凄んで追い散らす。それでも尚若い娘の難儀を救おうなどと云う酔狂人は残念ながら通りかからない模様である。
「いいじゃねえか、付き合えよ、俺たちと」
「バカ、誰が!」
その顔を見ただけで十分に暴力的といった模範的な悪人面がズラリと並んだ浪人集団を相手に、顔色は蒼ざめているとはいえ気丈に声を荒げる姿は勇ましい、いや、意地らしい限りだが、どう見てもこの状況にあって娘の身の安全は無きに等しいというのが現実である。
浪人の一人が娘の手首をつかんだ。
「いや、離して__」
その時である。
「な、なんだ手前エは!」
一人の若者がこの騒動の中に割って入ったのである。
腰に大小を帯びた、見た所武家の身なりである。浪人風ではない。深編み笠を手に、手甲脚絆の旅支度で身を固めた二十過ぎ位の若武者であった。
「なんじゃい」
丸出しの上方訛りで一座の浪人衆を睥睨した。
「東夷ちゅう奴は女一人を寄ってたかっていたぶるゴクツブシの集まりかい」
「なんだとお!」
「手前エ__」
若武者の挑発的な言動に、浪人たちの間に殺気が漲った。
「ニイチャン、えらくカッコ付けてくれるじゃねえか」
若武者がニヤリと笑った。
浪人たちに絡まれていた娘は、不安げな面持ちで様子を窺っていた。
「ようよう、上方のアンチャンよお__」
浪人の一人が前へ出て言った。
「女の前でいい格好してえってんだったら相手が悪かったなあ。俺たちゃあ、そんじょそこらのゴロンボたあ違う、この界隈じゃ名の通った竜巻組ってモンだぜ」
確かに、最近この辺りで暴れ回る浪人の噂は宿場街でも広まっている。彼らが噂の浪人集団なのだろう。
「まあ、禄にあぶれたとは言え、俺たちも武士の端くれだ。侍同士、ここは相みたがいといこうじゃねえか」
「見逃してくれるんかい?」
「ただし__」
浪人が下品な笑顔を見せた。
「手前エの身ぐるみここに置いてってもらおうか。それでお前さんは見逃してやらあ」
「ほうか__」
それっきり、若武者は沈黙した。何かを考えているのだろうか。何せ相手は多勢、こちらはたった一人の状況である。浪人たちの言う通り、格好付けたはいいもののここへきて後悔もひとしお、いらぬお節介をするのではなかった、この場を無事何事も無く切り抜けるにはどうすれば良いのかと思案にくれているのかも知れない。
一方、この騒動の原因となった娘は不安と期待の入り混じった眼差しで、先程から無言のまま成り行きを見守っている。
若武者は黙って自らの羽織の紐に手をかけた。
浪人たちが勝ち誇ったような笑いを浮かべ、娘は失望に落胆した。
「それでいいんだよ、坊や」
浪人たちの中から、一際髭を蓄えた男が若武者の目の前に進み出た。
「そうやって素直に言う通りにしてりゃあ痛エ目に__」
更に何かを言おうとした鬚面が、声をのみ込んだ。
「__痛エ!」
男が悲鳴を上げたのも当然である。若武者は目の前に出てきた浪人の髭を掴むと引きずり落とし、おまけに唾まで顔に吹きかけたのだ。
「なんだ?!」
「この野郎!」
既に若武者は鬚面を刀の柄で当て落とし、そのまま突き飛ばして仲間にぶつけると、息つく暇もなく浪人達の真っ只中に飛び込んで続けざまに当て身を食らわせ、瞬く間も与えず五人を簡単に片付けていた。
全く意表を衝かれた浪人達は、反撃のいとまもなく半数を倒されてただ茫然と倒れた仲間と若武者を見比べるだけであった。
浪人達に絡まれていた娘も、あまりに急激な展開に頭が付いて行かず、あれよあれよと成り行きを見守るだけであった。
正直言って完全に気後れしているにもかかわらず、未だ未練たらしくその場に踏み止まる浪人衆に対し、若武者は静かにそこに佇むだけであった。いきり立ったり、挑発的に笑ったりする事なく、極々当たり前のようにそこに立つだけの居ずまいである。もしも若武者が何かしら凄んだり好戦的な波動を撒き散らしたならば浪人達も勢いで反撃に転じたであろう。しかし、若武者は飽くまで自然に、些かの気負いも無く静かに事態を処理した為、浪人達も気を殺がれて口火を切る事が出来ないのだ。
見事な呼吸であった。
ふと__若武者が柄に手を掛けた。否、柄を握ろうとするかのように手を添え掛けた。
「__くっ」
浪人の一人が、まるで若武者と呼吸を合わせたかのように声を上げた。
「糞、引け、引き上げだ!」
そう言うとわずかの躊躇いも無く、脱兎の如く逃げ出した。仲間の一人がそう言ってくれたので、残りの浪人も救われたような想いでわらわらとその場から駆け出した。
倒れたままの浪人達と声も無く茫然と立ち尽くす娘をおいて、若武者は飄々と歩きだした。