兄と妹_それぞれの考え。
丁度定時になったので、オフィスを出てエレベーターに乗り、四方の待つ会社の門まで向かう。四方は、俺の姿を見ると軽く右手を挙げて挨拶をした。
東堂「四方...」
四方「お疲れ様です。東堂さん。」
俺と四方は二人で会社の最寄り駅まで、お互い言葉を交わさず歩いていた。俺は、四方に先程の失言を謝りたくて、いい機会がないか伺っていた。
東堂「なあ、今日は」
四方「すいません。今日は俺の家で飲みましょう。」
東堂「え?」
四方「東堂さん、俺に謝ろうとしてませんか?」
東堂「それは...」
四方「謝るのは俺の方です。こんな状況の会社を抜け出すなんて。」
それは違う。俺だって立場が逆で、この会社を抜け出す能力があれば、四方のように転職していただろう。俺がこの会社に残るのは、そんな能力がなかったから。四方を引きとめようとしたのは、俺と一緒に沈みかけた泥舟に乗る仲間になって欲しかったから。自分でもそれがわかっていた分、余計に自分が嫌いになりそうだった。
四方「だから、謝らなくていいです。」
東堂「ああ...お前がそう言うなら。」
四方「今日は夜中まで付き合ってもらいます。」
東堂「でも、終電が。俺も今日は家に帰らないと。」
四方「9時頃に奈々が帰ってくると思います。奈々にクルマださせますから、それで東堂さんを家まで連れて行かせますよ。」
東堂「奈々ちゃんが?」
四方「はい。あいつ、俺より運転うまいんですよ。」
そんな話をするうちに、四方の家の近所まで来てしまった。リカーショップで適当に酒とつまみを買い、四方の家に上がることになった。
妹と二人暮らしの家だけあって、整然と片付けられている。男物のシャツと女物のコートがハンガーにかけられてるのを見ると、まるで夫婦で住んでいるような感じだ。
四方「さ、飲みましょう。」
東堂「なあ、ところで送別会とかしなくていいのか?」
四方「必要ありません。俺はこの会社を裏切って出て行くんです。じゃあ、乾杯。」
東堂「ああ...乾杯。」
最初はなんだかギグシャクした感じだったが、ビールとつまみのチーズを口に含むと、だんだんと陽気になってきて、それは四方も同じようだった。テレビをつけ、くだらないバラエティ番組を見ているうちに、俺たちの話は少しづつ盛り上がり、四方の新しい会社の話になった。
東堂「なあ、新しい会社で何するんだ?」
四方「セキュリティです。今、中国とかのサイバー攻撃が問題になってるじゃないですか。」
東堂「なるほどね... 」
四方「サイバー攻撃を完全にシャットアウトするためには、自分自身がハッカーになる必要があるんですよ。」
東堂「おいおい、怖いこと言うなよ。」
四方「言い方が悪かったですね。自分自身で相手をハッキングできるから、相手のハッキングを防げるってことですよ。要するに使い方次第ってことです。」
東堂「ふーん。ま、お前なら大丈夫だろ。」
この誠実な男なら、自分の持つ力を間違った方向に向けることはないだろう。大きく成長し、いつの間にか俺の手の届かない所に行ってしまった四方に対し、不思議と悔しいという気持ちはなく、むしろこの男を誇りに思っていた。
そんなことを考えていると、家の鍵が開いて、若い女の声が玄関から聞こえてきた。四方の妹の奈々(なな)ちゃんだ。
奈々「お兄ちゃん、誰か来てるの? ...あ!」
四方「よう、帰ってきたか。東堂さんだよ。」
奈々「東堂さん、お久しぶりです。兄がいつもお世話になってます。」
奈々ちゃんは、年齢でいうと四方の2つ下。27歳ということになる。かなり童顔で、背も早絵ほどではないにしろ割と低い方だ。ただ、細く、肌が白く透き通っていて、学生時代俺と同じテニスサークルにいた頃から、男子からの人気は高かった。目はそんなに大きいわけではないが、綺麗な瞳をしていて、不思議と魅力のある女の子であったことは昔から覚えている。俺は奈々ちゃんの兄である四方と仲が良かったので、一度もこんなことは言わなかったが。
東堂「いや、もう世話は終わったんだけどな。」
奈々「え... ? お兄ちゃん、もう辞めること、東堂さんに言っちゃったの?」
四方「ああ。まあ、辞めるなって東堂さんに説得されたときは、グラっときそうになったけどな。」
東堂「その話はいいって...。」
奈々「え?なになに、聞きたいです!」
その後は、3人で今日の話、四方の新入社員時代の話、学生時代のサークルの話と話題が途切れることはなかった。夜11時も過ぎた頃、奈々ちゃんがこんなことを言った。
奈々「そういえば、もう7年くらい前ですけど。」
東堂「?」
奈々「東堂さんが私のこと、気になってるって話、ありましたよね。」
四方「あったあった!懐かしいな。確か早絵ちゃんにバレるって東堂さん慌ててたっけ。」
東堂「そ、そんなことあったか?」
奈々「ありましたよ!私が大学2年生のとき、サークルの飲み会で...」
東堂「ああ、あれは、本の酒の席での冗談だったのに...。」
四方「まあ、東堂さんにはもう早絵ちゃんがいましたからね。奈々じゃ無理ですよ。」
奈々「ひどーい。ひどくないですか?ね、東堂さん。」
東堂「ハハハ...」
懐かしい。確かサークルの誰かが、『今の2年生女子が可愛い子揃い』って話で、その中で誰か一番可愛いか俺に聞いてきたんだっけ。そこで俺は酔ってたこともあって、つい奈々ちゃんの名前を出したんだ。あの時の四方の怒った顔を今思い出した。
東堂「ところで奈々ちゃん、結婚するんだって?」
奈々「あ、東堂さん、話逸らしましたね。」
東堂「いいだろ、その話はもう!」
奈々「ふふ、そうですよ、結婚するんです。耕輔くんって言って、この近くで働いてるんです。」
四方「いい奴ですよ。俺は耕輔のこと、結構買ってます。まあなんか、あいつは俺のことちょっと苦手みたいですけど。」
東堂「え、それはマズいんじゃないのか?」
奈々「それはお兄ちゃんが、耕輔くんのこと、会うたびに詮索していちゃもんをつけるからでしょ。」
東堂「はぁ、成る程な。それは四方が悪いな!」
四方「東堂さん、それはないっすよ〜。」
そんな話をしているうちに、もう深夜12時前になっていた。いくら明日が土曜日で会社がないとはいえ、さすがにこのまま帰らないと早絵が可哀想だ。早絵に「今から帰る」とメッセージを送り、二人にこう伝えた。
東堂「じゃ、そろそろ帰るよ。もう遅いしな。四方、頑張れよ。」
四方「東堂さん、今までありがとうございました。」
東堂「はは、今生の別れじゃないんだから。」
四方「確かに。おい!奈々!車で東堂さんの家まで送ってあげてくれ。お前、酒飲んでないだろ?」
奈々「うん!待ってね、車のキー持ってくる。」
東堂「そんな、歩いて帰るよ、俺。」
奈々「もう夜は寒いですし、風邪引いちゃいますよ。今日はお兄ちゃんに付き合ってくれたんだから。」
四方「そうそう、最後の恩返しと思って、乗ってやってください。」
東堂「そうか、悪いな。サンキュ。」
そう言って、俺と奈々ちゃんは二人で四方の車に乗り込んだ。奈々ちゃんの趣味だろうか。可愛らしいパステルカラーの軽自動車だった。
東堂「運転は大丈夫?」
奈々「あ、もしかして私のことバカにしてますね?」
東堂「いや、そういう訳じゃないけどさ」
奈々「この車、私が選んで買ったと思ってません?」
東堂「違うの?」
奈々「これ、お兄ちゃんが私にプレゼントしてくれたんです。ホントはもっとカッコイイ車が良かったんですけど、マニュアルの。」
東堂「え、免許マニュアルでとったのか?」
奈々「そうですよ。だからこんな可愛い車、私の趣味じゃないんです。あ、これはお兄ちゃんには内緒ですよ...」
東堂「ハハハ、わかったよ。」
二人を乗せた車は深夜、交通量の少なくなった大通りを走り出した。