第二話「きれいごとなんてキライだ」
一時間近くを浪費してようやく目的の高台が見えてきた。
足が鉛のように重い。指先が痺れる。目が霞む。呼吸をしているのも辛い。うるさく喚く心臓はいつ反抗するか分かったものではない。
心臓に負担がかからないように気をつけていたつもりだったが、やはり負担はかかっていたらしい。
額に浮かぶいろいろな汗を右腕で乱暴に拭う。風が身体から熱を奪っていく感触が心地好い。揺れる枝葉が擦れる音は自然を感じさせてくれた。
自然が奏でる音に乗って歌声が聞こえてくる。澄み切った透明な音色。
「よかった、いてくれた」
気分が高揚していくのが自分でもわかった。走り出したくなる心を自制し、歩調を変えることなく歩みを進める。
桜の木々に囲まれた小さな舞台。月明かりに照らされる街並みに捧げるように、歌を奏でる一人の少女。
飛雛薺。それがこの天使の声の主。天月桔梗が惹かれたモノ。
風が吹いた。木々がざわめく。桜の花弁がさらわれる。
桜が舞い散り、夜天に浮かぶ蒼月へ捧げられる天使の歌声。幻想的な光景を目の当たりにして、俺は万感の念を抱かずにはいられなかった。
この世界に美しいと思えるものがあると知った。一時とはいえその中に身を置くことができた。
現金なものだ。それだけで救われたような気がした。
身体から力が抜けた。膝から崩れる。長時間歩いたことの代償か。足が軽く痙攣を起こしていた。
「だれ?」
物音に気づき、ナズナが振り返る。俺の姿を認めて目を見開くと慌てて駆け寄ってきた。
「ちょ、ちょっと! どうしてこんなところにいるのっ!?」
「いや、まあ、なんというか……ひま、だったから」
「はあっ!?」
ナズナはあんぐりと口を開けて俺を見た。
「ひまだったからって……あなた初めて会ったときにも発作起こして倒れたじゃない! そんな理由でまたこんな無茶したっていうの!? 馬鹿じゃないの!?」
「ははは、言い返せない」
そう。担当医に余命宣告されることになったきっかけ。一週間前にこの高台に来てナズナと出逢った俺は彼女に身の上話をしているときに発作を起こしたのだ。
ナズナが救急車を呼んでくれたので、その時は一命を取り留めたがまた同じことが起きれば今度は死ぬかもしれない。
「じゃあお礼を言いに来た。この前はありがとう。おかげで命拾いしたよ」
その場ででっち上げた理由だが、頬を染めながらナズナは照れ隠しに口を尖らせた。
「そんなの、こんな無茶してまで言いに来ることじゃ……」
「そういうことにしておいてくれよ」
俺が苦笑するとナズナは肩をすくめた。
「わかった。本当はすぐに病院に戻れって言いたいところだけどね。ベンチで横になって少し休みなさい。病院に連絡するのはそれまで待ってあげる」
「ありがとう」
ナズナの肩を借りて何とかベンチまで辿り着いた俺はすぐに仰向けになった。夜の風を感じながら、ぼんやりと星空を眺める。
「身体は平気なの?」
俺の頭の上でベンチに腰を下ろしたナズナがそんなことを訊いてくる。
「正式に絶滅危惧種に認定された。もってあと半年だとさ」
ナズナは息を詰まらせた。憐れみか、悲しみか、憂いか、どれともつかない表情で俺を見る。
そんな顔をさせたいわけではなかった。
「いつかこうなるってわかってた。それが明確な数字で表された。それだけだよ」
「でも、それって……」
ナズナの言葉は途中で途切れる。続く言葉がなんであるか俺は気づかないフリをした。
「優しいんだな」
「え?」
「こうして会うのはまだ二回目だ。ほとんど初対面も同然の俺のことを心配してくれるなんて優しいよな」
「優しいなんて……こんなの、あなたの境遇を知ったら当たりま……」
「そうでもないんだよ」
少しだけ強く否定した。
「表面上はそうなんだろうな。けど余命幾ばくかの人間の相手なんて重すぎると思うよ。中学で友達だった奴らも高校生になってしばらくたったらめっきり来なくなったよ」
もし俺が死んで、本当に悲しんでくれる人はどれくらいいるのだろうか。
「なら、あなたからすれば私も同じじゃないの?」
「そうかも。けどなんか温かい。あんたに向けられる同情は、嫌じゃない」
「……もしかして、あなたに一目惚れでもされた?」
そう言われて俺はことさらに慌てた。顔が熱くなるのを感じながら鼓動を早めようとする心臓を何とか宥める。
「そ、そういうわけじゃ……まあ確かに、きれいだなとは思ったけど」
ナズナを見上げる。顔立ちは整っている。目は大きく肌は白い。世間一般が可愛いと評するほどには容姿が整っており、女の子らしい雰囲気を纏った女の子だ。
だがそれだけだ。失礼な話だが絶世の美少女と呼ぶほどではない。
惹かれているのは確かだ。その理由を明確に言語化するのは俺には難しかった。
「よく、わからない……恋愛なんてしたことないし……」
俺はナズナに尋ねた。
「そうなのか?」
「私に聞かれてもねぇ」
困ったようにナズナは笑った。
それはそうだ。自分はあなたに一目惚れしたんですか、と相手に聞いてどうする。
話していると瞼が重くなってきた。少なからず運動をしたせいだろう。衰えたスタミナを消費したものだから身体が休みたがっている。
それを察したのか、ナズナがそっと微笑んできた。
「ん? 眠いの?」
「眠い。でもこんなとこで寝るのは、ちょっとまずい……」
「そうだね。また発作が起きたら大変だし。戻れる?」
「来た時と同じくらいの時間をかければ、たぶん」
別に眠いというだけで身体が動かないわけではない。多少の疲労感はあるが、どちらにせよ戻らなければないことには変わりないのだ。
「それってどれくらい?」
「……一時間くらい」
「かかりすぎだよ。もう日が変わってるんだよ? 身体冷やしたりするわけにはいかないでしょ。倒れたことにして救急車呼んであげる」
そう言ってポケットから携帯を取り出すナズナを俺はそれなりに必死に止めた。
「ま、待ってくれっ。できれば大事にしたくないから救急車は勘弁してくれ」
「そんなこと言ってられる身体じゃないでしょ」
「それでも頼むよ」
「自力で戻れるの? 誰にも見つからず、何事もなく」
責めるような口調。とっさに返すことができず、俺は声を喉に詰まらせた。
「はあ……じゃあ妥協案。一時間くらいなら、私が見ててあげる。一時間経ったら救急車呼ぶからね。そうしたら大人しく病院に戻ること。いいよね?」
「えっと」
「反論は認めません。大体、そんな重症なくせして一人で出歩くなんて……大事にならないわけがないじゃない。命っていうのは、そんな粗末にしていいものじゃないんだから」
ナズナは不機嫌そうに俺を諭す。言いたいことはわかる。命とは尊いものだ。そうでなくてはならないし、そうあるべきだと世界が支持している。
感情的になって無闇に捨てるようなことをしていいはずがない。
わかってはいるが、納得できなかった。
俺はあと半年で死ぬ。それ以上を永らえたとしても、大人になることすらできないだろう。
何も残せないのだ。大量の薬を消費し、多額の医療費を浪費し、大勢の人間に迷惑をかけ、天月桔梗として何も成すことができずに死を迎える。
その焦りを〝これから〟がある人間たちにわかるものか。死を間近に感じている俺を理解できるのは俺と同じ境遇にある者だけだ。
それ以外の人間が口にする言葉はすべて綺麗事にしか聞こえない。
彼女も同じなのだろうか。
もちろん、口にはしないけれど。
「……わかった。じゃあ少しだけ眠らせてもらうから、あとはよろしく」
ナズナが頷くのを確認してから俺は静かに瞼を閉じる。視覚が遮断され、暗闇と微睡みが襲い掛かってきた。
きっと天月桔梗の気持ちは誰にも理解されることなく結末を迎えるのだろう。
それを認めていながら抗いたい自分がいる。都合のいいことだとわかっていながら、でもせめてと思ってしまう。
せめて彼女は他の人とは違っていてほしい、と。
夜の外気を吸いこんで、喉が鳴る。口が動く。
何を言ったのか自分でも聞き取ることができなかった。