初華 ~月下の出逢い~
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寂しい場所だった。
草木も眠る丑三つ時。人影はおろか虫の鳴き声すら聞こえてこない。整えられた土の坂道を囲う針葉樹は葉の一枚も揺らすことなく沈黙を守り続けている。
あるのは葉の間から漏れる月の光と、うるさく喚き散らす左胸の心臓だけだった。
「――――――――」
心音に混ざって何かが聞こえた。どこか温かみのある優しい旋律。
聞こえてきたのは歌だった。
澄み切った綺麗な歌声。耳朶を打つ心地良さは今まで耳にしたどんなヒットソングも比較にならない。
混じり気のない透明な声は歌い手の純心を表しているように思えた。
在り体に例えるなら、そう――
「天使の歌声、ってか? はは、シャレになってねぇや」
自虐的に笑いながら、それでも歌声に惹かれて歩みを変える。針葉樹の姿は少しずつ減っていき、比例して月光がより鮮明に道を照らしてくれた。
少し歩けば街を見渡せる広場に出た。ここに来るまでにいくつもあった針葉樹は姿を消し、百花繚乱と咲き誇る八重の桜が佇む。夜空から降り注ぐ月と星の灯りがぼんやりと花弁を照らす様は趣きがあった。
広場の中央に木製のベンチが一つだけ。歌い手はそこに腰かけていた。
もちろん天使であるわけはなく、いたのは一人の少女。闇夜に浮かぶ月を見上げながら歌を奏でている。
聞き惚れた。胸を打たれた。喚いていた心臓はそれで大人しくなった。
春の風が吹く。眠っていた木々が目を覚ます。枝葉がこすれる音と共に桜の花びらが宙を舞う。
桜吹雪の中で歌い続ける少女はなお幻想的に映った。
声をかけることは愚か、近づくことすら躊躇われた。手を触れれば崩れて消えてしまうのではないかと思わずにはいられないほど、その後ろ姿は儚く尊いように感じられた。
ずっと聴いていたいとさえ思う。しかしその望みは懐にしまっていた携帯の着信音によって叶わなかった。
「だれ?」
風が止まる。
観客のいないコンサートは中断され、人の気配に驚いた少女は誰何の声と共に振り返った。
ほう、とため息が漏れた。
腰まで伸びた黒髪は暗闇に溶けながら、しかし月明かりに濡れて煌めいている。太陽を知らないような白肌は夜闇の黒を弾いてはっきりと浮かび上がっていた。
惹かれたのは容姿ではなく在り方。こちらの姿を認めても警戒もしなければ疑念も抱かない。
貴方はだれか、とただそれだけを問う瞳を向けてくる。
その真っ白な在り方に惹かれたのだ。邪念も雑念も何一つない、自分の心に正直なその姿を美しいと思った。
少女は目を逸らさない。じっとこちらを見つめ続けている。
どうしてか、それを嬉しいと感じた。
「桔梗」
気持ちが顔に出ないように、夜空を見上げて少女から目を逸らす。
「天月桔梗。絶滅寸前の薄命の華だよ」
「キキョウ……いい響き」
少女は立ち上がって向き直る。赤い瞳がこちらを眺めていた。
「私は飛雛薺。ナズナでいいよ。そうだなぁ……夏嫌いの春の七草ってとこかな」
それが少女――ナズナとの出会いだった。
見惚れたのは彼女の在り方を尊いと思ったから。彼女の歌声が美しいと思ったから。
胸の奥に刻みつけられたこの出会いを、僅かに残されたこの生涯キキョウは忘れることはなかった。