1-1 唯一無二の存在
「ねえ空、私も学校に行きたい!」
ポンコツ皇女アエルが元居た世界に帰れなくなってから一週間が経った今日、夕飯を囲うテーブルで彼女は瞳を輝かせながらそう言った。
まあ確かに、雫レベルの引きこもりじゃない限りずっと家にいるのは辛いだろうと考えていた時期だった。それに最近の雫は締め切りが近いということで部屋から出るのもそうそうない。今だって一人夕飯を食べずにこもって仕事をしている。ただこれは余裕こいてゲームしていたあいつの自業自得としか言いようがないが。
「ちゅーかお前、俺を連れて帰るためにここに来たんだろ。呑気に学校行ってていいのか?」
アエルは今、己の当初の目的を忘れたんじゃないかと不安にさせられるほどこの生活に馴染んでいる。つい最近来たとは思えないほど皆と仲良くなってもいた。
「魔力がいっこうに回復する気配がないんだからなす術がないの。回復を待ってただ茫然とこの家でお留守番なんてしてたら気が狂っちゃうわ。ずっといられる雫を尊敬したいくらい」
いや、それはしなくていい。むしろお前の外出願望をあいつに分けてやってほしいくらいだ。この前あいつの携帯に記録されている歩数計見たけど、一日平均三桁未満だったし。
「……アエル、お前本当に学校に行きたいと思っているのか」
突如シリアス値満載のトーンで奈乃が口を開いた。なんか驚きのリアクションがベル〇らみたいで凄くムカつく。
「学校ってのはな――この世にあるあの世みたいなもんだぞ」
「あ、ごめんなさい初っ端から何言ってるかわからない。空」
「無理だ、俺にもこの馬鹿が言いたいことなんて理解できん」
むしろ誰が理解できんだよ、まだ甲骨文字の方が分かりやすいぞ。
「いいかよく聞け。まず朝、うんざりするような早朝に起きなきゃいけないだけでなく、素早く身支度を整えなきゃいけない。男どもには分らんと思うが女の朝の準備は死ぬほど大事だ。これを怠るくらいなら学校なんて行かない方がマシだと思え」
いつも完璧な葉が言うならまだしも時折寝癖を立てて登校してるお前が言うな、と俺は食事をしながら心でツッコむ。あと案外男子の身支度も結構時間かかんだよふざけんな。
「そしてだ、夏は溶けるほど暑く冬は凍えるほど寒い通学路を歩く。ちなみに私は毎朝この時点で帰りたいと思っている」
「……それは少し早くないですか」
奈乃の隣に座る海斗が苦笑いを浮かべながら呟く。これには海斗と同意見だ。
「さらにだ」
「まだあるのね」
「まだあるみたいだな」
これもう、完全に奈乃の愚痴になってないか?
「教室に着くと仲のいい奴らだけではなくあまり喋ったことのない奴からも挨拶を交わさなきゃいけない。ここで人見知りの私は気を遣い疲れが溜まり、より一層帰りたい気持ちに襲われる」
それはお前だけだ。うん、完全に同意しかねる。
「んじゃ挨拶しなきゃいいじゃないか」
「それはいけませんよ空。挨拶はするのが基本です」
ここで答えたのは奈乃ではなく葉だった。……なんか母親に怒られた気分。
「そうだ、ちなみに私も同じことを言って葉にこっぴどく怒られたことがある」
「威張るな。あとお前と同じ考えとか軽くへこむぞ」
俺もそこまで頭のいい方ではないが、こいつに負ける、もしくは同等と思われるのだけは釈然としない。
「そしてとどめに――授業というなの地獄……だ」
くっ、と奈乃は下唇を噛む。ほんと何やってんだよこいつ。
「ねえ空、奈乃はどうして涙を流しているの」
「俺に聞くなよ。言ったろ、バカの考えてることはさっぱりわからん」
「分かんないよ!先生の言ってることは一つも分かんないよ!」
「どうしたのかしら、発狂し始めたわよ」
どうしたのかは俺が聞きたいよ……。
「数学ってなんで習うの?四則演算できればそれでいいでしょ!なんで兄弟そろって家を出ないの?弟だけ自転車の意味が分からない!漢文が読めるようになったら何がすごいの?レ点とか日常で使わないよ無意味だよ!英語ってなんで習うの?日本から出る予定もないのに外国語やっても時間の無駄だよ!そもそも日本語が完璧じゃないんだよ!」
「……ねえ空、奈乃って馬鹿なの?」
「はっはー、今頃気づいたかい皇女様」
昔から救いようのないほど馬鹿だぞ、こいつ。
「聖徳太子とか小野妹子とかアーサー王とかアダムとイヴとか、昔過ぎてしっかりと記録がないのに憶測で語らないでよ!昔話聞いても眠くなるだけだよ!カエルの解剖も天体観測も科学実験もてこの原理も、何が面白いのか全然分かんない!お願いだから体育だけやってようよ。学校って何?学校って何なの?先生の言ってることは昔っから何一つ、これっぽっちも、わかんないのよー!」
ぐうぅっ、と奈乃は机に顔を突っ伏した。そこまでセットなんだな……。
「えっと……。結局、奈乃は私に何と言いたいのかしら」
「学校に通うとかやめておけ」
「あ、すごい短い」
即座に顔をあげる奈乃。もう通常トーンとかすごいなお前女優かよ。
「ご忠告ありがとう、でも私、やっぱり学校に行きたい」
アエルは軽く微笑みながら奈乃を見つめる。
「ほほう、その心は」
「だって……」
アエルは順番に皆の顔を見る。ああそうか、こいつも寂しいのか。そう思えるってことはお前、立派に東雲荘の住人やれてるよ。
「皆揃ってお昼の話するんだもん!私だってその学食っていうのが食べたいー!」
……前言撤回、こいつもやっぱ食べ物か!
――――――――
夕飯を食べ終えた後、俺は自分の部屋ではなく雫の部屋に向かった。締め切り近くでアタフタしてるのは自業自得とは言ったものの、なんだかあいつは昔から放っておけない奴だ。
「おーい雫、生きてるかぁ?」
「………………」
あ、こいつもしかして、寝てる?
「――家中先生、進捗どうで」
「はははははははははい!問題ないです四十秒で仕上げます!」
進捗って言葉にトラウマ抱きすぎだろ。あと四十秒は無理だろ、ラピ〇タか。
「先生、もしかして寝てました?」
「ね、寝るなんて作家にとってあるまじき行為です!」
「どんなブラック業界だよ!」
ブラック企業大賞を受賞したところでも寝る時間はあるぞ!ちゅーか寝ないと死ぬぞ!
「……あれ、この声はらっちゃん?西野さんじゃない?」
西野さんとは雫の担当編集で、普段はすごく優しくて綺麗な人なんだが、お酒を飲むとダメ人間になるとこと時間に厳しすぎるのが玉に瑕の女性だ。
余談だが独身。あの人そろそろ三十路だけどほんとに大丈夫かな……。
「西野さんは来てないぞ。俺の携帯にも連絡来てない」
普段はいい大人の見本といえる人なので、そのあたりは如才ない。アポなしということは西野さんが雫を迎えに来ることはない……今日は。
「なんだぁ……脅かさないでよぉ……缶詰のお迎えかと思ったよぉ」
ドア越しではあるが、本気で安堵する雫の表情が直接見たようにわかってしまう。
ちなみに缶詰とはホテルの部屋などで仕事しかできない状態にされることだ。雫自身も何度か経験している。
「そこまで追い込まれてるのか?」
「いや、停滞してるとまではいかないけど順調ともいえない感じ……。西野さんすぐ雫を缶詰にしたがるの。あなたはこれの方が進みがいいからって」
あの人の気持ちはなんとなくわかる。こいつは作家である前に生粋のヲタクで正真正銘のゲーマーだからな。部屋の中は極楽浄土と言ってもいいほど誘惑物で溢れかえっている。
「わかった、あの人にもお前の監視を頼まれてるから、今日は一日付き合ってやる。開けるぞ」
「んにゃ!?ちょ、ちょっとたんま!」
ゴン!と勢いよくドアノブを引き戻された。
「……おい。まさかまたサボってエロゲ―してたのか?」
「そ、それもあるけど今は他の理由で開けたくないの!」
それもあんのかよ。いい加減追い出すぞお前。
「別にお前の部屋が世紀末並みに汚れている光景には慣れた、ちゅーか萎えた。今更隠さなくてもいいだろ」
「雫だって汚いのが好きでこうしてるわけじゃないの!あとそれとも違う理由!」
いくら引っ張っても開く気配がしない扉。引きこもりだからと甘く見てたがこいつ意外と力強いな!?
「ああもう!隠してないで言えよ!お前の隠し事なんてどうせしょうもないことだろ」
「らっちゃん最近雫に冷たくない!?倦怠期なの!?」
付き合ってないんだから倦怠期もくそもねぇっての!
「いいから言えよ。こちとらいい加減疲れてんだよ」
「…………ないの」
ボソッと声が聞こえた。だがしっかり聞き取ることができなかった。
「なんて言ったんだ?まったく聞き取れん!テイクツーを頼む!」
「――――っ、だーかーらーっ!」
雫は、最大限の羞恥心を抱いた声で叫んだ。
「今下着姿で服着てないから、ちょっと待ってっていってるのぉ!!!!!」
全身全霊込めた声が、家中に響いた。
無論、それは俺以外の奴にもしっかり聞こえていたらしく、女性陣からの冷たい視線が痛い。冷凍ビームかと思っちゃうレベル。
「死ね、歩く生殖器」
「……空が、そんな、嘘ですよね?」
「空の変態!ゴブリン!ケダモノ!ドーワーフ!」
三者三様の罵倒をありがとう!そしてほんとごめんなさいでした!
――――――――
暫くして、ようやく雫の部屋の扉が開いた。
「は……入って、いいよ」
雫は大きめの黒いパーカー姿に首に青いヘッドフォンをかけた姿で顔を出す。メンズ用なのか、丈が膝まで達していてワンピースの様になっていた。
「……お、おう」
無駄に頬を染めてるもんだからこっちまで恥ずかしくなる。なんか初めて彼女の部屋に訪れた男みたいになったけど、考えたらここ俺ん家だ。
「相変わらずって感じの部屋だな」
フィギュアやタペストリーは少なく、オタク部屋かと言われればそうでもないが、かといって女の子って感じでもない――ただ、ゴミが多い。
「コレクションは集めるとキリないから、雫が出した本のモノだけに限定しているんだ」
言われてみると一般向けからおっぱい丸見えなものまで、それはすべて彼女が生み出したキャラクターだった。普通に可愛いし、そしてエロいというのが率直な感想。
「いや、俺が言いたいのは相変わらず色気がないなってこと。同性の友人の部屋感がやばい。あと足の置き場探さなきゃいけないとか、地下ダンジョンかよこの部屋」
床に散らばっている五割が本、四割がゴミ、そして残りがPCゲーム(十八禁)という割合。俺の部屋よりひどい。
「い、いつもこんな感じってわけじゃないもん。最近は締め切りが迫ってるから特別であって……」
「お前それ、俺がこの部屋来るたび毎回言ってるぞ。どんだけ締め切り長いんだよ」
「だって西野さん刊行ペース早いんだもん。絶対あの人前世鬼だよ……いや現世も鬼だけど」
……チクってやろうかな、今すぐに。
「一概にそうとは言いきれないだろ。脱稿した途端ゲームとアニメの消化に日々を費やすお前も悪い」
「た、溜まったものはすぐ消化したくなる気持ちはらっちゃんだってわかるでしょ?むらむらしたらすぐ――」
「その例えはいちいち口に出さなくてよろしい」
「え、じゃあ《《どこに出すの》》!?」
「…………」
こいつの頭が心配になってきた。割とマジで。
いつも通り、監視も兼ねながら部屋を掃除する。雫本人は現在「終わらないよ~」と涙目になりながらキーボードを叩いている。
「そういえばお前、ご飯食べたか?」
「え?ああご飯ね。まだ食べてない。というか昨日から何も食べてない。ずっと原稿と睨めっこだよ」
雫は当たり前のようにそう言って見せる。相変わらずこいつの集中力はすごい。集中力だけだけど。
「さすがに食わんと倒れるぞ。夕飯はもう残ってないから買いに行くか?」
「あ、じゃあ雫うどんがいいなぁ」
「何言ってんだ、一緒行くんだよ」
そういうと、雫は露骨に嫌な顔をして俺を見る。
「ええ、やだよ。それに今仕事中」
……こいつ、ここぞとばかりに仕事を言い訳に使いやがって。
「お前、今どれくらい外出てないんだ?」
俺は以前から気になっていたことを思い切って聞いてみることにした。
「んー、家が壊れた時以来」
「あれを含めずに」
出たって言ってもほんの数分だろ、あれ。
「最近はネットで物を買うのが当たり前になってきてるからねー。そうだね、一年は出てない気がする」
カタカタとブラインドタッチを続けながら雫は呑気に答えるが、その答えは俺が想像してたのより遥かにひどかった。
「……ずっと、このままでいるつもりなのか?」
「このままって?」
「学校、行かないのか?」
「気が向いたらかな~」
気が向いたら――この答えは中二の頃からずっとだ。
「アエルが学校に行きたがってる。お前もこれを機にどうだ」
「エルちゃんはエルちゃん、雫は雫だよ。誰が何しようとブレないのがスタンス。らっちゃんはそれを知ってて聞くからほんと意地悪」
あと締め切りあるから――とため息交じりで呟く。
昔はただの引きこもりで、毎日死んだ魚のような目をしていた雫。作家業を始めてからはだいぶ人間らしくもなったが、社会から見たらまだまだ課題は多い。担当編集の西野さんもそれはよく口にしている。
だが雫をよく知っているからこそ、それが彼女には容易でないことだと知っている。だから行動にしろ言葉にしろ一歩踏み込めない自分がいる。
彼女だって、願って引きこもりをやってるわけではない。
「ご飯の話したら本当にお腹すいてきちゃった」
見ると雫はパソコンの前で顔を伏せていた。どうやら空腹状態での集中力も限界に達したらしい。
「だったらコンビニ行くか?」
「ええ、歩きたくない。らっちゃん一人で行ってきてよ」
堂々とパシるようになったなこいつ。逆に清々しくなってきた。
「分かったよ。んで何食べたい。牛一頭でいいか?」
「雫をデブキャラにしないで!?いつものやつだよ~」
はいはい、と俺は重い腰を上げ一度掃除を中断する。
「麺類と甘いやつ、ね。帰ってくるまでに進んでなかったら俺が全部食べるからな」
「なっ!!らっちゃん段々西野さんみたいな性格になってる……ダメだよらっちゃん、このままだと結婚できなくなっちゃう!」
お前、それ言ったらマジでシバかれるぞ……。
雫の部屋を出て玄関へと向かう。すると途中キッチンで洗い物をしている葉と目が合った。
「あれ、お出かけですか?」
「雫のパシり。あいつ昨日から何も食べてないらしいからカップ麺でも買ってきてやろうかなと思ってさ」
「そうなんですね――あ、それじゃあ空、少し待っててもらえませんか。私も一緒に行きますので」
そういうと葉は手に持っていた皿とふきんを置きエプロンを外す。……動きが完璧に手慣れた主婦だな。
「買い出しか?それくらいだったら俺一人でも行けるから、お前は休んでていいぞ」
カッコつけて言ってみたものの、葉は笑顔で首を横に振った。
「気持ちは嬉しいですが、自分の目で食材と値段を確かめなきゃ落ち着かないんです。だから二人で行きましょう、たまにはゆっくりお話もしたいですし」
さすが里美ヶ丘の聖母マリア。相手を傷つけることなく己の意見を通す。今の言葉録音して雫に聞かせてやりたいレベル。
「ほんと、葉には頭が上がらんわ」
海外出張に行ってしまった俺の両親の代わりに、東雲荘を支えているのはこいつと言っても過言ではない。炊事洗濯掃除なんでも完壁にこなす姿はまさに主婦の鏡。爪の垢とか売ったらたぶん売れる。
「そんな恥ずかしいこと言わないでください。ほら、行きますよ」
こうして俺は、久々に葉と二人で外を歩くことになった。