0-1 日常の終わり
「お母様、ただいまお時間よろしいでしょうか」
私が母の部屋の前でそう問いかけると、音もなく素早く扉が開いた。
「あら、どうしたのかしら。アエル」
ゆうに千ページはあるかと思われる書籍を魔法でめくりながら、優雅にお茶を嗜む母が視界に入る。この人は昔から難しい本を読むのが好きだ。その趣味がいまだ、私には理解ができないのだけど。
「どうやら、北の国がついに動き出したそうです」
「そう。まあ、十年も何もなかったことが逆にレアケースだったのだから、さすがに北も我慢の限界よね」
私たちの世界は東西南北、四つの国で分裂し現在領土を争いぶつかっている。
十年前に西の皇女と南の皇子が行方をくらませてからは特に大きな惨事は起きていないのだけれど、先日北の先代が亡くなり長が変わって少し雰囲気が変わった。
今度の北の皇子は戦いを好む男だ。王位継承の日をずっと待ちわびていたに違いない。
「それで、北が動いたから東はどうしましょう、とあなたは聞きたいのね」
「……はい」
恥ずかしながら、私にはまだ軍を纏める力はない。他国からも『名ばかり皇女』と呼ばれているくらいだ。
母が偉大過ぎた分、私のポンコツぶりは目立ってしまう。
「そうね……まだいいんじゃないかしら」
「………………は?」
「ん?」
しまった。あまりにも斜め上の回答だったものだから変な声を出してしまった。
「いえすみません。……あの、まだいいとは?」
「そのままの意味よ。この長い休戦の間に有力な兵士たちは職を変えたのだから仕方ないじゃない。戦う前から負けが見えてるわ。占わなくても分かるわ」
ぐうの音も出ない。代わりにため息が出る。
「ですが、このままだと攻め込まれてこの国が……」
「わかってるわよアエル。でも、逆に今戦っても死者を増やすだけよ」
「……」
そんなのは百も承知だ。八方塞がり。詰んでいるというやつだ。
どうすればこの国を救えるのか。私は最近このことを考えては夜もあまり眠れない。だがいまだに解決の糸口は見つかっていない。
「あまり考えすぎたらだめよ。アエル、今のあなたはクマが酷くて可愛くないわ」
「私に可愛さなどいりません」
「あら、彼氏が欲しいとは思わないの?」
「そんな欲望は皆無です」
「だめよ!皇女が死ぬまで処女だなんて!」
「しょ……ってお母様!?なんてこと仰るんですか!?」
「だって愛娘が一生処女発言するんだもの」
「誰もそこまでは言ってません‼」
「じゃあいつ孫を見せてくれるのかしら」
「んもぉぉぉ‼」
ダメ、ギブ、話が進まない。もうおうち帰って休みたい。
……あ、ここが私のお家だった。全然休めないじゃない。
「まあ冗談はさておき、実はあなたのその悩みを解決してくれそうな案、お母さん一つ知ってるのだけど」
私が頭を抱えていると、母が突如助け舟を投げてくれる。
さすがこれでも、過去に最も恐れられた皇女だ。
「その案、お聞きしてもよろしいですか」
私は立ち上がり、母の顔をじっと見つめる。
「地球に行きなさい。アエル」
「地球、ですか」
昔読んだ絵本で、その名を聞いたことがある。
地球、確か異世界にある星で、この世界同様に人間が住んでいる。
「地球にこの国の、否、この世界の未来を変える人間がいると出ました」
「この世界の未来を……」
あまりにも壮大な未来予知で、言葉が見つからなかった。
「その人間を連れてこれば、この国も安全に?」
「そうね、ひょっとしたらこの戦争を終わらせてくれるかもしれないわ」
「戦争を……。そんなに強力な魔力を持ってるのですか!?」
「いいえ、魔力は持ち合わせてないわ。ただの高校生よ」
「高校生?それは職業のようなものでしょうか」
そうね、と母は微笑み本を閉じて立ち上がる。
「とりあえず、行けば分かるわ」
母は私の頭に手をのせ、優しくよしよしとしてくれる。
私はただ目を閉じる。母のぬくもりをしっかりと味わう。
そしてゆっくりと口を開く。
「わかりました。ふぅ……」
左手を前に出し、その真下に一つの魔法陣を作り出す。
「涙を流す太陽と、闇を笑うは丸い月――」
私はゆっくりと、間違いのないように転生呪文を詠唱する。
人間、高校生、この戦争を終わらせる主人公となる存在。
「あ、お母様、ちなみにその人間の名は?知っていなければ探すのも一苦労になります」
詠唱を終えた私は思い出したように問う。
「東雲空よ――あ、アエル」
刹那、魔法陣の光が一層強い輝きを放つ。
「お土産、『たこ焼き』という食べ物がいいのだけれど、お願いできるかしら?」
……私、遊びに行くわけではないんだけど。
「はぁ、わかりました」
「ネギは抜いてもらってね」
「注文が多い!あとネギってなに!?」
そんな感じで、私の国を守るための使命が今、始まる。
絶対に東の国は、私が守る。
――――――――
こんなに全力で走ったのはいつ以来だろうか。
恥ずかしながら反抗期真っただ中の時は『一生懸命はダサい』なんて思い、やることすべてから逃げ出し、一生懸命のやつを嘲笑うゴミみたいな人間に成り下がっていた。小六の頃の運動会では親が見に来ることを恥ずかしく思い、テキトーにやってクラスの出し物を台無しにした。中学二年の時の合唱コンクールは俺のせいで入賞を逃したといってもいい。仕切っていた女子がコンクール後二週間不登校になり、再登校するまで毎日家に頭を下げに行ったことは今でも忘れない。
さすがに高校生になってからはそんな性格を卒業したが、それでも全力とは程遠い怠惰な日々であったことは間違いない。変わらない家、変わらない友達。退屈な平日にバカ騒ぎする週末。あっという間に過ぎて止まることのない日々。
俺はそうやって少しだけ己の過去と向き合い、より計画的に、さまざまなことを考えながら未来を生きようと心に誓う。
よし、思い立ったが吉日。今やろうと思ったことをやろう。
俺は久々に感じる足の激痛と肺を握りつぶされているような感覚を堪え、少し前を走る少女の背中に隠し切れない気持ちを叫んだ。
「てめえ奈乃‼朝からチーズフォンデュをリクエストする馬鹿がいるか⁉完全に遅刻じゃねえか‼」
時刻は午前八時五十五分。MT5だ。マニュアル五速という意味ではない。マジで遅刻の五分前――の略な。
「にゃっははは‼いいじゃねえか!今日は私のごはんリクエスト日なんだから‼」
奈乃はポニテを揺らしながら、ガキの頃から変わらない無邪気な笑顔を見せる。できれば精神面は変わってほしいんだが。
「夕飯にしろ夕飯に。葉なんてまだ皿にこべりついたチーズと戦ってんだぞ」
俺は「時間が経つと落ちづらくなるので」と言って未だ家にいるであろうあの天才家政婦のことを思う。葉は東雲荘の住人――つまり俺らの親みたいな存在だ。褒められる点を挙げればいとも簡単に広辞苑一冊分の量を超えてしまうのでここでは割愛するが、何よりも心の大きさはすごい。あとおっぱいも。
「文句を言うなら私だけじゃなく葉にも言えよなー。拒否権は十分にあったぞ」
「里美ヶ丘のマザーテレサと呼ばれてる女だぞ。責められない」
「あ、最近は聖母マリアとも呼ばれてるぞ」
葉、もういい……さすがに限界だろ。
殴っていいぞ、奈乃を。
朝倉奈乃、長身でスタイルがよく黙っていれば間違いなくモテるルックスの持ち主なのだが、その性格は男を超えた男。加えて去年の夏空手で日本一に輝いた実績を持っている。
「お前も少しは葉の女子力見習えよ」
小さくつぶやいた言葉に、彼女は反応し再びこちらを振り返る。
またその話か――と言わんばかりの呆れた顔だ。
「出た出た。いいんだよ私に女子力なんて」
「諦めんなよ」
あのなぁ、と奈乃は大きなため息をつく。
「諦めるどうこうの話以前に、やる気が皆無なんだよ。私にそういうのは向いていない」
「その心は」
「小五の頃にあった調理実習をよく思い出せ。私が作った肉じゃがを食べたやつらは結果どうなった」
「……全員まとめて病院送り」
そうだ、となぜか奈乃のやつは自慢げだった。俺は俺で記憶と同時に当時味わった苦痛が戻ってくるんじゃないかと冷や汗をかく。
奈乃はなおも続ける。
「適材適所、好きこそものの上手なりという素晴らしい言葉に倣って、葉は家事全般、私は空手を磨けばそれでいいじゃないか。それとも何か?空はもう一度臨死体験を味わいたいのか?馬鹿なのか?」
「誰があんな体験二度もするかよ……」
実はあの事件以来、俺は正直なことを言うとジャガイモが怖い。見てると自然と腹痛が襲ってくる。
「でも、皿洗いくらいはしろよな。お前がリクエストしたんだから」
「まさか葉ではなくお前にそのことで怒られるとはな……。わーたわーた。夜はちゃんとやりますよー」
奈乃はしつこい虫を払うようにしっしと手で払う。
「ちゅーかウダウダ文句言ってるのお前だけだぞ。海斗を見習え。爽やか笑顔を崩さずただただ走ってるじゃないか」
奈乃の一言を機に俺は目だけ動かし、隣を走る男に目をやる。
富士海斗、こいつも俺や奈乃、そして葉と同じ東雲荘の住人だ。この男を一言で説明すると――そうだな、『殴りたくなるほど爽やかイケメン』だろうか。なお実際に殴りたいと切実に思うどうも東雲空です。
「僕はチーズが好きだから朝から幸せな気持ちです。空はそう思わないのですか」
「洋画の吹替風に同感を求めるな。別にチーズフォンデュに怒ってんじゃないんだ。夜やれっつってんだよ」
「チョコフォンならいいのか」
「チョコフォンならいいんですね」
「いいわけあるか‼」
息の合ったボケについつい声を張り上げてツッコんでしまう。おかげでより一層肺から感じる痛みが増す。
「でも、なんだかんだ言ってた割には、空君も完食してましたよね」
う……こいつ何気に俺のこと見てたのかよ。リアル気持ちわるい……。
「それとこれとは関係ないだろ。残したら作った葉に失礼だと思ったんだよ」
皆の無理難題を嫌な顔一つせず毎日作ってくれる葉。それだけではなくあいつは己のリクエスト日を設けていないという謙虚な心の持ち主――今更だけどひょっとしなくても葉って前世神なんじゃないの?
「口を開けば葉が葉が葉が……。ったく、そんなにおっぱいが偉いか⁉巨乳の方が権力保持者か⁉」
我慢の限界なのか奈乃が突如悲鳴に近い叫び声をあげた。同時に俺の視線は彼女の胸部分へと吸い寄せられる。
――だが俺は、何も口にすることができなかった。
「……なんか言えよ。張り倒すぞ」
頑張れ、諦めるな‼
少しの間無言で通学路を走っていると、パンツのポケットに入れていた携帯が震えだした。足を止めることなく取ったその画面には『本多葉』と表示が出ていた。
「どうした葉、チーズとの長きにわたる戦いに決着がついたか?」
ちなみにお皿に熱湯を張りそこに適量酢を加えて放置すれば簡単に落ちるぞ‼(マジで)
「あ、らっちゃん?葉ちゃんならまだチーズと戦ってるよ~」
らっちゃん――その呼び方で俺は瞬時に電話をかけた相手が葉ではないと確信した。
「……なんだ、雫か。どうした」
「あの、ちょ、え……なんだってひどくない?葉ちゃんじゃないと分かった瞬間からの態度冷たくない⁉」
雫はわかりやすいくらい動揺しわーわー言い始める。
こいつ、めんどくささで言えば奈乃をこえるんだよなぁ……。
家中雫、彼女は東雲荘に住み込む寄生虫――もとい警備員兼天才小説家だ。
中学二年の春から書き出した小説が奇跡的に凄腕の編集者の目に留まり、それからはラノベ業界では天才作家と称され根強いファンを数多く持つ売れっ子。ちなみに今は一二〇%男性向けのエロ要素満載のライトノベルを書いている真っ最中だ。
「それで、活字で読者をムラムラさせる新手の変態が俺に何の用だ?」
「へ、偏見だよ⁉これは雫だけでなく数多くの作家への暴言だよ⁉」
「馬鹿お前、褒めてんだよ。心だけでなく下半身にまで元気をくれるエロベ作家を」
「……らっちゃん、本のレビューとかネットで書かないでね。いつか絶対刺されるから――雫に」
「お前にかよ」
それもう詰んでんじゃねえか。同居人に命狙われながら暮らすとかホラーの極致だろ。ちゅーかネット関係ないし。
閑話休題。
「それでどうした。わざわざ携帯借りてまで伝えなきゃいけない用でもあるのか?」
ちなみに雫は今どきの高校生にしては珍しくスマホを持っていない。ずっと家にいるから下宿のメンバーとは直接話し、担当編集とは俺経由でやり取りを行っている。なぜ俺経由なのかはナスカの地上絵が示す意味の次に謎だ。
「うん。朝お願いするの忘れちゃったから」
「お願い?」
刹那、なんだか嫌な予感がしたが――気のせいだと願いたい。
「お願い……というか、おつかいというか」
「…………一応聞こうか、お前の要望を」
「う、うん!実は帰りにBL本を」
俺は電話を切った。――何も、聞こえなかった。
足を止めずに空を見上げる。ああ、今日ってこんなに青空だったんだ。
空の青さに感動していると、携帯が今一度鳴り響いた。
「………………取らないと、ずっとかけてきそうだな」
仕方なく、もう一度電話に出ることにした。
すると――。
「ぶへぇんぶへぇんぶへぇんぶへぇぇぇぇん‼」
……世紀末を迎えたような泣き声が聞こえる。
「どぉして切るのぉ」
「いや切るだろ、一般常識的に切るだろ」
BLだかPLだか知らんけど、俺はそういうのに関わらないと八百万の神々に誓ってんだよ。
「らっちゃんはBL本を読んだ事がないからからそんなことがに言えるんだよ‼文句があるなら雫の一押しを読んでからにして‼」
「はいはい分かったから男に布教を試みるな。後にも先にも読む日なんて来ないっての」
「ハイは一回、そしてホモはいっぱい‼」
再び声を張り上げる雫。最低な言葉だった。
「とーにーかーくー、買ってきてよー。おーねーがーいー」
今度は駄々をこねだす現役JKエロベ作家。こいつ、思い返してみればどれくらい家から出てないんだ?
「分かったよ。買ってきてやるから今度一つ言うことなんでも聞けよ」
俺がさらっとそういうと、突如雫が黙り込んだ。
「……らっちゃん、雫にエッチな要求する気でしょ⁉貸しを作って強引に……鬼畜!変態!編集者!」
「お前の妄想力は豊かか。壮大さは釧路高原か」
黙ったと思ったらまた叫んだり、作家という生き物は忙しいな――あと編集者はやめといたほうがいいぞ。怒られるのはお前だから。
「とにかく本、お願いね。タイトルは『男子校は嫌いですか?』だからね」
すごくリアルなタイトルだった。リアルすぎてマジで男子校が嫌いになりそうなんだけど……。
雫が口にしたタイトルを復唱することなく俺は電話を切った。
同時に、視界には正門が映り込んでくる。
「よし間に合った‼」
自然と喜びが口からこぼれてしまった。
だが、そんな俺に対し奈乃が冷静なトーンでつぶやく。
「おいアホ空。もう一度しっかり時計を見ろ」
「間に合った、は勘違いでは?」
二人《奈乃と海斗》に突っ込まれた俺は言われた通り冷静に時計を見返した。
「………………」
何が間に合っただ、と我ながら思う。
とその時、正門の方から野太い声が遠慮を知らずに聞こえてくる。
「朝倉、富士、東雲――揃いもそろって遅刻とはいい度胸だなぁ‼」
ああ、まだ始まってもないのに、すごく帰りたい。
朝から心底不愉快、そう思う一日のスタートだった。