ゾンビ・ヒューマン・感情パニック!
音を立てないよう慎重に近づき、後頭部めがけて金属バットを振るう。熟れた果実が地面に叩きつけられたような音が鳴り、それはうめき声をあげて倒れた。
強く握りしめた手がじんじんと痺れている。額に滲んだ汗をぬぐい、辺りを見渡す。店内に人影はない。二時間ほどの努力が実を結び、このスーパーマーケットの制圧に成功したようだった。
足元に倒れ伏したそれ、青黒く変色した皮膚の怪物、いわゆるゾンビを見下ろす。一度は人としての命を終え、理性も知性も失ってしまった存在だけれども、それでもやはり元は人間、いつまで経っても罪悪感は覚えてしまう。とはいえ、最初の頃よりは随分と慣れてしまったけれども。
息を整える。暖房なんて効いているはずのない店内は凍てつくような寒さで、吐いた白い息が上へと昇っていく。未だ痺れの残る手を開いたり握ったりして、いち早く感覚が戻ってくるよう努める。ホームセンターに置いてある物で工夫すれば、ゾンビ駆除も少しは楽できるのかもしれないけれども、どうにも二の足を踏んでしまう。図画工作は苦手だ。
手の感覚が戻ってきたのを確認してから食品棚の物色を開始する。今日の晩御飯は何にしようかしら、なんて悩むふりをしてみても、手に取るものは大抵似たり寄ったりで、消費期限がなるべく遠いものである。それに、店内のゾンビを掃討したとはいえ、やはりここは外で、いつまでも安全であるとは限らない。食料の調達は手早くするに越したことはないのである。
リュックのチャックが閉まるギリギリまで食料と飲料水を詰め込み、それを背負う。高校二年生女子の平均身長を下回っている私には不相応な大きさ、そして重さである。
前傾姿勢のまま息を整えて背筋を伸ばし、出口へと向かう。
帰るまでが食料調達だ、緩みそうな気を再び引き締めて、私は外へ出た。
『空気、接触および経口感染型致死性独立ウィルス』、いわゆる『ゾンビウィルス』が世界に蔓延して二か月が経とうとしていた。
ニュースを見る習慣が無かった私は、そのゾンビウィルスがどのようにして世界中に広まったのか、その経過を詳しくは知らない。ただ気が付いた時には未曽有のパンデミックが起こっていて、そうしてそのまま日常が崩壊し、私の高校生活も唐突に終わりを迎えたのだった。
当時私は持てる全ての勇気を振り絞って同級生に告白し、それはもうこっぴどくフラれていた。それは私の心にマリアナ海溝もかくやという深さの傷をつけて、それによってこの世の全てを悲観し、ともすればこの世なんて滅んでしまえ! なんてことを考えていたら、本当に滅んでしまったのである。
あまりにも不幸な願いの成就、もし神様がいたとして、私のその自暴自棄な願いを聞き入れてくれたのだとしたらお節介にも程があるけれども、それでも意外なことに、それは私に一つの幸運をもたらしたのだった。
ゾンビは動きが鈍重で、おそらく物を見る力もほとんど失われているため、見た目から受ける印象よりは危険ではないけれども、決して油断はできない。細心の、特に曲がり角には注意を払いながら帰路を進み、家に着いた。
玄関を閉めて鍵をかける。ゾンビはあてもなく彷徨い歩いたりするけれども、進んで建物へ侵入を試みたりはしない、というより、おそらくドアを開ける知能が無い。そのうえ人間の存在を察知するための能力が特別に備わっているわけでもないため、こうして家に入ってしまえばおおよそ安全である。当然と言えば当然ではあるが、死者が生者の機能を上回るはずがない。
靴を脱ぎ、廊下に上がる。もはや文明が失われてしまった今、こうして靴を脱ぐことには意味がないのかもしれないけれども、それでもせめて家の中ではそういった以前の習慣を大切にしていたい。それにこういった文明人仕草はきっと、最低限の正気を保つために必要な様式美であるはずだ。
日没はまだ先だけれども、電気が通っていないため家の中は薄暗い。階段を上り二階に出て、自室へと入る。
「ただいま、雪花ちゃん」
「・・・・・・おかえり、杉山さん」
ベッドに座り、本を読んでいた雪花ちゃんが私を見た。彼女にとって私が本より優先される存在であるという、そんな些細な事実を噛みしめて、つい頬が緩んでしまう。外の寒さを忘れてしまうくらい、胸が暖かくなる。そんな私の様子を不審がるように、彼女は口を開いた。
「なんだか嬉しそうだね、杉山さん」
「え、あ、うん、だって帰ったら雪花ちゃんがいて『おかえり』って言ってくれるのが嬉しくて、ほんと夢みたいで」
「そう」
「それに、それに雪花ちゃんが逃げずに待ってくれてたのも、うれ、嬉しいよ。こんな私と一緒にいてくれて、すっごい嬉しい!」
「・・・・・・そう」
そう答える雪花ちゃんの瞳に光はない。パンデミック以前の彼女も別に瞳を輝かせているような人ではなかったけれども、それでもここまで暗い瞳ではなかったように思う。しかしそれは決して不思議なことではなくむしろ当たり前のことで、人類が滅亡しかけている今も元気でいられる人なんて中々いないだろう。
「今日はけっこう欲張って色々持って帰ってきたよ・・・・・・っと」
ほとんど落とすみたいにリュックを床に置き、チャックを開けて中から取り出したものを並べていくと、不意に雪花ちゃんが口を開いた。
「あの、杉山さん、それ、かなり重かったでしょう?」
「あぇ? ああ、まあ重かったね正直、良い筋トレになったんじゃないかな?」
「・・・・・・やっぱり、次からは私も手伝う」
「それは、だめだよ」
「どうして? 一人より二人でやる方が効率的だし、安全でしょ? それに杉山さん、アナタ最近鏡を見た? 無理を───」
「だめだよ絶対」
雪花ちゃんが何か余計なことを口にする前に、言い切ってしまう前に遮る。我ながらその声はひどく冷徹で、彼女は表情を強張らせた。
驚かせてしまっただろうか、怖がらせてしまっただろうか。今の私は、どんな顔をしているのだろうか。
「・・・・・・雪花ちゃんに、そんな危ないことさせられないよ」
「だからって、杉山さんだけに任せるわけには」
「私が良いって言ってるの、だって私、今とっても幸せなんだもん」
説得のために本音を伝える、といっても、きっと雪花ちゃんには理解してもらえないだろう。こんな世界の今を『幸せ』と言ってしまえる人間の言葉に、どれほどの価値があるというのだろうか。
それでも私は、現状に対して『幸せ』という感想以外を持ち合わせていない。そんな私の姿は彼女の目には狂人として映っているのだろう。でも仕方ない、だって恋は人を狂わせてしまうものだから。彼女は私を狂わせてしまったのだから。
私の言葉を受けて、雪花ちゃんは悲し気に目を伏せて、ベッドのシーツを握りしめた。
「杉山さん、私はあなたの想いに応えられないの、アナタが私にどれだけ、その、尽くしてくれても、応えることはないの。それなのに杉山さんは私に一方的に与え続けてる、たった一人で危険な外に出て非効率的に食料調達なんかして・・・・・・やっぱり私も手伝う」
「・・・・・・雪花ちゃん」
「守り続けるだけなのも、守られ続けるだけなのも、どっちも間違ってる。こんな世界になっちゃったからこそ、二人で力を合わせて───」
「雪花ちゃん」
再び雪花ちゃんの言葉を遮り、彼女の隣に座る。ベッドのスプリングが音を立てて軋んだ。彼女の顔には緊張が走っていて、こちらを見ようとはしない。彼女の視線を掬い上げるように下から覗き込むと、揺れる瞳と目が合った。
「別に私の想いが報われる必要なんてないし、もう私はそんなこと望んでないんだよ、雪花ちゃん。さっきも言ったけど、私は雪花ちゃんと一緒にいられるだけで幸せなんだよ」
「そんなの───!」
「それに」
声を荒げる雪花ちゃんを尚も封じて、私は続ける。
「それに、私が雪花ちゃんに一方的に与え続けてるっていうのは違うよ。だって私、雪花ちゃんにいっぱい、い~っぱい与えてもらってるもん」
「そんな、私が一体何を」
「危険に晒されることなく生きてること」
「え?」
雪花ちゃんが呆気に取られた声を出す、普段の特有の棘が無い、あまりにも年相応な声。
「雪花ちゃんが危険に晒されることなく生きて、私と一緒にいてくれているっていう、その貴い事実を私に与えてくれてるんだよ」
そんな彼女に、私は思いの丈を伝える。
たとえ人類が滅びかけていても、どれだけ今が過酷で、未来に何の展望が無くても、憧れの人の隣にいられるという事実は、私の心を容易く癒す。
きっと私の恋心は、文明の崩壊を経て、もっと純粋で高次なものになったんだ。だからこの感情は私以外の誰にも理解されない、雪花ちゃんにだって。
「杉山さん、アナタは・・・・・・」
雪花ちゃんは何かを言おうとして、口をつぐみ、俯いた。
案の定、理解されない、納得できていない。だからきっと、彼女は尚も食い下がるのだろう。この話し合いは永遠に平行線で、決して交わることはない。そうしてやがて、彼女は私の望まない行動をとるようになるかもしれない。
なら今ここで、強引にでも交わらないと。
「・・・・・・雪花ちゃん」
呼びかけ、彼女の膝に手を置く。
「人間ってね、脚の大事な部分をちょっと切れば、歩けなくなっちゃうんだって」
「えっ・・・・・・?」
私の言葉に、彼女はたまらずこちらを見た。その目には疑いと、恐怖があった。
針千本でも飲み込んだみたいに胸が痛む、けれども、構わず続ける。
「家の中にいる限りはとりあえず安全だし、私は雪花ちゃんにはずっと安全でいてほしい。でも、もし、もしも雪花ちゃんがどうしても外に出たいって言うなら・・・・・・ね?」
私たちは数秒間、まるで恋人みたいに無言のまま見つめ合った。雪花ちゃんは私の真意を探るように、私はそんな彼女を受け入れて、ただただ視線を交わした。
不意に、雪花ちゃんが顔を歪ませた。目じりには涙が溜まっている。
予想外の反応、今度は私の方が困惑させられた。
彼女は口を開いた。
「不器用ね、アナタは、本当に・・・・・・!」
そう言って、雪花さんは大粒の涙をこぼした。その涙の輝きがどうにも眩しくて、私は目を背けた。
きっと、私はどこかで何かを間違えたんだろう。間違えなければ、もっと別の形で、雪花ちゃんと一緒にいられたかもしれない。少なくとも、彼女に涙を見ることはなかったかもしれない。
ただ、そんなものは所詮たらればであり、考えても仕方のないことだ。故に私に後悔はなく、代わりに覚えた感情をそのまま素朴に声に出してみた。
「好きだよ、雪花ちゃん」
「・・・・・・ごめんなさい」
そうして私たちは、あの日と同じような言葉を交わし合ったのだった。




