約束が離さない
『彼女たち』の中でも群を抜いて何も起きないお話です。
でも良いお話です。
嚙み殺すこともなく、臆面もなくあくびが出た。
放課後の、詩乃の部屋でのことだった。
退屈だからというわけではなく、ただ本当に、ここがあまりにも穏やかな空間だから、私と詩乃、ふたりで宿題に取り組んでいるこの時間が、あまりにも静かだから、つい。
目じりに浮かんだ涙を拭い、再び数学の設問に向き合う、といっても、もう解法は思いついていて、途中式の計算間違いにさえ気を付ければいいといった具合だった。
シャープペンシルを二回ノックし、頭の中でぼんやりと浮かんでいる計算式をノートに書き写し、それの輪郭を正して、具体的な形に整えていく。これといった違和感を覚えることなく計算は進んでいき、答えへとたどり着く。
課された宿題を全てこなしたことを確認し、ノートの上に溜まっていた消しゴムのかすを慎重にゴミ箱に落とす。
「私おわり~」
「わっはやっ流石ヨコちゃん」
「詩乃は?」
「私はもうちょっと時間、かかるかも」
「あらそう」
「うん・・・・・・」
後ろに手をつき、上体を反らして姿勢を崩す。手持ち無沙汰になり、何となく詩乃を眺めていると、そんな私の視線に気づいたのか、彼女は視線だけを私によこし、目を合わせてきたかと思うと、恥ずかしそうに逸らした。そこには小動物めいた可愛さがあった。
しばらくの間、詩乃のシャーペンを走らせる音と、消しゴムをかける音にもならないような音が流れ続けた。詩乃の筆圧はこの上なく控えめで、消しゴムをかけたところから、まるで最初からそこには何も無かったかのように、跡形もなく文字が消えてしまっていた。
詩乃もまた数学の課題に取り組んでいて、最後の設問に手間取っているようだった。肘をつき、頭を抱えている彼女の様子を見ると、助言が必要かしら、とつい思ってしまうけれども、単なる宿題でそれはお節介がすぎるな、と私は自制し、なおも彼女のことを眺め続けた。
「ヨ、ヨコちゃん、ゲームでもしてたら・・・・・・?」
今度は目を合わせることなく、消え入りそうな声で、詩乃がつぶやいた。彼女の筆跡に似て、とても弱々しい。
「あぁー、いや別にいいかな、詩乃見てんのちょっと好きだし」
「な、なぜ」
「なんだろう、なんか見ててストレスが全く無いというか、情報量の無さが心地いいというか、幼稚園の頃から変わってないなぁ~って感じがエモくて良いというか、一種のセラピー的な」
「えぇ何それ、じっと見られるのすごい恥ずかしいんだけど・・・・・・」
「あらそう、まぁ嫌だって言うなら仕方ない、ゲーム借りるね」
「べ、別に嫌ってわけじゃ・・・・・・」
今度からはバレないように、密やかにじろじろ見よう。
そう決心しながら、私は膝立ちになって充電器に挿し込まれていたゲーム機に手を伸ばし、電源ボタンを押した。私のものでもないのにすっかり慣れた手つきで、ゲームを起動させる。コマーシャルでよく見るロールプレイングゲーム、私と詩乃は一つのセーブデータを共有してこのゲームを遊んでいる。ふたりとも、個々人で一つのゲームをクリアできるほどの気力は持ち合わせておらず、ふたりで一緒のデータを遊ぶくらいが丁度いい塩梅だった。
欠点として、ふたりとも特に気兼ねなく遊ぶので、もう本当に物語がわからなくなってしまう事が挙げられるが、抜け落ちた物語を互いに質問しあって補完しあう行為は交換日記めいていて、ゲームの本懐からはかけ離れているのだろうけれども、それはそれで楽しく、詩乃にしても『ヨコちゃんの遊んだ痕跡をたどっていくのは何だか興奮する』と言っていて、彼女なりにこの奇妙な遊び方を楽しんでいるようだった。
画面の中のプレイヤーの分身であるキャラクターを動かし、物語を進めていく。私の苗字と詩乃の名前からとって『サクライシノ』と名付けた主人公は、当然のことながら、他の登場人物からも『サクライシノ』と呼ばれる。いちいちフルネームで呼ばれる様は何だかおかしくて、私は気に入っている。
「よ、ヨコちゃん」
画面上で繰り広げられる会話劇を目で追っていると、詩乃から声をかけられる。テキストを送る手を止めて彼女の方を見やると、もじもじとした様子でこちらを見ていた。
「ごめん、ちょっと、いい・・・・・・?」
「いいよー」
「ごめんね」
ゲーム機を携えたままのそのそと詩乃の方へと移動し、彼女の脚の間に座る。そうすると、詩乃は恐る恐る、といった具合に手をまわしてきて、私をそうっと背後から抱きしめた。詩乃の視界を遮らないよう上体を少し倒し、彼女の肩に頭を預ける体勢になる。平均よりも少し低い私の身長、というより、群を抜いて背の高い詩乃とだからこそできる恰好である。
私と彼女の体温に大した差なんて無いはずなのに、それでもやっぱり、彼女は暖かい。
「あら、もう解けそうじゃんね」
ほとんど詩乃と同じ目線になり、それとなくノートに目を向けると、彼女の設問に対する進行状況が窺えた。
「うん、でもどこか計算間違えてる、と思う。なんか変な感じがする」
「・・・・・・あ、ほんとだ。けどまぁ、こんなのすぐだよ」
「うん、がんばる」
私の視界の左端から腕がぬうっとノートへと伸びていくかたわら、残った右腕が私を抱き寄せ続けている。あたかもぬいぐるみや抱き枕にでもなった気分だけれども、苦しいわけでもないし、辛い姿勢にあるわけでもない、いつもやっていることだから、詩乃も力加減は心得ている、私は構うことなくゲーム画面に集中する。
私たちの遊ぶゲームは物語がいくつかの章で区切られており、いま、いくつ目かの章のボスと戦う場面にまで来ているけれども、やはり物語に対する理解度が虫食い状態で、私たちはなぜこのボスと戦うことになっているのだろう、と私は疑問を抱いていた。このボスらしきキャラクターは序盤、私たちの味方だったはずだが。
欠落した部分をプレイしたであろう詩乃を視線だけで捉える。彼女は依然としてめくるめく数字の世界に挑んでいる最中であり、ゲームついて尋ねることはいくらなんでも憚られるのだった。
仕方ない、と私はふたたび画面に目を向けた。訳も分からないけれども、戦おう。
そんな没入感とは程遠い感情を抱いたまま戦いが始まり、そしてあっけなく敗北した。悔しい、という想いはなく、どちらかというと安心した。理解もないまま勝利してしまっては、あまりにも味気なさすぎる。
「あ、惜しい」
すぐそばでそんな声が聞こえた。その声の主はむろん詩乃で、いつのまにか彼女は問題を解き終えて、私と同じように画面を見ていた。
「おわった?」
「うん、ちょっと、疲れた」
「お疲れ」
シャーペンから解放された左手もまた私の方に回され、詩乃は両腕でもって私を抱きしめて、鼻を私のつむじあたりに埋めた。ちょっとくすぐったくて、私は身じろぎする。
詩乃がこうして私を抱きしめるようになったのは、今からおおよそ一年前の、高校に入学してすぐの頃だった。
昔から甘えん坊な女の子ではあったけれども、ここまで過剰なスキンシップをしたがるようなそぶりを見せたことがなかったから、流石の私も最初の頃は不思議に思い、そのうえで、何か嫌な事でもあったのだろうか、と心配した。
『どうしたの』
ちょうど今と同じ格好のまま、私は詩乃にそう訊いた。その時の彼女の腕はかすかに震えていて、抱き締める力も、息苦しいほどだった。
『なにもないよ』
詩乃はそう答えた。その声音には何らかの意味が含まれているのは明らかで、それが私の不安感をなおさらかきたてるのだった。
納得していない私の気配に気づいたのか、彼女はこう続けた。
『なんにもないから、ヨコちゃんがどこかに行っちゃわないようにしてるの』
詩乃の解説をもとに物語を理解し、ああでもないこうでもないと二人で戦略を組み立てることで、ようやく勝利を収めることができた。
目に疲労感を覚える、私はこの勝利を記念するかのように進行状況をセーブし、ゲームの電源を切り、ぐったりと詩乃にもたれかかった。
「おつかれ」
「うん・・・・・・ゲームは楽しいけど、疲れるね」
息を吐いて、目を閉じる。目の前が真っ暗になり、部屋には私と詩乃の息遣い程度しか音もなく、ともすると眠りそうになってしまう。襲ってきた眠気に抵抗するべく目を開けると、そこには詩乃の顔があって、私の顔を覗き込んでいるようだった。
「私の顔になにか用かしら」
「んーん、別に」
「そう」
それから少しのあいだ、私と詩乃は見つめあった。お互い何を言うでもなく、ただ何となく理由もなしにそうしていた。
詩乃とはもう十年以上の付き合いになるけれども、こうしてじぃっと見つめあうことなんてほとんどなかったように思う。息がかかりあいそうな距離で見ると、詩乃の目の大きさだとか、その目に被さるように伸びている前髪だとか、小さな鼻だとかが新鮮で、中でも彼女の瞳のその、夜の湖にぽつりと穴が空いたかのように黒く、吸い込まれてしまいそうなほどの暗さには目を奪われた。
美しいな。
率直にそう思った。
「詩乃に恋人いないのが不思議でならないよ」
「えっ?」
ぽつりと零れた私の言葉に、詩乃は目を大きくした。すると彼女の瞳に光が灯り、さっきまであった怪しいまでの暗さが無くなった。
「え、ど、どうしたの急に」
「・・・・・・ごめん何か、何だろう、自分でもよくわからない、恋バナでもしたくなったのかな」
「恋、こ、恋バナ・・・・・・」
詩乃は目に見えて動揺し、それに伴って私に回された腕に力がこめられた。ただでさえ近かった距離がさらに縮まり、これからキスでもしてしまうのだろうか、というところまで迫った。
キス、今よりもずっと小さかった頃、詩乃とよくしていたな、と微笑ましい過去を懐古した。あの時はまだ、私と詩乃の身長はほとんど同じくらいだったのに。
「いや冗談、冗談だよ」
「あ、そうだよね、私たちそういうの、何も無いもんね・・・・・・?」
「あら失礼な」
「えっあるの?」
瞬間で、圧迫感が輪をかけて強まったのを感じる。秒刻みでぎしぎしと締め上げてきて、最後には万力もかくやという力に達し、道端に落ちている秋の切ない枯れ枝のように折られてしまうのではないか、恐ろしい妄想が脳裏をよぎり、私は即座に口を開いた。
「ない、ないないないない嘘です嘘ごめんなさい」
「・・・・・・そうだよね」
心のうちで唱えているみたいに小さな声でつぶやくと、詩乃は腕から力を抜いた。史上類を見ないであろう大惨事を回避することができて、私は胸を撫で下ろした。背中を伝う汗の理由は、かなりの時間を抱きしめられて過ごしているからだけではないだろう。
詩乃、一見すると大人しい女の子で、そのじつ性格も大人しいけれども、ひとたび取り乱すと途端にエキセントリックに振舞う女の子でもある。
「ああでも恋バナと言えば、尾高くん、最近彼女できたんだって」
およそ女子高生ふたりが織りなしたとは思えないほど壊滅的な、あわや死人騒動の恋バナを救うべく、私はふと思い出したそれらしい話題を提供した。
「尾高くんって、あの、ヨコちゃんに」
「そうそう、その尾高くん。同じクラスだからちょっと気まずかったし、彼女作ってくれてよかったよ」
「それは、よかったね」
「まあね。でも、なんか良いよねぇ彼氏彼女って、私にもできるかなぁ彼氏。あの時は高校入学してすぐだったし、尾高くんのこと全然知らなかったから断ったけど、もしかしたらあれが最後のチャンスだったりして」
「・・・・・・そうかもね」
「あら辛辣、珍しい」
思いがけない返答に、私はつい笑ってしまう。振り返ってみると、詩乃とこういった話はあまりしたことがなかった。彼女の新しい一面が知れたみたいで、嬉しかった。
「詩乃はどうなの、恋人作りたいとか思わないの?」
「ヨコちゃん」
「え?」
「あ、いや・・・・・・ううん、私はヨコちゃんと一緒にいられれば満足だから」
「えぇ、なんか嬉しいけど、そういうもんなの?」
「そういうものなの」
「そういうものですか」
さらに新しい詩乃の一面を発掘すべく、これまであまり彼女としたことがなかった恋愛方面に話を掘り進めてみたものの、なんとも気恥ずかしい結果に終わったのだった。
「・・・・・・ヨコちゃん」
詩乃が私の名前を呼んだ。そんなことはこれまでに幾度となく、とても数えきれない回数繰り返されてきたことではあるけれども、その声音はそのどれにも含まれていない、かつて聞いたことのないもので、暗闇の中で肩を触られるような、穏やかな類のものではないように感じられた。
「ん?」
「ヨコちゃんと私は、私たちは、ずっと一緒だよね?」
「え、まあ幼馴染だし、そうなんじゃないかな」
いったいどんなことを言われるのか、と少し身構えていた私を翻弄するかのような詩乃の可愛らしい言葉に、私は拍子抜けした。
「・・・・・・そっか」
「うん」
今日の詩乃はどこか様子がおかしい、なにか悩み事でもあるのだろうか。
それとなく訊いてみようか、そう思いつつ時計を見ると、家に帰る時間がもうすぐそこまで迫っていた。
また明日にしよう、私と詩乃がいつまで一緒にいるのかなんてわかないけれども、少なくとも明日はまだ一緒にいるはずだから。
そう考えて、私は彼女の腕を二回、軽く叩いた。
その日の夜に見た夢には同じくらい小さい私と詩乃がいて、その二人の様子を私は眺めていた。二人を見た瞬間に、ここが夢の世界であることを自覚し、ともすると明晰夢というやつだろうかと考えたけれども、どうにも体の自由がない。大人しく、遠い昔の、ささやかな幸せだけで作られたようなその世界を鑑賞することにした。
教室の雰囲気からして、小学校低学年の頃の、休み時間の光景だろうか。
この頃の記憶なんてほとんど無いに等しい。かけがえのない思い出、それでいて、名前をつけて別個に保存しておくほど特別でもない日々、それでも夢に見ているということは、いま私が見ているこれはきっと、何か印象的な出来事があった日なのかもしれない。
私と詩乃以外だれもいない教室、私たちは一つの机を挟んで座っていて、机上には『ミッケ!』が広げられている。ひとつひとつが懐かしくて、寂寥感を誘う。
『詩乃ちゃん』
いつの間にか教室に入ってきていた担任の先生が、詩乃の名を呼んだ。私も詩乃も先生のほうを見やる。私の記憶を基にした世界だからか、先生の顔はどうも曖昧で不気味だった。
『詩乃ちゃんは、お外でみんなと遊ばないの?』
膝をおって詩乃と目線をあわせ、先生がそう訊くと、詩乃は困ったように目を伏せた。彼女は新しい人に慣れるのに長い時間を必要としていて、それは同級生だろうが先生相手だろうが例外ではなかった。
『みんなと遊んだほうが、詩乃ちゃんもきっと楽しいと思うんだけどな~って、先生思うんだけど』
『あ、え、えっと』
『大丈夫だよせんせい』
詩乃が責められているように見えたのか、あるいは蚊帳の外に置かれている状況が気に食わなかったのか、私がそう口を挟み、そこであたかも私の存在に初めて気づいたかのように、先生が私の方を見た。
『陽子ちゃん、大丈夫って、なにがかなぁ?』
『詩乃ちゃんにはわたしがいるから、大丈夫だよ』
私がそう言い放つと、詩乃が顔を上げた。その目には涙が滲んでいた。
『そう・・・・・・そうね陽子ちゃん、陽子ちゃんは詩乃ちゃんといっつも仲良しだもんね』
『うん、わたし詩乃ちゃん好き』
『じゃあ陽子ちゃん、アナタは詩乃ちゃんがひとりぼっちにならないように、詩乃ちゃんのためにずっと一緒にいてあげられる? わかんないかもしれないけど、それってとても、とっても難しいことなんだよ』
今の私には、先生の言葉の意味がわかる。彼女は彼女なりに、詩乃のことを心配してあげているのだった。
先生の言葉に、私はどう返答しただろうか。気になり、先生と同じように私の、陽子が口を開くのを待った。
『詩乃ちゃんのためじゃないよ』
『え?』
『わたしが詩乃ちゃんと一緒にいたいの、だってわたし詩乃ちゃん好きだから、だからずっと一緒にいるのなんて簡単だよ』
そういい終えると、えいっ、と詩乃を抱きしめた。驚いた彼女は可愛らしい声をあげ、小さな私の腕に収まっていくかのように、身を縮こまらせた。
『詩乃ちゃんは? 詩乃ちゃんはわたしのこと好き?』
『え、え、あう、うん・・・・・・』
『じゃあわたしと一緒にいれば大丈夫だよね?』
『う、うん、うん!』
『ほら先生、大丈夫じゃん』
勝ち誇ったような笑みを浮かべる私と、照れくさそうに、それでいて嬉しそうに笑う詩乃、それとは対照的に先生は曖昧な顔からでもわかるほど困ったように微笑んだ。
どれほど原色に近い輝きを放つ思い出すらも、時間が経てば色褪せて、忘れていってしまう。それと同じようにこの夢だって、目が覚めた時にはきっともう忘れてしまっているだろうけれども、もし覚えていられたのなら、詩乃に話してみよう。そうして、彼女が抱え込んでいるであろう悩み事について訊いてみよう。
それが、ずっと一緒にいたいと願った、私の役目だろう。
そう思い、私は目覚めを待つのだった。




