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彼女たち  作者: 城ヶ崎
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秘する彼女の悲愛


 「夏に全くワクワクしなくなったのっていつからだったけかな~って、ねぇ伊豆奈いずなは覚えてる?」


 テーブルの白い天板に肘をついて対面に座っている美菜みなが言った。彼女の手には缶ビールが握られていて、眠たげに落ちた瞼が大きな目を隠していた。

 フライパンの上で弱火にあてられているんじゃないか、と錯覚してしまうくらい日に日に暑さを増していく夏の、お盆の夜の事だった。

 また始まった、この話はもう何回目だろう、と呆れた思いはあったものの、私はそれを心の中に留め「どうだろう」と曖昧な相槌を打った。

 多くの酔っぱらいがそうであるように、酔った美奈もまた同じ話を繰り返す。季節が夏なら、夏にワクワクしなくなった、冬なら冬にワクワクしなくなった、日曜日にワクワクしなくなった、金曜ロードショーにワクワクしなくなった・・・・・・。

 

 「うぐぅぅう~」


 私のはっきりとしない返事に対して、美奈はただ俯き唸った。あたかも何かしらの害を加えられて上げたような声ではあるがその実、彼女はただお酒を飲み、管を巻いているだけである。アルコール摂取量が自身の許容量を超え始めると、それに比例して彼女の声は低くなる。


 「悲しいよ伊豆奈、私は、それってつまり私たちは、いつの間にか大人になっていたってことじゃん。大人になって夏休みを奪われたから、私たちは、私たちは夏にワクワクしなくなっちゃったんだ」

 「そうなんだ」

 「そうだよそう絶対そう、いやもう全く大人になんてなるもんじゃないね、大人の良さなんて数えるくらいしかないよ。それが何かわかる? まず一つに・・・・・・」


 ひとりでにボルテージを上げて熱を帯び、アクセルを全体重で踏み抜いているかのごとき勢いで舌が回り始めたかと思いきや、その熱を冷ますかのように、美奈はビールを呷った。高く持ち上がった缶の鈍い銀色と、その薬指にはめられている指輪が部屋の照明に照らされている。


 「ビールが飲めることォっ!」


 一息に中身を飲み干すと、彼女はハンマーでも振り下ろすかのように缶をテーブルに叩きつけた。缶の底と天板とがぶつかり合い、ししおどしをチープにしたような、軽い、どこか間の抜けた音が部屋に響いた。

 今日の美奈はなんだかスゴイな、と彼女を見てみると、まるでハットトリックでも決めたみたいなしたり顔を浮かべていた。その顔は茹蛸ゆでだこさながらの赤さで、どこまでも珍妙だった。


 「確かに、お酒は美味しいよね」


 美奈が私からの何かしらの反応を求めていることは明らかだったので、私はまたもや当たり障りのない返答をしながら、彼女の手から空になった缶を回収しようと手を伸ばした。

 すると美奈は、まるでそうするのが当然であるかのように、私の手を握った。

 予想外な行動、思わず美奈を見ると、彼女の、酔っぱらいに特有の、真剣ともそうでないともとれる眼差しがあった。

 数瞬の沈黙が訪れる。エアコンの音が大きくなったように感じる。

 ふっ、と息が詰まる。


 「握手、あくしゅ、ふっふ、手ぇ柔らか」


 ぐにぐにと、マッサージでもするように美奈は私の手を揉み始めた。くすぐったい感覚、私は我に返り、「なんじゃそりゃ」と笑って彼女の手を穏やかに振り払い、彼女の手元にあったものと、テーブルの傍らに置いておいた空き缶を手に持ち、立ち上がる。


 「追加の分もってくるよ」

 「おぉ~、ありがとう伊豆奈、できる女だぁ」

 「はいはい」


 襖を開けて居間から廊下へ出ると、嫌になるくらいむわっとした熱気が肌を撫でた。それでも私はあえて急ぐことなく、むしろゆっくりとキッチンへと向かった。

 ちゃんとした呼吸を、一人で呼吸をする時間が欲しかった。

 キッチンに入り、空き缶を流し台に置く。蛇口を捻って飲み口にあてがい、中身を洗っていく。そこから溢れ出た水が少しだけ手を伝う。夏にしかないヒンヤリとした感触、私は深く息を吐いた。


 落ち着け、落ち着け伊豆奈、もう、そんな事を考えるのは、期待するのはやめると決めたじゃないか。


 全ての空き缶を洗い終える。蛇口を締めて、無造作に置かれていたゴミ袋の口を開け、それらを放っていく。二つ、三つと入れていくたびに缶どうしがぶつかって、静寂の中に虚しく音を響かせた。

 そうして全て捨て終えた後も、私はその場に立ち尽くして、眉間が痛くなるくらい強く、目を閉じた。一面の暗闇、己を律するためにそうしたというのに、呆れたことに、そこに映し出されるのは美奈の姿だった。

 まるでアルバムの一ページ目からめくっていくように、出会った頃の美奈から今の彼女に至るまでの姿が暗闇に浮かんでは消えていく。中学生の姿、高校生の姿、大学生の姿、幸せな笑顔の彼女、今にも泣きだしそうな彼女、暗い喪服に身を包み、抜け殻のようになった彼女、そして、さっきの、私の手を握る美奈、十年と少しの、その記憶。

 背景は夢の中みたいに曖昧で、それでも彼女の姿だけはどれも鮮明だった。

 ため息を吐き、目を開ける。


 「・・・・・・よし」


 わざとらしく白々しく、自分に聞かせるためだけにそう口にし、私は冷蔵庫を開ける。刺すような冷気が漂ってくる。おつまみじみた夕飯を大量につくったせいで、食材はほとんど無く、酒類が所狭しと並んでいた。

 年々、飲む量が増えているようで、少し心配になる。

 そこから両手で持てるだけの量を取り出し、居間へと戻る。落とさないよう慎重に襖を開けて中に入ると、テーブルに突っ伏した美奈がいた。

 寝てしまったのだろうか、私は静かに襖を閉めて、そろりそろりと忍び足で、彼女の前に座る。


 「伊豆奈ァあ~・・・・・・」


 缶をテーブルに置いていると、不意に美奈がむっくりと顔を上げた。その目はもはや起きているのか寝ているのか定かではなかった。

 美奈はおもむろにレモンフレーバーのお酒を手に取ると、頬にぴたりとひっつけて、プルタブを開け放つこともなく、その冷ややかな感触を楽しみ始めた。

  

 「ねぇ伊豆奈~」

 「はいはい、なんでしょうか」

 「伊豆奈は楽しい?」

 「へ?」

 「私と話してて楽しい?」

 

 伏し目になって、彼女はそう訊いてくる。人肌にあてられて結露し、缶の表面に現れ始めた水滴を指で拭っている様は実に幼く見えて、私は笑みを浮かべてしまう。


 「楽しいよ、楽しいに決まってる、なに不安になってるの」

 「え~だってさぁ、だって、伊豆奈っていつもポーカーフェイス気味だし、聞き役に徹してくれるあらさぁ、なんかさぁ~」

 「変なとこ気にしぃだなぁ美奈は、大丈夫だって本当に、私は私で楽しいよ」

 「じゃあさ、じゃあもっとウチに遊びに来なよぉ」

 「・・・・・・うぅん、仕事が忙しいからねぇ」

 「それでも、それでも来なよもっとぉ!」


 そう言って、美奈は上体を勢いよく持ち上げると、乱暴にプルタブに指をかけて開けると、ぐいっと口をつけて、喉を鳴らし始めた。

 そうしてたっぷりと二秒ほど飲み流してから口を離し、さきほどの様子から一転して大人しくなり、美奈は言う。

 

 「この家に一人は寂しいよ・・・・・・」

 「・・・・・・そうだね」


 水面に一滴の水を落としたように静かで、しっとりとした彼女の声。

 私は敷居を一つ挟んだ隣の部屋を、そこにある仏壇を、そこに立てられている遺影を見た。

 青空のように快活な笑顔、今は亡き、美奈の夫。

 高校生の頃に美奈と付き合い始め、寄り添いあい、彼女と結婚して、そして、そして。


 私の彼に対する感情は混沌を極めている。

 私にとっての一番が美奈で、かつて美奈にとっての一番が私だったはずだった、それは私の自惚れでは決してなく、それほど私たちは同じ時間を共有していた。ところが彼の登場で、美奈にとっての一番は徐々に少しずつゆっくりと、私ではなくなっていった。

 彼に対して並々ならぬ嫉妬、憎しみすら覚える一方でしかし、彼を素晴らしい人間だと思う感情もあった。彼の人のさは言動に現れていたし、そして何より、隣に立つ美奈の幸せな笑顔がそのすべてを証明していた。

 真っ白なキャンバスに色合いも何も考慮せず絵具を殴りつけたような、ぐちゃぐちゃの感情。そんな醜い思いを持つ私もまた当然醜い人間である。




 お葬式の夜、美奈は泣くことすらままならず、目の前で起こっている全ての事が自分とは無関係の出来事であるかのように、感情の起伏がなかった。それはまるで、彼女の魂が彼の後を追いかけて身体を抜け出し、そうして残った彼女の抜け殻だけが、魂の余韻だけで動いているかのようだった。

 私はそんな美奈をただ抱きしめようとした、抱きしめようとして、ある考えが脳裏をよぎり、そして愕然とした。

 私はいま、何を考えた?

 美奈を抱きしめようとしたその動機は、彼女の悲しみに寄り添うためだけか?

 彼がいなくなり、ひとりになった美奈の姿に、私は何を思った?

 私は、私は・・・・・・。

 自らのおぞましい姿が垣間見え、視界が歪む。

 私は美奈へと伸ばしていた手を、そのまま彼女の背中にあて、そして泣いている子どもをあやすようにさすった。


 「伊豆奈・・・・・・」


 美奈が私の名前を呟く。


 「・・・・・・美奈」


 やっとの思いで、私も彼女の名を呼ぶ。

 美奈と目が合う。彼女の目じりにはみるみるうちに涙が溜まっていき、暗い瞳を濡らしていった。その瞳はとても綺麗で、なんだか私の醜い心が全て見透かされるんじゃないか、とすら思えた。

 もし本当にそうなったら、もう二度と美奈は私とは会ってくれなくなるだろうな、と考えてから、こんな時ですら自分の心配か、と自らを憎々しく思った。


 「伊豆奈、いっ・・・・・・いぃずなぁ・・・・・・」


 堰を切ったように美奈は泣き出し、私に抱き着いた。大粒の涙を流し、私の胸を濡らした。

 このぬくもりを帯びた涙の一粒一粒が、彼のために流されている。胸のあたりが鈍く痛む。この痛みを覚えるたびに、自分のことをますます嫌いになっていくというのに、もうどうしようもなく、私の胸はただただ痛むのだった。






 苦々しい過去を思い出しながら、しげしげと仏間を眺めていると、いつの間にか私のすぐそばに美奈がやってきていた。

 なんだろう、と彼女に目をやると、その視線を躱すかのように彼女は寝ころび、私の膝に頭を乗せた。ああ、だとか、うう、だとか意味をなさない声をあげている。

 今にも眠りに落ちてしまいそうな美奈、その表情を愛おしく思う。そう思うからこそ、私は今の関係を続けたいと願う。それより上を望むことなんて許されるはずもなく、望んだとしても、それが実現することはありえないだろう。

 そうして私は己を戒める、ともすれば期待してしまいそうになる自分を、恥も外聞もなく行動に移してしまいそうになる自分を、必死に。


 「美奈、眠たいの? もう寝る?」

 「んん・・・・・・まだ寝ない」

 「説得力がないなぁ」

 「だって・・・・・・私が寝たら伊豆奈帰っちゃうでしょ?」

 「それは、まあそうだけど」

 「なぁんで、なんで帰るの? 泊まってけばいいじゃん、ていうかウチに住めばいいじゃん」

 「・・・・・・そういうわけにはいかないな」

 「またそう言う・・・・・・もう~」

 「酔っぱらいはもう寝なね」

 「酔ってないよ~」


 ぶつぶつと文句を言いながらも、美奈の瞼は今にも落ち切ってしまいそうだった。うとうと、という表現がこれ以上ないほどに適切な様子だった。


 「ねぇ伊豆奈・・・・・・」

 「なに?」

 「私が、私がいま酔っぱらってると思って、きっと伊豆奈は・・・・・・伊豆奈は私の言うこと、はいはいって受け流しちゃうんだろうけどさ」


 美奈の声はわたあめのようにふわふわで、それでいて悲しみの感触を含んでいた。


 「でもさ・・・・・・ほんとに、もっと私と遊んでよ、一緒にいてよ、わたし伊豆奈のこと好きなんだよ」


 思わず、私は言葉を詰まらせる。何かを口にしようとしても、そうすることが躊躇われて、喉のあたりでつっかえてしまう。

 わかっている、私は美奈のことを知っている、もう十年と少しの付き合いになるのだから、彼女のこの『好き』がそうでないこと、勘違いのしようもないこと、曲解する余地すらないことを私はわかっている。そのうえで、私の心は揺れていた。

 

 「・・・・・・やっぱり酔っぱらってるよ」

 

 そんな揺れが声に出てしまわないように、私は絞り出すように、そう言った。

 

 「もう・・・・・・酔っぱらってないって・・・・・・言って・・・・・・る・・・・・・」


 声が途切れ、しばらくすると、静かで規則正しい寝息が聞こえてきた。


 「酔っぱらってないと、困っちゃうんだよ・・・・・・」


 私の声が虚しく部屋の中に響き、それをかき消すように静寂が後から訪れた。

 そんな静けさが、私の心のざわめきを際立たせる。容易に揺れてしまう戒めが後ろめたくて、たまらず私はテーブルの上の、いかにも甘そうな缶チューハイを手に取り、手間取りながらもプルタブを開け、すっかりぬるくなっていたそれを一口だけ喉に流しいれた。

 美奈の寝顔を見下ろす。その顔は雲一つない夕焼け空のように穏やかで、私は無意識にそれをじぃっと眺めて、まだ色濃く残る、かつての美奈をそこに写し見た。

 きっと幸せな夢を見ているに違いない。

 その夢の中に私はいるのかな、と、ふと気になる。気になって、かぶりを振ってそんな疑問を払拭し、美奈を起こしてしまわないように彼女の頭を持ち上げ、座布団を敷いてそこにゆっくりと置いた。


 「ばいばい」


 囁き、私は彼女の家を後にした。

 深い夜の時間、それでも気温は高く、じんわりと生暖かい膜に覆われているかのようだった。

 不意に、頬を涙が伝っていることに気づく。しかし私はそれを拭うことなく、ただ歩き続けた。

悲しいお話です

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