ラブだとかライクだとか
可愛らしいお話です
こたつに突っ込んだ脚がじんわりと温まっていくのを感じる。それとは別に、背中を丸め、机のひんやりとした天板にひっつけた頬が冷たくなっていく。テレビでは、年末の午前に特有の、どこか柔らかい雰囲気の番組が映し出されている。私の目はそれを捉えているはずなのに、頭の中は別の事でいっぱいで、確かな情報として処理することができなかった。
「サナちゃん、これジュースとお菓子、食べなね」
そうしてだらけていた私のすぐ傍に、祖母が漆塗りのお盆をそっと置いた。頭を持ち上げて目をやると、もう見るからに醤油味なおせんべいとカルピスが載っていた。
十二月三十一日、そして明くる日の一月一日は祖父母の家で過ごすのが恒例で、今年もまた例に漏れずそうしている。
家にいる時とはまた違った安心感、独特な温もりが感じられて、私はこの十二月三十一日という日が好きだ。
せんべいへと手の伸ばし、掴むその前にふと、お盆の上に、透き通るガラスのコップが二つ載っていることに気づき、ほんの少しだけ動きが止まった。そんな私の様子に気づいたのか、祖母が嬉しそうに言った。
「あと少ししたら、メイナちゃんたち着くみたいよ」
メイナちゃん、という名前が聞こえたその瞬間、心臓の鼓動が多くなったのを感じ、血液の供給スピードがあからさまに早くなって、かぁっと頬が熱くなった。籠った熱を吐き出すみたいに、ため息を吐きたくなるのを堪え、「そっか」と口を開いた。
ピンポーン、という間延びした甲高い音が鳴り響いたのは、そんな時だった。
思わず肩が跳ね上がる、祖母が上機嫌な様子で玄関へと向かい、ややもすると、黄色い声が聞こえてきた。
心臓の鼓動がより強くなり、何だかもう、体の内側で大太鼓が叩かれているようだったし、全身を巡る血液が沸騰しているんじゃないか、というくらい熱くなってきた。
予想していた以上の反応、私はせめてもの応急処置としてカルピスをコップに注ぎ入れ、ぐいと飲み干した。十分に冷やされていたカルピスは喉を通り、表面的な冷たさを与えてはくれたけれども、それも僅かな間のことで、またすぐに元の熱に戻った。
扉越しに聞こえてくるいくつかの足音、その中には確実に彼女の足音が含まれていて、意識することもなく自然と、その足音を特定しようと耳を研ぎ澄ませている自分に気づき、思わず笑ってしまう。そんなことできるはずもないのに。
部屋の扉が開かれ、祖母を先頭に四人はいってきた。その最後尾に彼女、メイナはいた。
「あ、サナちゃん、久しぶりねぇ去年ぶりじゃない?」
「なんやかんやで丸々一年あえてなかったからねぇ」
メイナの母、つまり私の母の姉である叔母が言い、その旦那さんであるタケちゃんが補足するように言い足した。朗らかな笑みを浮かべる二人からは暖かな雰囲気が感じられた。
「本当にね」そう返しつつ、私は二人の後ろに隠れるようにして立つメイナへと、そうっと視線を移すと、彼女は既に私のことを見ていて、自然、目が合った。視線と視線の正面衝突、意思の弱い私は、弾き飛ばされたみたいに目を逸らした。
「メイ、メイナも、久しぶり」
そう言う私の声は負け惜しみを唱えてるみたいに震えていた。もう手遅れであることを悟りながらも、こたつの中でふとももをつねって痛みを捻出し、感情の制御を図る。
「うん」
私の震えた声との対比を意図しているかのように、メイナは至って平坦な調子で返事をすると、三人そろって洗面台へと向かっていった。
たった数秒のやりとりに疲労を覚え、眉間にシワが寄るほど強くきつく目を閉じる。するとどういうわけか、真っ暗な視界にメイナの姿が映った。少し気だるげな目元、横一文字に閉じた口、長い真っ黒な黒髪、そういった彼女の要素がゾッとするほど正確に、まるで高性能のカメラで撮ったみたいな解像度で映し出された。
戻ってきたメイナは、それがまるで当然のことであるかのように、私の左隣に腰を下ろすと、いそいそとこたつへと足を入れた。緊張で、お腹や背中に不自然なくらい力がこもる。彼女は机の中心にあるカルピスに気づくと、それへと手を伸ばした。冷水で手を洗ったためか、彼女の指先は少し赤くなっていた。
「それサナの?」
カルピスのキャップを取り外すと、メイナは私のコップを指さして言った。「う、うん」不意に名前を呼ばれ、ひとりでに揺れる平常心にドギマギしつつ、私はそう返す。「そっちのコップは誰も使ってないよ」
「おっけ。・・・・・・ん」
「あぃ?」
カルピスを左手に持ったまま、メイナが右手を差し出してくる。不意を突かれ呆けていると、「貸してコップ、飲むでしょ」と、やはり凹凸のない声で彼女は言った。
「あ、ああ、ありがと」頭の働きが如実に悪くなっていることを感じながら、左手で掴んだコップをメイナへと伸ばす。
メイナが口を小さく開けて私を見ている。まるで私の内心を透かし見られているような気がして、落ち着かない。そのせいかどうかは分からないけれども、私はコップの受け渡し位置を見誤り、腕を少し伸ばし過ぎた。その結果として、メイナの冷たい指が私の手の甲に触れ、驚いた私は、彼女の指から手の力を吸い取られたみたいに、コップを落とした。柔らかなカーペットが敷かれていたおかげで、コップが割れるようなことはなかった。
「ごぁ、ごめんっ」
慌ててコップへと手を伸ばすと、同じようにしていたメイナの手にまた触れた。不意に熱い物に触れた時のように、私は咄嗟に手を引っ込めた。
過剰ともいえる私の反応に、メイナは明らかに戸惑っていた。眉を困ったように曲げて、私を見つめていた。
焦りに恥ずかしさに嬉しさにと、様々な感情が心の中でごった返している。顔なんてもうきっと、爆発する一秒前の爆弾みたいに真っ赤になっているに違いない。
メイナが何かを言おうと口を開くさまが、スローモーションめいて見えた。十中八九、私の挙動不審について言及するつもりだろう。
やばい、私の頭の中はその三文字で満たされ、今にも溺れてしまいそうだった。
「トイレ、トイレ行ってくる」
メイナが言葉を発するよりも一瞬早く、私はそう言い切って立ち上がった。ポンコツロボットさながらの動きでトイレへと向かう。背中にメイナの視線が突き刺さっているのかと思うと、よりぎこちなさに磨きがかかった。
これは、とんでもない二日間になるぞ。
私は思った。
始まりは、今からちょうど一年前の十二月三十一日だった。
その日もまた例年通り、祖父母の家に私の家族とメイナの家族が集まっていた。大人はみんなお酒を飲んで、アルコールによってしか得られない楽しさを共有していた。お酒が許されるのにあと九年という時間を要する私とメイナは、そんな雰囲気から避難するように、祖父の部屋でテレビを観ていた。
深い夜の時間であろうと、流石は年末、どのチャンネルでも魅力的な番組が放映されている。チャンネルをひとつずつ変えて何を観ようか決めあぐねていると、不意に、何かしらのテレビドラマの、キスシーンに出くわした。
「あ、キスだ」
「キスだね」
目に入った光景をそのまま口にする私に、肯定するメイナ。
キス、という単語は、同級生の間でときおり話題に上る。何々ちゃんが誰々くんと付き合っているらしい、キスしたこともあるらしい、といった具合に。
恋愛に漠然とした興味を持つ私は、そういった話を耳にするたびに思う、キスとはどういった感じなんだろうと。
生憎、好きな人はいないため、その答えを今の私が知ることはできない。そもそも、恋愛に興味はあるものの、いまいち好きという感覚がわからない。
家族に対する『好き』や、友達に対する『好き』とは違うのだろうか。
疑問に思い、そのようなことを私はメイナに言ってみた。
「私もあまりわからないけど」メイナは静かに言った。「違うと思うよ、恋愛の好きとは」
「そうなのかぁ」
「うん、たぶんね」
「じゃあメイナに対する好きは?」
「・・・・・・えぇ?」
メイナはテレビ画面から私へと視線を移すと、不思議そうに困惑したように首を傾げた。黒い髪が肌を滑っていき、彼女の首筋があらわになる。
何か変なことを言ってしまっただろうか、唐突に訪れた沈黙に焦りを覚えた私は、続いて口を開いた。
「だぁ、だってメイナは従姉だし、友達って感じでも家族って感じでもないでしょ?だからどうなのかなって」
「じ・・・・・・じゃあ、してみる?」
「へぇ?」
「キス、私とサナで」
メイナはそう言うと、人差し指で自分の唇、私の唇を交互に指した。思いもよらない提案、次に驚くのは私の方だった。
「キスしてドキドキするなら恋愛の好き、そうじゃないなら恋愛以外の好き」己の手に視線を彷徨わせた後、メイナは再び私の目を見た。「だから、キスしてみればわかるでしょ、サナの好きがどっちなのか」
「そん、そんな単純かな人の心って」
「さぁ?」
「さぁって・・・・・・」
「だって私キスしたことないし、わからないよ。だから試すんでしょ」
「なぁ・・・・・・る、ほど」
それを了承と受け取ったのか、メイナはテレビの電源を切った。
少し離れたリビングの楽し気な声が聞きとれるほど、部屋の中は静かになった。ほんの少しの身じろぎで鳴る衣擦れや、心臓の音ですら主役たりえるほどの静寂。正直、息が詰まりそうだ。
メイナとは、赤ちゃんの時からの付き合いだ。彼女と二人きりでいることなんて珍しくもなんともない、はずなのに、この重苦しい、私の体をぺしゃんこに潰してしまいそうな緊張感はどういうことだろう。
「サナ」
私の名前を呼ぶと、メイナは私の手を取り、自分の肩へと導いた。彼女の肩は小さく細かった。
本当にするんだ。
メイナなりの冗談かもしれない、という疑念が跡形もなく霧散し、ひとり取り残された私は訳も分からぬまま、おもむろに彼女の方へ寄った。
「・・・・・・サナはキスしたことある?」
部屋の中の静謐さを乱さないような口調で、メイナが言った。
「ない、かなぁ」
「そっか」
「なん、なんで訊いたのそれ今」
「何となく、でも、訊いてよかった」
そう言って、彼女は柔らかな笑みを浮かべた。
メイナの笑顔は珍しい、そんなことを思いながら、私はそうっと唇を寄せた。
私の「好き」の正体は、いとも容易く判明した。
年越しそばを食べ終え、後は眠るだけとなった。
これといって体を動かしたわけでもないのに、私はもうクタクタだった。心が疲れると体も疲れることを思い知った。
布団を敷き終えた私は、さっとそれに潜り込んだ。厚みのある掛布団は安心感を与えてくれる。
「サナ、枕あげる」
すぐ隣で布団を敷いたメイナが言い、大きな枕を寄越してきた。枕が無いと寝付けない私とは反対に、彼女は枕があると上手く眠ることができない。
「眠そうだね」
「正直ね・・・・・・電気消して大丈夫?」
「いいよ」
枕元に置いてあったリモコンのボタンを押し、部屋の明かりを落とす。一番明るい、雪みたいな白色の光が少し弱まり、もう一度ボタンを押すと、暗いオレンジ色の光になった。
その時、メイナが言葉を発した。
「去年のキスのせい?」
「あぇ?」
もう寝るだけだ、と気を緩ませていたところに彼女の一言が突き刺さり、私は間抜けな断末魔を上げた。不意打ちとはこのことを言うに違いない。
「サナ、今日一日ずっと変だったから、もしかしてアレのせいなのかなって」
「いや、い、うぅ、ん・・・・・・」
縦から見ても横から見ても真ん中の、全く正鵠を射た彼女の推理に、私はもはや意味を成さない声を出すので精いっぱいだった。否定することすらままならなかった。
ふふふ、と暗がりの中でメイナが笑った。表情を窺うことはできない。私は布団の縁を握り、今にも爆発してしまいそうな何かを必死に抑え込んだ。
「そういえば結局、サナの好きはどっちの『好き』だったの?教えてもらってない」
「教えたくない・・・・・・」
「・・・・・・そっか、じゃあ私も教えない」
「えっ?」
耳を疑うメイナの言葉に、思わず私は跳ね起きた。
何か、今の私にとって最も危ないことを、燃え盛る炎の中に、薪の代わりにダイナマイトをくべるような事を、言われたような気がした。
暗い橙色の光に照らされ、濃い影を落としたメイナの顔が見える。彼女はいたずらな笑みを浮かべている。
「私の『好き』、教えてくれないなら教えない」
聞き間違いだろうか、という私の思いを吹き飛ばすみたいに、彼女は言った。
「知りたい?」
夜に溶けてしまいそうなくらい静かに、メイナは言う。
たった一秒の間に、私の頭の中で様々な考えが乱舞した。それはさながら、狭い部屋にて解き放たれたスーパーボールのようだった。
私は、ただ黙って小さく、暗い部屋の中でなら見逃してしまいそうなくらい小さく、私は頷いた。知りたい、という本心と、知らない方が安全だ、という本心のぶつかり合いだった。
メイナが深く息を吸い、吐き出した。その音が少し震えて聞こえた。
「・・・・・・じゃあ、もう一回キスしてみる?わかるかもよ、『好き』が」
そう言ってまた、お互いの唇を人差し指で交互に指した。
メイナの顔が赤く見えるのは、部屋の明かりがそう見せているだけなのか、それとも、あるいは。
キスをしてみれば、それもわかるのかな。
息を吸う。
メイナの肩に手を置いた。




