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彼女たち  作者: 城ヶ崎
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プールの人魚

季節にあった話は良いですね


 夏の太陽が容赦なく私を照らしつけてくる。プールの水に足をつけて、せめてもの涼をとってはいるけれども、ほとんど無防備に近い上半身には着実に熱が溜まっていく。額から滲んだ汗が手に持っていた文庫本の一ページに落ちて、丸い染みが出来上がる。一冊百円程度の古本だから、それほど気にならない。

 小説の内容はまだ始まったばかりで、退屈なページが続いていた。文章から目を離し、陽の光が反射してキラキラと光る水をかき分けて泳いでいる、一人の女の子へと移す。

 流奈るなだ。

 二十五メートルをクロールで静かに泳ぎ切った流奈は、流麗な動きでクイックターンをすると、豪快なバタフライに移行した。

 あんな小さな体のどこからこんな音が、と不思議に思わざるを得ない蝉たちの鳴き声と、流奈の腕と水とがぶつかり合う音が響く。いかにも夏の音だった。ここに風鈴と花火の音があれば、夏をコンプリートできるといっても過言ではないだろう。

 じぃっと流奈の姿を眺めていると、バタフライを泳ぎ切った彼女がそこで止まり、ちらりと私を見た後、緩やかな勢いで沈んでいき、数秒の後、私の足元から現れた。水を纏った彼女が近くに来ると、それだけで涼しくなったような気がした。

 「みっちゃん、泳ぐ気になった?」プールサイドに肘をついて、流奈が訊いてくる。「暑いでしょそこにいるの」

 「あんまり」私は答える。「泳げないから私」

 「泳げなくてもさ、プール入るだけでも、冷たくて気持ちいいよ」

 「部員じゃないのに入っていいの?」

 「部長である私が許可します・・・・・・あ、水着持って来てないか。今日体育無かったし」

 「持って来てる」


 間髪入れずにそう答えると、流奈は少し驚いた表情を浮かべて、「用意がよろしいことで」と微笑んだ。

 

 「でも、入るかどうかはまた別」


 付け足すように言うと、彼女は眉をひそめてあからさまな不満を顔に表した、かと思いきや、先ほどの微笑みとは全く別種の、いたずらな笑みを浮かべて「うおりゃっ」という叫びと共に両手いっぱい分の水を掬ってかけてきた。そんな彼女の行動を予想だにしていなかった私は、万歳ばんざいの格好になって文庫本を避難させるのが精一杯で、あえなく飛来した水の餌食となった。

 ワイシャツがびっしょりと濡れて、吸い込んだ水のぶん重くなる。風が吹くたびにひんやりと涼しかった。

 

 「わっ、思ってた以上にかけちった。ごめんみっちゃん」

 「許さない」

 「器ちっさいな。まあほら、そんだけ濡れたらもうプール入ってもいいでしょ」


 調子の良いことを。 

 少しムッとしたけれども、しかし流奈の言うことには一理あった。これだけ濡れてもなおプールに入ることを拒否していたら、それはもうお間抜けなだけだ。


 「着替えてくる」


 ため息を吐いて私は立ち上がり、更衣室へと向かう。

 

 「いっておいで~」


 そう声をかけられた後、ばしゃっ、という水の音が聞こえた。

 私はもう一度ため息を吐き出した。




 


 流奈が唐突に何の前触れもなく水泳部を作ると言い出したのは、六月のある日のことだった。

 私と流奈の通う中学校には、二十五メートルプールはあるものの水泳部は存在しないのだと流奈は言った。確かに言われてみれば、これまでの学校生活で水泳部に所属している、という生徒を見たことがなかった。


 「だから私が作る」


 鼻息荒く流奈は言い、そして本当にその日のうちに、先生のもとへとその旨を伝えに行った。

 部活動を発足ほっそくするには何か条件が、例えば、部員数が最低限これだけ必要だ、などの条件があるのかと私は勝手に思っていた。もしそうなった時、きっと流奈は私を巻き込むだろうな、とも。 

 しかし展開は意外な方向へと広がっていった。

 まず前提として、流奈が水泳部というものに求めているものは、大会などで競い合いたい、などのカッコいいものでは決してなく、ただ単純に、授業以外でもプールで泳ぎたい、というものだった。彼女は昔からプールそのものが大好きだった。

 そのことを先生に伝えると、使用前後の掃除を条件として、放課後のプール使用許可があっさりと下りた。安全のための見張り役として、部活動時間が最も長い野球部の副顧問の先生が定期的に見に来るようになった。

 話が終わり、職員室を出て廊下を歩きながら、誕生日前日の小さな子供のような表情で流奈が話しかけてきた。


 「水泳部これで完成ぃ。マジ最高」

 「部ってわけじゃないと思うけど」

 「いいんだよ部ってことで、そんで私が部長。一年生で部長ってめっちゃカッコ良くない?」

 「まぁ、よかったね、すんなり決まって」


 そう言うと、流奈は右手でピースサインを作った。

 空っぽの言葉だった、感情が伴っていない『よかったね』だった。

 すんなりと決まりすぎだよ。

 声に出さず、私は呟く。

 ちょっとくらい、私のこと巻き込んでよ。

 何となく窓の外を眺めてみると、遠くの方に入道雲が見えた。ただの大きくて白い雲なのに、どうしようもなく夏を感じさせられた、水泳部の季節であることを思わされた。






 それからの流奈は、放課後になるともっぱらプールで泳ぎ続けた。まるで、地上にいた分を取り戻すかのように彼女はプールに居続けた、これまで下校を一緒にしていた私のことなんて知らんぷりで。

 なんで好んで水の中にいようとするんだろう。

 泳げない私は疑問に思う。地上にいる方が自由に呼吸ができるのに、どうして。

 水の中にいる彼女はどうしてあんなに楽しげなんだろう。

 水中には誰もいないのに、地上には私がいるのに。






 流奈が非公式水泳部の部長となって一週間ほど経ったその日の放課後、いつも通りプールへと向かう彼女に、私は何も言わずついて行った。

 「おっ?」流奈が驚きの声を上げる。「みっちゃん、もしかして入部希望?」

 「別に、そんなんじゃなくて」私は努めて静かに言う。「ただの見学」

 

 「ふ~ん、一緒に泳ぎたいけどなあ私は」


 進行方向を眺めながら、彼女は気の抜けた声で言う。

 ずるい女の子だ、と私は心の中で毒づく。







 水着に着替え終えた後、更衣室にあったハンガーを借りて、濡れてしまったワイシャツとスカートを太陽が当たる場所に掛けた。雲一つない快晴の下でなら、一時間もすればすっかり乾いてしまうだろう。

 プールの方に目をやると、素直に水着に着替えた私を意外に思ったのか、流奈がぽかんと口を開いて私を見ていた。水の中でそんな表情をすると、まるで餌を待つ鯉のように見えた。

 簡易的な準備体操を済ませた後シャワーを浴び、あまり気の進まないまま、プールへと入った。

 炎天下のプールは、悔しいほどに涼しくて心地いい。

 

 「おお~、一人のプールも良いけど、みっちゃんとのプールも良いねえ」

 「なにそれ」

 「よっしゃ泳ご」

 

 早速泳ぎ出そうとする流奈の肩を慌てて掴む。さっきまで泳ぎっぱなしだったせいか、彼女の肩は水の中にいてなお暖かかった。


 「ちょっと待ってちょっと待って、私泳げないって」

 「あ、そうか、うっかり」

 「そもそも泳ぎたくて入ったわけじゃないし」

 「えぇ~・・・・・・」


 流奈の表情が暗くなった後、沈黙が訪れた。なんの巡り合わせか、さっきまで元気に鳴いていた蝉たちですら、私たちに乗じたかのように静かになった。夏に似つかわしくない静けさだった。


 「・・・・・・別に、流奈が教えてくれるなら、泳いでもいいけど」


 根負けした私がぽつりと呟くと、流奈の表情がみるみるうちに明るくなっていった。現金な女の子だ。


 「はいはい教えます、今日で運動音痴代表のみっちゃんを二十五メートル泳ぎ切れるようにしてあげます」

 「代表ってほどじゃない、さすがに」

 「冗談。よーし、まずは浮くことから始めよっか」

 「・・・・・・はぁい」


 なにゆえ放課後に水泳の練習をしなければいけないのか。

 意志薄弱な自分を恨みながら、私は意を決して水面に顔を近づけた。








 練習を始めてから二十分ほどが経ったけれども、残念ながら、いまだに私は水に浮くことすら叶っていなかった。底から足を離したそばから沈んでいくばかりだった。我ながら驚異的な成果だった。


 「やっぱり凄いなぁみっちゃんは。こんなに水に浮けない人みっちゃん以外に見たことないよ」

 「・・・・・・それは、どうも」

 

 全く上達の兆しが見えない私に対して流奈が苛立った様子はまるで無く、むしろ楽し気な笑みを浮かべていた。

 やっぱり泳ぐのは嫌いだ、と心の中で思ったつもりが、どうやら口に出ていたようで、「そうなの?」と流奈が言った。


 「見てたでしょ私のかなづちっぷり。これで泳ぐの好きな方がおかしいよ」

 「まあ、そりゃそうか」

 「仮に泳げたとしても、やっぱり泳ぐのは好きになれないと思うけど。水の中なんて息苦しいだけだし・・・・・・流奈はどうして泳ぐのが好きなの?」

 「え? 私も別に泳ぐのが好きってわけじゃないよ」

 「あぇ?」


 質問に返ってきた答えは、予想外なものだった。

 好きでもないのに毎日たっぷり泳いでいるというのなら、流奈という人間を表す日本語が『変態』以外に見当たらなくなってしまう。彼女と親しくしている私としては、それだけは避けたいところだった。


 「なら、どうして」

 

 流奈は曖昧な笑みを浮かべた。その表情は、困った時に彼女がよくするものだった。

 だからこそ俄然、私は気になった、彼女が水の中にいようとする理由が、私よりも優先されるその理由が。


 「教えてよ」


 無言を貫こうとする流奈を逃すまいと、私は言葉を重ねる。すると彼女は口をまごまごと動かしてから、「笑わない?」と言った。私は首を横に振った。


 「ん~、あのぉ、みっちゃんはプールの底から水面見たことある?」

 

 微笑みを保ったまま、彼女はプールの底を指さした。

 私は再び首を横に振る。


 「私、それ好きなんだよね、沈んでから空見上げるの、泳ぎまくって疲れてる状態だとなお良い」


 私と目が合わないように水面に視線を滑らせながら、流奈はまるで恥ずべきことを告白するかのような態度で言う。


 「なんで恥ずかしそうにしてるの?」

 「いやなんか、何となくというか、共感されにくそうだなって、自覚あるから」

 「そう?」

 

 そんなことを恥ずかしく思う流奈の姿は意外だった、私の知らない彼女だった。

 何はともあれ、それが流奈の、プールへの愛の源泉ということらしかった。ならば、それを確認しないわけにはいかないのだった。


 「共感できるかどうかは私が決める。沈むのは得意だから、見るのは簡単」

 「あ、じゃあ私も一緒に見よ。待ってるの嫌だし」

 

 肺を限界まで膨らませるイメージで息を吸い、鼻を指でつまんで、一気に水底へと沈んでいき、空を見る。

 初めて見る水中からの水面は、とても綺麗だった。水というフィルターを通して見る太陽の光は柔らかく、水面で反射する光を見ていると、心が穏やかになっていくのがわかった。

 首を少し動かして、隣で沈む流奈を見てみる。広いプールの中で揺蕩いながら陽の光に当たる彼女は静かで神秘的で、まるで人魚のようだった。

 ふと、私の視線に気づいた流奈は、それまで水面に釘付けになっていた視線を私へと移し、にっこりと微笑んだ。

 私はそれをずっと眺めていたかったけれども、息が続かなくなって、仕方なく立ち上がった。そこから見る水面はいつもと同じだった。

 数秒すると、流奈もまた立ち上がった。


 「どうだったみっちゃん、よかったでしょ?」


 期待と不安を含ませた目を流奈が向けてくる。

 「綺麗だったけど」私は答える。「上から見る水面の方が好きかな、私は」

 

 「そっかぁ」


 流奈は空を見上げた。

 







 それから一時間と三十分ほどの時間をプールの中で過ごした。その結果、私は水に浮くことができるようになった。これは快挙以外の何物でもなかった。

 「よかったねぇみっちゃん」流奈は言い、拍手を響かせた。快挙ではあるけれども、彼女の反応はさすがに大袈裟だった。

 太陽の位置が下がり、夕方の橙色が濃くなってきたころにプールを上がり、制服に着替えてから、プールサイドにある落ち葉などを掃除した後、プールを鍵を閉めて職員室に返して、非公式水泳部の活動は終わりとなった。

 流奈と一緒に帰るのは久しぶりに感じた。


 「久しぶりだねえ一緒に帰るの」


 私と同じことを思っていたらしい流奈が言った。夕日に照らされる彼女は、水中の彼女とは違って見えた。


 「最近一人で帰るの多かったからさぁ、いやぁ嬉しいね」


 事も無げに彼女はそう言ってみせる。

 だったらプールで泳いでないで、私と一緒に帰ればいい。

 負けじと私もそう言おうとするけれども、それはよっぽど複雑な形をしているのか、あるいは私にとって大きすぎるのか、喉の部分でひっかかってとても出てきそうになかった。


 「ねぇ、やっぱりさ、みっちゃんも水泳部入ろうよ。それならこれまで通り一緒に帰れるしさ。今なら副部長確定」

 

 流奈は言う、この上なく気軽に、彼女は言ってみせる。

 やっぱり流奈はずるい。


 「いいよ」


 私は答えると、「やたっ」と流奈が飛び跳ねた。

 私の中にあった何かが綺麗に消えて、あの時見た水面のように清々しい気持ちになった。

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