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彼女たち  作者: 城ヶ崎
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一枚向こうの君


 夜の九時、夕飯を終えてお風呂に入った後、これから何をしようかと皆が心を躍らせるそんな時間、私は部屋で一人、握りしめたスマホの画面を眺めていた。

 画面には通話ボタンが表示されている。相手は詩織しおり、これを押せば、詩織のスマホから着信音が鳴る。

 親指を通話ボタンに近づける。私のスマホはあまり大きくないから、小さいらしい私でも片手で扱える。

 あと少し、もう薄皮一枚というところまで近づけて、慌てて離す。そこで初めて呼吸を止めていた自分に、まるで水中にいるかのような息苦しさに気づき、息を深く吸う。

 さっきから、これを何回も繰り返している。緊張で滲んだ手汗がスマホの背面を濡らしているのがわかった。

 画面から部屋の穏やかな明かりへと視線を移して、気持ちを整える。大丈夫、と声に出さずに口を動かして唱える。大丈夫、友達に通話かけるくらい、全くおかしくない。詩織に変な風に思われたりしない。だから後は、親指を動かすだけ。

 意識的に深呼吸する。肺が膨らんだり縮んだりしているのが感じられたような気がした。目を強く、眉間が少し痛くなるほど強く瞑ってから、ゆっくり開く。すると、さっきまで乱れに乱れていた精神が凪の水面のように静まっていた。悟りを開いたというシッダールタも、きっとこんな気持ちだったんだろうな。

 画面を見つめる。表示された通話ボタンの存在がひどく小さいものに思えた、ともすると、そんなものに怯えていた先ほどまでの自分が滑稽に思えてきた。

 心に余裕が生まれ、無意識に頬が緩む。今の私はきっと、公園で遊ぶ子供を見つめる母親のように慈愛に満ちた笑みを浮かべているに違いない。

 おもむろに親指をボタンに近づける。その親指の軌道は白鳥のように優雅だった。しかしそんな白鳥の歩みも、画面に近づくにつれてゆっくりになり、やがて止まった。まるで何か目に見えない抵抗力が増していくみたいだった。

 精神を安定させたところでどうすることもできないことを悟った私は、一旦スマホを机に置いて、両手で頬を二回叩いた。頬がヒリヒリする。

 再びスマホを手に取る。


 「よし、よしっ」


 自らに発破をかけて、ロッククライマーもかくやと思われるほど指に意識を集中させる。

 これはいわば、バンジージャンプやスカイダイビングと同じようなものだ。一度飛んでしまえばもう後戻りはできなくなる、どれだけ怖くたって進まざるを得なくなる。それなら、思い切って行ってしまった方が良いに決まってる。

 目を瞑り、親指で画面を押す。

 ついに押した、押してしまった、これでもう、詩織と通話することは確定した。焦燥感と期待感で胸が満たされていく。

 ふと、コール音がいつまで経っても鳴らないことに気づく。恐る恐る目を開いてみると、私の親指は全く見当違いなところに着地していた。私の必死の覚悟はどこか虚しい場所へと消えていった。

 緊張が途切れた私は、糸が切れた傀儡くぐつのように力が抜けて、机に突っ伏した。目の前が真っ暗になる。

 ただ詩織とお話がしたいだけなのに、どうしてこんなに苦戦しているんだろう。私が詩織のことを過剰に意識してしまうのは仕方がないにしても、こうなってしまうとは思ってもみなかった。

 私がこんな独り相撲をとっているこの時間、詩織は何をしているんだろう。

 リビングでテレビを観ているのかな、それとも自分の部屋にいるのかな。ユーチューブを観ているのか、SNSをはしごしたりしているのかな。

 ベッドの上での寝転んでスマホを見ている詩織の姿を思い浮かべる。頭の中の詩織は笑顔を浮かべている。いつも笑顔でいるから、私の中での彼女の印象もすっかりそれになってしまった。彼女の笑顔が特別好きだというのも、それの助けになっているのかもしれない。

 詩織の笑顔を思うと、コーヒーにミルクを垂らしたみたいに、心の中の暗い感情が薄まっていく。

 詩織の声が聞きたいな。

 そう思うと、意識が追い付かないほどの素早さで親指が動いて、すんなりと通話ボタンを押していた。親指が、私の理性にでなく感情に従って動いたようだった。

 画面が切り替わり、コール音が鳴る。私はそれをぼうっと眺めている。少し遅れて、その現実を正しく認識できるようになる。

 

 「わっ、わっ・・・・・・」


 驚きで手元が狂い、スマホを落としてしまう。慌てて拾い上げると、既に通話が始まっていた。咄嗟に耳にあてがう。


 「もぉ、あ、もし、もしぃ」

 『あ、もしもし、スー? どうしたの?』

 「あ、おあ、あの」


 耳元で詩織の声が聞こえる。全く電話とは偉大な発明だな、と思いつつ、動揺でうまく言葉を紡ぎ出すことができないでいた。


 「あの、ねぇ、詩織の声聞きたくなったぁ~・・・・・・、みたいな」

 『・・・・・・』


 とんでもないことを口走ってしまった、と血の気が引いていったのは、全てを言い終えてからのことだった。案の定というべきか、詩織が無言になってしまった。


 「あの、詩織、今のは・・・・・・」

 『・・・・・・ごめん、スー何か言った? 聞こえなかった、電波悪いのかな?』

 「あ、ああ、そうなの。いや何でもない、聞こえてなかったんだったらいいよ」

 『え~? 気になるけどその言い方』

 「いいっていいって、ほんと、気にしないでよ」

 『そう?』


 詩織が一歩引き下がったことで、私は密かに、マイクに乗らないようにそっと安堵の溜息を吐いた。

 危ない状況だった。詩織と言葉を交わすことができて、それまでの長きに渡る葛藤も相まって、つい気が緩んでしまった。

 

 「電話を掛けたのは、あの、暇だったからさ、ちょっと喋りたくなって」

 『あぁ~、私もちょうど暇だったぁ』

 「へぇ、何もしてなかったの?」

 『だらだらユーチューブ観てた』

 「ほぉ~、なんの?」

 『犬とか猫とかが仲良くしてるやつぅ・・・・・・とか、テキトー』

 「あー、可愛いよねそういうの。種族違う動物が仲良くしてるの見るとなごむよね」

 『マジでそれね~、あとは大食い動画とか観てたかなさっきまで。・・・・・・スーは何してた?』


 まさか「詩織に電話かけようとしては止めるを繰り返していた」とは例え銃で脅されたとしても言えない私は、内から溢れ出ようとしてくる恥ずかしさや照れを必死に押しとどめて、「映画観てた」と妙な嘘を吐いた。


 『おー映画、映画か~、何観てたの?』

 「バックトゥーザフューチャーってやつ」


 それは昨日観たばかりのタイトルだった。だから、嘘をついたとは断定しがたいように思われる。


 『おっ、何か聞いたことあるタイトルだなぁそれ』

 「詩織観たことないの? バックトゥーザフューチャー」

 『うーん、なんか、昔地上波でやってた気がするんだけど、たぶん途中で寝ちゃったのかな、全然ストーリーとか知らないや。車乗って過去に行く、みたいな話だよね?』

 「えーっと、まあそんな感じかなおおむね。めちゃくちゃ面白かったよ」

 『おおー、スーが絶賛は信頼できるなぁ。それアマゾンプライムで観れる?』

 「観れると思う、私もそれで観たし。詩織プライム入ってったっけ?」

 『兄ちゃんが入ってるから大丈夫。よーし、これで明日の二十四時間のうちの二時間潰れるな』

 「そっか。・・・・・・詩織はあんまり映画とか観ないの?」

 『観ないかなそんなには、あーでも、この前観たよ一つだけ』

 「へぇ、なんてやつ?」

 『シャークネード』

 「しゃ・・・・・・? なんだろ、聞いたことないなぁ」

 『お、お? 観たことないかいスーさんよ? 結構おススメよこれぇプライムにあるし』


 詩織の声音に輪をかけて楽し気な色が付け足された。好きなものを語る彼女はいつも弾むスーパーボールみたいな勢いで喋る。豊かな感情を持ち合わせている女の子だ、スマホ越しですら感情の昂ぶりがわかってしまうような女の子だ。


 「じゃあ、私も明日の二時間消化決定かなぁ」

 『いいねえスーさん、スーのそういう好きなもの共有してくれるの好きよ~』

 「すぅっ、え、好きって」


 その「好き」という単語に、私の愚直な頭は前半からの文脈を無視して脇目もふらずに飛びついてしまった。剥き出しの反射神経が反応してしまった。おまけに感情までもがそれに追随しては諸手を上げて喜んでしまい、私の顔が失態に青褪める暇もなく赤くなっていくのが自分でもわかった。 


 『え? ああ、好きって言ったけど、どうしたの?』

 「あ、いえ、何でもないぃ」

 『・・・・・・ふぅん、まあいっか。それで、どうしよっか。せっかくだから加奈かな雛子ひなこも呼んでグループ通話する?』

 「そっ、それはっ」


 思いもよらない詩織の提案に、私は思わず立ち上がる。勢いのあまり椅子が倒れる。


 『うぇっ、ど、どした』


 驚きと焦りが入り混じった声が耳元で聞こえる。やっぱり感情の移り変わりが分かりやすい。


 「・・・・・・ぐぅ、グループ通話もいいけど、さぁ、今は二人きりがいい、かなぁ私は」

 

 意を決して、私はそれを口にする。曖昧にならないように、電波の気まぐれによってもみ消されてしまわないように、はっきりと声に出して言う。

 スマホの向こうから静かな息遣いが聞こえてくる。


 『お、おおー、そっかぁ、じゃあそうしよっか。なにぃ~、スー私のことすごい好きじゃぁん』

 「へ、へへ、まあね」


 額に汗が滲んだ。今の気温はそれほど高くない、少なくとも汗をかくほどではない。

 感情からの自然発火現象。

 詩織の茶化すような声が聞こえてきて、少しがっかりした。もしかしたら、私の秘められた想いが都合よく伝わるんじゃないか、そんなことを思い描いていたけれども、それはフィクションの中でのみ起こりうる事であり、現実はどこまでいっても現実だった。

 がっかりの反面、安心もした。ここで詩織に神通力めいて私の想いを察してもらったとしても、あまりにも勝てる可能性が低すぎるから、やっぱりこれでよかった。今はこれで良かった。

 

 『あ、そういえばこの前さぁ』


 何か話題になりそうな出来事を思い出したらしい詩織が、これはウケるぞ、という期待感を隠そうともしない声で喋り始めた。

 今は、この声を聞けることを良しとしよう。









 『あ、もうこんな時間』


 詩織が呟き、それにつられて時計を確認すると、時刻は既に夜の十二時を回ろうとしていた。あっという間の三時間弱だった。


 「あ、ほんとうだ」

 『そろそろ寝ますかぁ、名残惜しいけど』


 さっきまでの明るい声音から一転、詩織の声に悲しみが混じった。太陽が天頂に居座る昼間から、いきなり深夜になってしまったかのような切り替わりだった。

 彼女の口から名残惜しいという言葉が出たことに、私は密かに喜んだ。

 不意に、静かな時間が流れた。私がそうであるように、詩織もきっと別れの言葉を出すのを惜しく思っているんだろう、通話終了のボタンを押すのを躊躇っているんだろう、そうであってほしい。

 その静寂の最中、私はある事を思いついて、そしてそれをそのまま口に出してみることにした。良くも悪くも、深夜のテンションだった。


 「あのさ、詩織って明日も暇でしょ?」

 『ちょーヒマー』

 「じゃ、じゃあさ、明日詩織がバックトゥーザフューチャー観て、私がシャークネード観てさ、夜に感想会しない? 今日のこれみたいに、通話でさ」

 『おっ、いいねぇそれ、スーさん冴えてるねぇ。よーし、じゃあ、明日の夜に』

 「う、うん、明日の夜に」


 それから十秒ほどの間を置いてから、通話が途切れた。

 スマホを充電器に繋げて、机の上に置き、ベッドに飛び込む。スプリングが軋み、ベッドの寿命が確かに削られている音がした。

 電気を消して部屋の中を真っ暗にする。目を開けていても瞑っていても同じ暗さ、今日を終えるための暗さだった。

 明日の夜に。

 その言葉の余韻を深く味わいながら、私はゆっくりと明日に向かっていくのだった。

 

 


  

現在amazon primeにて『バックトゥーザフューチャー』並びに『シャークネード』を無料で視聴することはできません。

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