そこにライバルが
「お、お邪魔します」
「はいー、いらっしゃい、入って入って」
好に導かれるまま彼女の家に、玄関に入る。何となく置かれている靴を見てみると、今しがた彼女が脱いだものの他に、もう一組、一回り小さい靴が踵をそろえて置いてあった。
「あ、それ妹の。帰って来てるみたい」
私の視線を目ざとく察した好が注釈を入れるみたいに言う。
「そうなんだ」私は特に気に留めることなく、靴を脱いで廊下に上がる。
「私の部屋こっち」好は言って、私の手を握って引いた。そこから伝わる彼女の温もりや、柔らかな手の感触にどきりと胸を打たれる。全身を巡る血が騒いで、不自然に体温が上昇したように感じる。
階段を上がり、二階に出る。「望の部屋」と書かれたネームプレートが下がったドアを好が三回叩く。
「のぞみぃー、ただいまー」
扉の向こうにいるであろう妹に好は声をかけるけれども、反応はなかった。
「ありゃ」彼女は声を漏らし、隣にある、「好の部屋」のドアノブに手をかけた。中に入る。
「あ、お姉ちゃんお帰り」
部屋の中から声が聞こえた。見ると、女の子が一人、ベッドの上に横たわっていた。彼女は好の姿を認識すると、花が開くように表情を明るくさせた。
「望ぃ、まぁた私の部屋いるじゃーん」
「ごめーん、お姉ちゃんのベッド落ち着くからさぁ・・・・・・お客さん?」
会話の最中、好の妹らしい望ちゃんが私を目に留めた。その瞬間、気のせいだと処理することが容易なほど一瞬の間、彼女の表情が冷たく険しくなったように見えた。
「友達だよ、私の友達。テスト近いから一緒に勉強すんの」
「初めまして、伊藤陽です」
「あ、初めまして、妹の望です。お姉ちゃんがお世話になってます」
望ちゃんは居住まいを正して、頭を下げた。私も頭を下げる。
好に似て、人見知りをしなさそうな子だな。
私は思った。
「ほらほら、今からお姉ちゃんたち部屋使うから、自分の部屋に戻りなさい」
「あ、じゃあ私もこっちの部屋で宿題していい?」
「えあ? あー、陽、望こっちにいても構わない?」
振り向いた好が尋ねてくる。「構わないよ」私は頷き、好の横に立って、改めて望ちゃんに挨拶をする。「よろしくね、望ちゃん」
望ちゃんはベッドから立ち上がると、好の傍らを抜けて部屋を出ていき、隣の部屋へと入っていった。
「準備しとこっか」好は言って、部屋の中央にあるテーブルの傍に座り、肩に掛けていたスクールバッグから一式の勉強道具を広げた。
すかさず私は彼女の隣に腰を落とし、同じように勉強道具を取り出す。
「え、隣?」好は面食らったように言う。「向かい合った方がよくない?」
「まあまあ、そう言わずに」私はとぼけて見せる、この距離の不自然さを、彼女への想いを。
好と私との間には拳一つ分ほどの隙間しかない。しかし、この僅かな間を埋めることは今の私には到底できない。
欲張っていいところと、そうでないところを見極めておかなければならない。
部屋のドアが開き、一枚のプリントを携えた望ちゃんが入ってきた。彼女は私たちを、特に私を一瞥すると、そそくさと私たちの対面に座った。
「望、宿題はなんなの?」好が訊くと、望ちゃんは屈託のない笑顔になって「算数」と答えた。「このプリント一枚やったら終わり」
「おおー、じゃあ私たちも数学しますか」好が私を見て、そう提案する。間近で聞こえる彼女の声にドギマギしつつも、辛うじて頷く。
「ああー、その前にジュース、あとお菓子。せっかく陽が来てくれたんだし」
「あ、いや、別にそんな・・・・・・」
「いやいやいや陽さんお客さんよ、遠慮しなさんな。ちょっと持ってくるね」
そう言って好は立ち上がり、そのまま部屋を出ていった。後に残された私と望ちゃんの間には、妙な沈黙が流れた。
私は元来、少し人見知りをするほうだ。いくら同級生の、友達の、好きな人の妹といえど、いきなり二人きりにされてしまっては困ってしまう。
目だけで望ちゃんの様子を窺ってみると、彼女はさっきまでの笑顔が嘘だったみたいに、いかなる感情も見せない全くの無表情で、私のことを見ていた。
目が合う。反射的に視線を逸らす。
少なくとも四歳ほど年下の女の子に気圧される女子高生、という、この上なく情けない構図が生まれてしまった。
年上の威厳を保つためにも、私から話しかけたほうがいいのだろうか。いやでも、望ちゃんはあの好の、コミュニケーション能力の怪物として知られる彼女の妹だ。黙っていても、向こうから話しかけてくれるんじゃないだろうか。
教科書のページを無意味にめくり、望ちゃんの出方を窺う。しかし十秒ほど経っても、彼女は依然として私をじいっと見ているらしかった。強烈な一対の視線に晒されている感覚が、私の心の奥の方をチクチクと刺していた。
好、早く帰ってきて。
そんな悲痛な叫びを胸の内で叫んだところで、ふと、ある考えが浮かぶ。
今日は、念願の好の家、そして好の部屋に入ることができた。それだけでも幸せだというのに、その上さらに妹である望ちゃんと会うことができた、いやいやそれだけでなく、その望ちゃんとこうして一対一という状況にまでなった。
外堀を埋める、あるいは、将を射んとする者はまず馬を射よ。
将来的に好の彼女になりたいと願うならば、今ここで、望ちゃんと仲良くなっているほうが良いに決まっている。
ここで親密になっておけば、私が帰った後の食卓で交わされる会話の内容が、にとって喜ばしいものとなるかもしれない。
「お姉ちゃん、陽ちゃんとってもいい人だったね」隣に座る望がそう言って、お箸でつまんだ唐揚げを頬張った。
「ああ、そりゃあね」私が答えると、望は口角をにんまりと上げた。そんなに唐揚げが美味しかったのか、と思っていると、「私、陽ちゃんにもお姉ちゃんになってほしいなぁ」と彼女は言った。
「どういうことよ、それ」
「さぁね~」
はぐらかすように望は言う。何となく釈然としないまま味噌汁を一口飲む。
陽ちゃんにもお姉ちゃんになってほしいなぁ。
さっきの望の言葉が頭の中で繰り返されて、それがどういうわけか、私の胸の鼓動を少しだけ速くさせた。
そう例えば、こんな会話が繰り広げられて、こんな展開になるかもしれない。
当然、このような展開になる可能性は限りなく低い、けれども、決してゼロではない。そしてその可能性を残しておきたいのであれば、見知りが何だとか言って、臆している場合では決してない。
「あの、望ちゃん」
「お姉ちゃんのこと好きなんですか?」
「へっ?」
私の言葉を打ち消すように、望ちゃんが口を開いた。
予想だにしない言葉に、私の頭の中は大掃除の後みたいにさっぱりして、漂白されたみたいに真っ白になった。後に続くはずだった言葉が全て消えてしまい、ぱくぱくと、音が伴わないまま口を開閉するという結果に終わってしまった。金魚にでもなってしまったみたいだった。
「わざわざお姉ちゃんの隣に座るのは不自然だし、距離近いし、お姉ちゃんと会話している時、表情すごい緩んでたし、そうなのかなって」
「えあ、おあ・・・・・・」
「どうなんですか?」
望ちゃんから無慈悲な追撃が入る。彼女の声には確かな厳しさがあって、審問会にかけられているような気分になった。
望ちゃんが前のめりになる。釣り合いを取るように、私の姿勢はその分後ろに倒れる。
彼女の視線は鋭く、とても逃げ切れるものではなかった。私は力なく頷く。
「うぁ・・・・・・はい、すぅ、き、好きです、ね」
「・・・・・・そうですか」
望ちゃんは噛みしめるように頷くと、天井を眺め始めた。やっとのことで彼女の視線から逃れられた私は、ほっと一息つくことができた。
何が起きているんだろう、と私はキャンバスのように白い頭で考えてみる。
なにゆえ、私は好きな人の妹から、こんな厳めしい態度で尋問されているんだろう。望ちゃんには一体どんな意図があるんだろう。
不意に、階段を上がる足音がドア越しに聞こえてきた。好が戻ってきている。その音は私にとっての救いだった。
勉強を始める前から、どっと疲れた。
階段を上り切った足音が近づいてきて、ドアの前で止まった。
「負けませんから、私だけのお姉ちゃんですから」
ドアが開く直前、望ちゃんがそう呟いた。私が反応する前にドアが開いて、好が入ってきた。
「はいー、はい、お待たせいたしましたぁ」
ジュースとお菓子を載せたお盆を机の傍らに置いて、好は私の隣に座るのではなく、残った机の二辺のうちの一辺、私から見て右側のところに座った。
「やっぱり、二人並んだら狭いでしょ」
「あ、そ、うん、そうだね・・・・・・」
「じゃあ私がお姉ちゃんの隣座るよ」
「え? 話聞いてた?」
「いいじゃん私小さいんだから」
望ちゃんはそう言うと、俊敏な動きで好の隣を陣取った。その時彼女は笑顔を浮かべていて、その笑顔が私の目には別のものとして映った。
なるほどな、と私はここにきて状況を理解する。
埋めるべき外堀も、射るべき馬も、最初からいなかった、ただそれだけのことだ。
覚悟を決めて、私は何食わぬ顔を取り繕って、好の隣に移動する。
「ん? 陽? どういうこと?」
「まあまあ、そうケチケチしないでよ」
「そういうもんなの?」
頭上に疑問符を浮かべる好の向こう側に見える望ちゃんと目が合う。漫画的表現が為されるとすると、きっと火花が散っていただろう。
「なにぃ? 二人とも私のこと好きなの?」
「まあね」
茶化すように発せられた好の言葉に、望ちゃんは答える。
声に出すことなく、私は胸の内で同意する。




