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彼女たち  作者: 城ヶ崎
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籠の中の安寧


 人差し指でインターホンを押す。奥の方でカチリと固い感触があって、ピン、という甲高い音の後に、ポーンと間延びした音が鳴った。

 『はい』少しのノイズが混じった声がインターホンから聞こえてくる。


 「あ、どうもー、南方みなみかたです」


 カメラを意識して立ち位置を調整してから、名乗る。


 『あー、恵麻えまちゃん、今日もわざわざありがとうねー。ちょっと待ってね、今開けるから』

 「ありがとうございますー」


 ぶつり、とインターホン越しの会話が途切れる。それから十秒と少し経つと、玄関の扉が内側から開かれた。そこから現れた女性は、明るい笑みを私に向けた。

  

 「こんにちは恵美ちゃん、入って入って」

 「お邪魔します」


 靴を脱ぎ、廊下に上がる。「りつは部屋ですか?」私が訊くと、彼女は頷いて、その笑顔にひとつまみ程度の影が差した。


 「今日も、ちょっと難しかったみたいなの。遊んで行ってあげて、あの子、恵麻ちゃんのことが大好きだから」


 その言葉を聞くと、私は得も言われない満足感を覚える。胸を満たす幸福感に背筋がぞくぞくする。思わずこぼれそうになる笑顔を必死に抑えて、あくまで悲し気な意味合いを含ませた笑みを浮かべて、その場を後にした。

 律の部屋は二階にある。もう幾度となく訪れたから、案内されるまでもなくたどり着くことができる。

 『律の部屋』と書かれたプレートが下げられた扉を三回、控えめに叩く。


 「律ー、恵麻だよー、遊びに来たよ」


 そう声をかける。少しのあいだ沈黙があってから、そうっと、何かに怯えるみたいに、音を立てることで何かが起きることを恐れているみたいに、扉が開いた。

 

 「え、恵麻ちゃん・・・・・・こんにちは」

 「おーう、律、こんにちはー、中入っていい?」


 律は首を縦に振って、ドアノブを握ったまま半身になって私を中に招き入れた。

 部屋の中に入る。学習机の上にはチョコレートブラウンのランドセルが置いてあった。それは律の努力の証拠だった、学校へ行こうと挑戦した彼女の意思の名残だった。


 「じゃあ始めよっかー、勉強ー」


 部屋の中央に置いてあるテーブルの側に座り、持ってきた鞄から筆箱と教科書、ノートを取り出す。扉を閉めた律がランドセルを持って、私の隣にぴたりと座る。甘えるような、すがりつくような距離感だった。肩と肩が触れ合うと、律のことがこの上なく愛おしくなる。

 学校での、今日の授業を順番に思い出していく。

 一時間目は国語、二時間目は算数、二十分休憩が入った後の三、四時間目は図工で、五時間目は体育、最後の六時間目は理科だった。

 算数の教科書と、それ用のノートを広げる。それに倣うように、律もまたノートを広げた。








 今日やった授業のおさらいを一通り終えると、一時間とちょっと経過していた。

 教科書を閉じる。ほどよい疲労感を覚えた。勉強の合間に律のお母さんが持って来てくれたオレンジジュースを一口飲むと、疲れた頭が癒された。床に手をついて上体を逸らすと、隣に座る律がおずおずと口を開いた。

 

 「あの、ごめんね、恵麻ちゃん。私のために・・・・・・」


 小さな声だった。律は、まるで自分の声が何か良くないものを起こしてしまうことを恐れるかのように、か細い声で喋る。

 長年の付き合いがある私は、すっかり彼女の声を聞きとることに慣れてしまった。

 「大丈夫」私は答える。「律に授業の内容教えるようになってからさ、成績めっちゃ上がったから。なんだろ、いい復習になってるのかな?」

 「そうなの?」律はなおも不安げな瞳を向けてくる。


 「まあとにかく、迷惑とかじゃ全然ないから、私が好きでやってるだけだよ・・・・・・律にも会いたいしね」

 「恵麻ちゃん・・・・・・」


 律の声が潤んだ。見てみると、彼女は俯いて肩を震わせ、今にも涙を落としそうになっていた。

 律の小さな背中に腕を回して抱き寄せる。彼女の体は暖かくて柔らかい。髪の毛からは私の家のシャンプーとは違うものの香りがして、その僅かな違いが私の心をこの上なく揺さぶった。


 「大丈夫、大丈夫だよー、りつー」


 律の背中を優しくさすりながら、耳元で囁く。すると、何かが私の肩をそっと濡らした。少しの温もりを持つそれは、律の涙だった。少しすると、彼女は嗚咽を漏らし始めた。私と律以外に誰もいない、彼女の部屋で、涙が入り混じった声が響いた。

 誰も見ていないのをいいことに、私は感情のままに表情を歪ませる。

 満ち足りた気分だった。胸の辺りがポカポカとして、律を抱き締める力がより強くなる。


 「え、恵麻ちゃん、あ、あのね」

 「ん? なに?」

 「わた、私はやっぱり、このままじゃいけないと思う。ずっと恵麻ちゃんに甘え続けてたら、だぁ、ダメだと思う」  

 

 声を詰まらせながら、肩を震わせながら、息を不器用に吸ったり吐いたりしながら、律は言う。


 「あ、明日から、学校、行ってみようと、と、思う、の」


 彼女の声は揺れていた。奥の奥の方に、恐怖心がどっしりと居座っていた。


 「律・・・・・・」

 「も、もう、皆、私のこと忘れてると思うし。いまさら私がいたところで、誰も気にしないと思うし、きっと、大丈夫」

 「行かない方がいい」

 

 私に伝えるというよりは、むしろ己を鼓舞するように律は言い、そして私はそんな彼女の言葉を遮った。

 「えっ・・・・・・」律の口から驚きの声が漏れた。

 私は続ける。


 「皆はまだ律のことを覚えてるよ。律が来たら、また嫌がらせされる、絶対に」

 「そ、そんな」

 「だから、来たらダメ」


 引き留めるように、繋ぎ止めるみたいに、より強く、律を抱き締める。

 

 「私がいる、律には私がいるから、ね? 毎日ここに来て、律と一緒にいるよ。だから、律は無理しないで、ここで私を待っててよ」

 「え、恵麻ちゃん・・・・・・」

 

 律の私を抱き締める力が強くなり、彼女の存在をより一層感じられるようになる。

 律の頭に手を置いて、彼女の髪をゆっくりと撫でる。指と指の間を、彼女の髪がすり抜けていく。

 ここには、私と律の二人しかいない。他には誰もいない。









 五年生が始まってすぐに、律はクラスの女子からいじめられるようになった。表立ってではなく陰で、一人でいるところを狙われて。

 いじめられるような理由は何もなかったのに、律だって訳も分からなかっただろうに、彼女はされるがままだった。もともと気の弱い彼女には、抵抗するだけの勇気がなかった。

 そういう日々が二か月ほど続いて、ついに律は学校に来なくなった。それ以来ずっと、放課後になると私は彼女の部屋を訪れて、その日にやった授業の内容を彼女と共有したり、学校の様子を、それも架空の、律が震えあがるような様子について話したりしている。

 家族を除けば、律が唯一接する人は私だけだ。彼女の中で私の存在が大きくなるのは当然のことだった。

 私が、クラスの女子に、律をいじめるように仕向けた。

 私にはそうするだけの力があった。自分でも不思議なことに、私は昔から人の中心に立つことが多かった。

 馬鹿ばっかりだ。

 律の魅力に気づかずに、私の言葉にまんまと踊らされて、みんな、本当に馬鹿ばっかりだ。

 けれども、それでよかったと思う。

 みんなが馬鹿なおかげで、律の魅力に気づかなかったおかげで、私は律を独り占めすることができるんだから。

 律には、私以外に誰もいらないんだから。

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