憩うは彼女の部屋
さあ夜ご飯を作りましょう、という時間になって初めて、醤油が切れていることに気づいた私は、仕方なく近所のスーパーへ行くことにした。
大学に入学して一年と少しが経った今、辛うじて自炊を続けているものの、手の込んだ料理は一度や二度、少なくとも片手で数えられる程度の回数しか作ったことがない。味付けは醤油と塩でほとんど完結している。そのせいで、醤油がないと満足に料理を作ることができない女になってしまった。
外に出て、しっかりと鍵をかける。空は夜の色になっていて、辺りはすっかり暗くなっていた。
せっかくだから、何か買い足す物がないか確認してから出ればよかった、と思いはしたものの、鍵を開けて中に入り、もう一度鍵をかけることがひどく面倒に感じられて、怠惰が理性を上回り、私は早歩きでスーパーに向かった。
私が一人の女性を拾ったのは、その道の途中でのことだった。
私の部屋からスーパーまでは徒歩で十分ほどのところにある。そのうちの五分ほど歩いたところで、私は一人の女性を見つけた。
道を両側から挟み込むようにして立つブロック塀の、私から見て右側の方に、彼女はもたれかかって座っていた。長い髪が顔にカーテンのように垂れかかっていて、表情は窺えない。その上、彼女の傍らに立つ外灯の淡い光が彼女に降り注がれていて、異様な雰囲気を醸し出していた。
私は慌ててその女性のもとに駆け寄った。病気によるものか怪我によるものか、あるいはそれ以外の何かか、いずれにしても状態が芳しくないのは確かだった。
「だぁ、大丈夫ですか?」
しゃがみ込んで肩を叩き、声をかける。ううん、と女性が呻いて、顔を上げた。さらさらとした髪の毛がかき分けられて、彼女の顔が露になった。
綺麗な女性だった。目が大きく、鼻筋が通っていて、唇の薄い女性だった。肌の白さが、持ち前のものなのか、体調不良によるものなのか判然としなかった。
「や・・・・・・」
彼女が口を開いた。そこから出た声は乾いていて、まるで一日中砂漠を歩き続けた遭難者のようだった。
「や?」と私は彼女の言葉を繰り返して、その先を促した。
「やさしく・・・・・・してください」
そう言うと、彼女は再び項垂れた。
「え、あの」肩を叩いても、揺さぶってみても、いかなる反応を示さなくなった。何だかよく分からないけれども、体調の方は大丈夫そうだということがわかった。
「あ、あの、そこのスーパーで醤油買ってきますから、それまで待っていてもらえますか?」
私がそう問いかけると、僅かだけれども、彼女が確かに頷いたように見えた。それは私の見間違いだったかもしれないけれども、それでもいいと自らを納得させて、駆け足でスーパーへと向かう。
なぜ私は優先順位の一位を醤油に、二位をあの女の人にしてしまったんだろう。
そんな疑問が湧いて出ては私を揺らすけれども、それすらも無視して、私は走った。
醤油を無事に購入して、来た道を再び駆け足で戻ると、さっきの女性が、全く変わらない格好で、全く同じ場所に座っていた。
「あの、醤油、買ってきました」肩で息をしつつ、女性に言ってみる。「どう、どうすればいいですか?」
「優しくしてください」
間髪入れずに、彼女が言った。恐ろしい反射神経だった。一方の私は、困惑を極めていた。
「優しくしてください」と言われても、意識的に人に優しくしたことのない私には、具体的にどうすればいいのか、皆目見当もつかなかった。
手に下げたレジ袋の、その中にある醤油を見る。仮にこれを差し出したとすると、それは優しい行為として認識されるのだろうか。
たぶん違うんだろうな、と思う。まかり間違っても、今の彼女は醤油を欲しているとは思えない。
何ができるだろう、と頭を捻る。雑巾を絞るように知恵を絞り、かつて活躍したことのない観察眼をふんだんに使って女性を眺めて推測材料を集め、今の私がすべき最善の行動を頭の中で組み立てていく。
その組み立て作業は、想いのほか捗らなかった。自らの頭の鈍さ、観察眼の節穴っぷりに失望していると、不意に、ぐう、という音が鳴った。それは私のお腹が鳴った音だった。目の前の女性が鳴らしたのかな、と現実逃避をしてみたけれども、現実はどうしても私のお腹の音だった。
そういえば私は夜ご飯を作ろうとしていたんだ、と思い出す。
一度思い出すと、それに体が呼応するように、空腹を感じ始める。早く帰って夜ご飯を食べたい衝動に駆られたけれども、だからといって、目の前の女性を放っておくのも忍びなかった。
「あの、私の家来ませんか?」
思い切って、そう提案してみる。
すると彼女は、思わず首の具合を心配してしまうような勢いで顔を上げた。ピラニアが餌に食いつくような、恐るべき反応だった。
「てぇ、手料理ぃ」
「はい?」
「手料理、食べさせてください」
突如、彼女は頭突きでもするみたいな勢いで膝立ちになって、私に詰め寄ってきた。彼女の目は血走っていて、髪の長さも相まって、ホラー映画さながらだった。驚いて、私は尻もちをついた。痛かった。
「手料理・・・・・・はい、手料理、作ります」
私は頷いた。彼女の目は依然として血走っていたけれども、それでも確かに、輝きが灯ったように見えた。
部屋に戻る。「お邪魔します」と続いて女性が入ってくる。
普段から部屋を綺麗に保っていて、女の子として最低限の清潔感を保ち続けていてよかったな、としみじみ思う。こういった不意の来客、それもかなりレアケースなお客さんが来ても恥をかくことがない。
それにしても、と思う。
それにしても、なんだか妙な展開になってきた。行き倒れの女性を部屋に招き入れて、あまつさえ手料理を振舞うことになるとは、中々ない経験だろう。
ある意味では、ラッキーと言えるかもしれない。
「それじゃあ、あの、夜ご飯作りますので、寛いでいてください」
「はーい」
暢気な返事が返ってくる。私の言葉に則って、彼女は居間に座り込んで胡坐になり、本当に寛ぎ始めた。日々の仕事に疲れ果てた社会人が実家に帰った時、きっとこんな風に寛ぐんだろうな、と思わされた。
混乱していたとはいえ、会って間もない人を夜ご飯に誘った私はおかしいけれども、全くの他人の家でこうも寛げる彼女もまたおかしい。
冷蔵庫から玉ねぎとキャベツとピーマン、豚肉を取り出し、まな板の上で野菜、お肉の順番に切っていく。大きさには拘らない。
フライパンにサラダ油を広げて、温める。しばらくしてから材料を投入して炒めていく。頃合いを見て、目分量で塩、醤油を回し入れていく。
菜箸で玉ねぎをつつき、程よい柔らかさになったことを確認してから火を止める。それを二枚のお皿に取り分けると、醤油のシンプルな香りが鼻をくすぐった。
あらかじめ炊いておいたご飯をお茶碗によそう。
二人分のご飯を作ったのは、初めてのことだった。
「わああ、手料理だぁ」
お皿を運び終えると、行き倒れの女性が黄色い声をあげた。一年と少しの時間で磨き上げられた手抜き料理に対してそんなポジティブな反応をされてしまうと、恥ずかしいような、誇らしいような、不思議な感情が沸き起こった。
「すみません、お味噌汁無くて。作るのが面倒で・・・・・・」
「いやいや、全然これで、最高だよ」
割り箸を手渡すと、彼女の口角が上がった。胡坐から正座へと座り直していた。
「い、いただきます」
「いただきますっ」
言うや否や、彼女は野菜炒めに箸を差し込み摘まみ上げると、大きく開いた口にそれを放り込んだ。何度か咀嚼してからご飯を口に入れて飲み込むと、テレビのコマーシャルでも中々お目にかかれないような、幸福感に満ちた表情を浮かべた。彼女の今の表情を寸分の違いもなく絵画として描けたのなら、歴史的な価値を有すること間違いなしだと思われた。
味の感想は訊くまでもなかった。
総額三百円にも満たない夜ご飯で、あたかも三ツ星レストランの料理を味わったような表情をされると、嬉しさを通り越して、もはや彼女の普段の生活を心配する気持ちを覚えた。
「あの、大丈夫ですか?」
思わずそう訊ねてみると、彼女は依然として箸を動かし続けながらも、「大丈夫、ばっちり美味しいよ」と的外れな回答を口にした。
「そうじゃなくて、その、生活というか、食生活というか」
私がそう言うと、それまでせかせかと動かしていた箸が止まり、彼女の表情から明るい全ての感情が、まるで幻だったかのように、ふっと消えた。何か踏み入ってはならない所に、私はまんまと入ってしまったんじゃないか、という危険な予感がよぎった。
「私、いま大学四年生でさ」
箸をお皿の縁に置き、彼女が呟くように言った。私より二歳上なんだな、と素朴なことを思った。
彼女は続ける。
「それで、まあ、絶賛就活中で、その、上手くいってなくてね・・・・・・」
「は、はあ」
「日に日に志望先が減っていくとね、なんだか、こう、胸の辺りがぎゅっとなってね、ご飯作る元気もなくなってきて、インスタントとか外食とか」
喋るにつれて、彼女の首の角度が徐々に変化していって、じりじりと俯いていく。部屋の明かりが私たちを照らしてくれているにもかかわらず、彼女の表情に濃厚な影が差していた。彼女の背後には底知れぬ深い闇があるように見えた。それはいわば、負のオーラとでも言うべきものなのかもしれない。
予感が的中してしまった。想像以上のものが、彼女から溢れ出てきてしまった。その溢れ出てきたものを受け止める器を、残念ながら私は持ち合わせていない。
それでも、と思う。
それでも、私にできることはあるはずだ、と。
膝立ちになって歩き、彼女の隣に座る。彼女の暗い顔に、私の行動を不思議に思う表情が僅かに混じった。
「あ、あなたは偉いです」
意を決して彼女の頭を撫でて、私はその言葉を口にした。
「へ?」と素っ頓狂な声を彼女はあげた。
さらさらとした彼女の黒髪の感触はきめ細やかだった。
私は続ける。
「私はまだ二年生で、就職活動がどれほど大変なものなのかわかりません。でも、不合格を突き付けられる辛さは、何となくでも想像できます。きっと大変なはずです。それでもなお戦い続けるあなたは、とっても偉いです」
我ながら立て板に水とばかりに、彼女を励ます言葉の数々が口をついて出てくる。それらは急ごしらえの言葉だったけれども、それでも私の本音だった。
彼女は口をポカンと開けて、何も言わずに私を見つめていた。まさに鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた。その慣用句が現す表情を、私は人生で初めて見た。
変なことを言ってしまったかもしれない、と心の底が冷えていくのを感じた。何の事情も知らない私なんかがこんなことを言ったことが、かえって失礼だったかもしれない、とすら思えた。
「あの・・・・・・」
彼女の沈黙に耐えられなくなって声をかけてみる。
次の瞬間、彼女の頬を一筋の涙が伝った。それはするすると頬を滑っていって、テーブルの上に落ちて弾けた。
「うぁ!? あ、あ、すみません、やっぱり生意気でしたよね、忘れてください今の言葉は」
人を泣かせた経験がこれまでになかった私は、彼女の涙に揺さぶられ、この上なく取り乱した。思考が乱れに乱れ、頭の中は混沌を極め、精神的な前後不覚に陥った私は、テーブルの上にある野菜炒めの中から豚肉を箸で摘まみ上げて、「こぉ、これ、これ食べてください」と言って彼女の口元に差し出すという奇行に走った。
私は何をしているんだ、と我にかえったその時、彼女が口を開けて、その豚肉を頬張った。
堰を切ったように溢れ出る涙に構うことなく、彼女はゆっくりと豚肉を咀嚼して、飲み込んだ。彼女の表情は穏やかだった。
そのとき私は、彼女の顔にかかっていた影や、背中に覆いかぶさるようにしてあった闇が薄まっていることに気づいた。
心の中の暗い部分が滂沱の涙と共に流れていっているのかもしれない、私はそう思った。
不意に、彼女が倒れこむようにして私に抱き着いてきた。私のお腹の辺りに顔を埋めて、くぐもった嗚咽を漏らしていた。
驚きはしたものの、それも少しの間のことで、今だけは、このままでいようと思った。
「泣きましょう、たくさん泣きましょう」
私が言うまでもなく、彼女はたくさん泣いた。
ペットボトル一本分くらい涙を流した後、彼女は私から離れて、照れたような笑顔を浮かべた。目元が赤く腫れていたけれども、それでも素敵な笑顔だった。
二人でご飯を食べる間、彼女は就職活動の愚痴を、時に腹立たし気に、時に楽し気に語った。対する私も彼女の愚痴の内容に怒り、笑った。一人暮らしではなかなか味わえない、楽しい食事だった。
「それじゃあ、もうそろそろ帰るよ」
食べ終えた後、彼女はすっくと立ちあがった。彼女の晴れやかな表情を見ると、もう道端で座り込むようなことはないだろうな、と思えた。
「あ、途中までご一緒しましょうか?」
私の言葉に、彼女は首を横に振った。
「家近いから、大丈夫」
「そうですか」
名残惜しい気持ちがした。そして、そういう感情を覚えた自分に驚いた。それだけ、彼女との時間が楽しかったということだった。
「ほんとに近いからさ、また来てもいいかな?」
沈んだ感情が表に出ていたのか、彼女が励ますように言った。「もちろん」私は答えた。
「そんなに近いんですか?」
「うん、一分もない」
「え?」
彼女は人差し指を立てて、それを下に向けた。それが意味するところは、ただ一つだけだった。
「私も、ここのアパートだから」
「え?」
「なんなら次は君が私の部屋来なよ」
「あ、ああ、そうですね、そうします」
混乱が収まらないまま、ほとんど反射的にそう返事をすると、彼女は満足そうに笑みを浮かべて、ドアノブに手をかけた。
「それじゃあ、またね」
「あ、はい、さようなら」
彼女が廊下に出て、ドアが閉まる。微かな足音が遠ざかっていく。
居間に戻ると、さっきまであった会話の温もりの余韻が残っているような気がして、それが余計に寂しさを強調させた。
「・・・・・・とりあえず」
料理の練習をしよう。
私は決意した。




