帰りを一緒に
教卓に立つ担任が、風邪に気を付けるように、とか、受験を遠く先の事と考えてはいけない、なんて金箔のように薄く、それでいて金箔のような華も無いことを、長々と喋り続けている。
文化祭や体育祭、定期テストなどの行事が間近に迫っていない場合、帰りのホームルームで言うことなんて無いはずなのに、彼女は何が楽しいのか、無理くり話題を捻り出してまで話し続ける。その努力の甲斐あってか、私たちの担任は学校中で名を知られている、もちろん芳しくない意味で。
ちょうど先生の頭上あたりに掛けられている時計を確認する。ホームルームが始まってから五分が経っていた。他のクラスが一分もしない間に終わるということを加味すると、これはもう倫理や道徳に反していると言っても過言ではないように思える。その二つの違いを私はよく知らないけれども。
実体を持たない私の衝動が、幾度となく席を立つ。肉体がそれに付いていきそうになるたび、私は必死に自分に言い聞かせる。ここで立ってしまったが最後、注意と言う名の針をダーツプレイヤーもかくやという鋭さで刺され、ホームルームの延長が余儀なくされてしまう。
私は机の下で手を組み、ただひたすら祈る。どうか、この漫談から面白味だけを綺麗に無駄なく切り取ったような先生の連絡が一秒でも早く終わりますように、と。
そんな私の祈りが通じたのか、それから十秒ほどで、先生はそれまで忙しなく動かしていた口を止めてから、「それでは、ホームルームを終わります」と言った。
それは私にとっての合図だった、徒競走で言うところのピストルの空砲だった。
クラスの中で一番最初に立ち上がり、リュックを背負って、出口へと向かう。我ながら無駄のない、積み重ねてきた回数によって洗練された動きだと思う。
ホームルームが終わってからの私の動きはアスリートみたいだ、とクラスメートから評判だ。実際、私のこれは一種の競技のようなものかもしれない。
「おー、急げハルー、あの子帰っちゃうぞ」
メイナがそんな言葉をかけてくる。私は手を振ってそれに応えてから廊下に出て、隣の一年七組の教室へと急ぐ。入り口から中の様子を覗き見ると、案の定、もう既に冬花の姿はなかった。
踵を返し、そのまま下足室へと走る。高校の先生は、小学校の先生よりも口うるさくはないけれども、それでも注意されること間違いなしの速さで走る。
下足室に着く。そこには、上靴から外靴へと履き替えている途中の冬花がいた。私はほっと胸を撫で下ろした。
「はぁ、はぁ、と、はぁ、かぁ、一緒にぃ、帰ろう」
「・・・・・・いいけど、そんな速さで走ったら危ないよ、鈴鳴」
「だって、冬花が先に行っちゃうから」
「まあ、一緒に帰る約束してなかったし。今度から約束すればいい」
「約束してなくてもさあ、ほとんど毎日一緒に帰ってるんだから、待っててくれたっていいじゃーん」
「鈴鳴の担任ホームルーム長いじゃん、待ちたくない」
「それは、その」正確な指摘が飛んできて、思わず口ごもる。そうこうしている間に、冬花が靴を履き替えた。彼女はどこかマイペースなところがあるから、そのまま勝手に帰ってしまうんじゃないかと心配になり、慌てて私も靴を履き替える。六組と七組の靴箱は向かい合う形で立っているから、冬花を監視しつつ靴を履き替えることができる。
「なに、そんな見つめて」
冬花が首を傾げた。彼女がそうすると、黒く長く艶のある髪がほどけるように揺れる。彼女のその様に、私の心は必要以上に揺さぶられる。頬がほんのりと熱くなる。
靴を履き、「準備完了っす」と冬花に告げると、彼女は何も言わずただ頷いて、出口へと歩き出した。早歩きで追いつき、彼女の隣に立つ。
私と身長が一センチも違わないであろう冬花の横顔は、彼女の隣に立てば見放題だ。まじまじと眺め続けると不審がられるし、もしかすると嫌がられるから、盗み見する程度にとどめておくけれども。
「ふ、冬花は冷たいなぁ、全然待ってくれないんだもんなぁ」
「別に、一人で帰るのも嫌いじゃないし」
「え」
冬花の言葉に、心が凍り付いた。血の気が引いて、体の奥底から冷たくなっていくのがわかった。
「あ、いや、だからといって、鈴鳴と帰るのが嫌って訳じゃないけど」
「おぁ・・・・・・ああ~、言わなくてもわかってるって」
動揺を悟られないように、私は敢えて軽口を叩いてみせたけれども、冬花が慌てて「私と帰るのが好きだ」と言ってくれたことに対する喜びの分を隠し切ることができず、声音が跳ねているのが自分でもわかった。
「ねぇ~、クレープ食べに行こ」
喜びの波に乗って、そう提案してみる。駅の近くにあるクレープ屋さんなら、帰り道から十分ほどの距離にある。出不精を自称する冬花でも、その程度の距離なら付き合ってくれるだろうという計算が頭の片隅にあった。
前を向く冬花の視線が曖昧になった。たぶん、クレープ屋さんに行くまでにかかる労力と、その先で待っているクレープの心地よい甘味とを天秤に乗せて比べているんだろうな。
「わぁ~・・・・・・かった、よし、行こう」
「やた」
私は跳ねた。
お待たせいたしました、と声をかけられて、笑顔の店員さんが私にクレープを手渡してくれた。受け取ると、ずっしりとした確かなボリュームが伝わってくる。
生地を焼く甘い香りが絶えず私の鼻を刺激する。お互いに引き立て合う生クリームの柔らかな白色とチョコレートソースのしっとりとした黒色、それらとは全く独立して輝くイチゴの赤色が視覚的に華やかだ。空腹から生じるものとはまた別の食欲がわいてくる。
厳かにその欲求を制し、先にクレープを受け取っていた冬花の方へと歩いていく。彼女は私に背を向けて立っている。「お待たせ」と声をかけると、彼女は肩越しに振り返って私を見た。彼女の口の端には生クリームが付いていて、手には食べられた痕跡のあるクレープがあった。
「ええっ!?」
あまりのことに、思わず声をあげてしまう。驚いた冬花の肩が跳ねて、あわやクレープを落としそうになっていた。
「な、なに、どした鈴鳴」
目を大きく見開いた冬花が、恐る恐るといった様子で言う。
「いや写真、写真撮りたかったって」
「写真?」
「クレープ食べる前には写真撮るでしょ、ふつう」
「そんな普通ある?」
冬花が疑いの目を向けてくる。推理物の登場人物が被疑者に向けるような、そんな視線だった。
「いやていうか、冬花と一緒に撮りたかったんだ、純粋に」
「そ、そう、それは、申し訳なかった」
冬花は照れと罪悪感が絶妙な配分で入り混じったような表情を浮かべた。あまりお目にかかれない、希少な表情だった。得した気分だった。
「まあ食べかけでもいっか、ほい、撮ろー」
冬花から罪悪感だけを取り除くために、努めて声音を明るく言う。それに事実、食べかけでも構わなかった。大事なのは、冬花とのツーショットを手に入れるというその一点なのだから。
「冬花、こっち来てこっち」
スマホを取り出してかざす。冬花は思いのほか素直に私の隣にやって来て、画面に映る私たちを見ては立ち位置を調整し始めた。
帰り道で隣を歩いていた時と比べても、冬花が格段に近い。彼女の爽やかな香りが感じられて、不必要なまでに胸の鼓動が速まった。体温が上昇するように感じられた。
「あ、あ、わかった。冬花、クレープ口元持って行って」
言われた通りに冬花がクレープを口元に持っていくと、画面に映る彼女もそれに合わせて動いた。すると、私が予想していた通り、食べかけのクレープがかえって可愛さを演出するように働いていた。
親指でボタンを押す。軽快な音が鳴り、一瞬だけ画面が静止して、私たち二人を収めた写真が保存された。
待ち受けにしよう、と心の中で呟く。自然に頬が緩む。
「もう食べていいでしょ?」
写真が保存されたのを確認してから、冬花が言った。容姿からしてクールな印象のある彼女は、意外にも甘いものに目がない。私が頷いて見せるのとほとんど同時に、彼女は再びクレープに口を付けた。
「写真いるでしょ? 送っとくね」
「いや、別にいいよ」
クレープから口を離した冬花が、間髪入れずにそう言って、またクレープを齧り始めた。彼女のその素っ気ない言い方が、私の心を悪い方に揺さぶった。
「え、えー、でもせっかく撮ったんだしぃ」
「私、あんまり写真とか見直さないし」
「そ、そっか」
彼女の言葉に、右手に手つかずのクレープを、左手にスマホを持ったまま固まってしまう。さっきまでの笑顔が凍り付いて、感情だけが暗く変化していく。
「食べないの?」
そんな私の様子を不思議に思ったのか、冬花が私のクレープを指さして言った。私の内なる変化には到底気づきそうにない。気づかれても困るけれども。
これ以上不審がられないためにも、クレープを一口食べる。どういうわけか、生クリームの甘味が感じられず、イチゴの酸味だけが特別強く感じられた。
私が眠る前にベッドの上で考えることは、大抵冬花のことで、その日も彼女のことについて考えていた。
部屋の明かりを消した真っ暗闇の中にいると、視覚の働きが制限されている分、頭の働きが向上しているような気がする。
今日の担任の話は長かったな、でも冬花に追いつくことができてよかったな、私と帰るのが好きと言ってくれて嬉しかったな、我慢できずに先にクレープを食べちゃったのは可愛かったな、ツーショットを撮れて幸いだったな。
その写真に興味を持ってくれなかったのは、悲しかったな。
そんな暗い感情が呼び水になって、様々なことに思考の手が伸び始める。それは例えば、冬花がホームルームの終わりを待ってくれなかったり、冬花がいつまで経っても私のことを名字で呼ぶことについてだったりする。
価値観は人それぞれで、何を大事にするかは十人十色だけれども、それでも、もやもやとしてしまう。
冬花は私のことをどう思っているんだろう。少なくとも、友達と認識してくれているとは思うけれども、やっぱりそこで止まってしまっているんだろうか。
漫画なんかで使われるような、簡単な人物相関図を想像してみる。その図の上には『私』と『冬花』がいて、『私』から『冬花』へと伸びる矢印は大きく、『冬花』から『私』へと伸びる矢印は小さい。
その想像はやるせなくて、しかし確かな説得力を持っていた。体が重くなって、柔らかいマットレスに、どこまでも沈んでいくような気がした。
そしてそのまま、私は眠りに落ちた。
入学式の日、私は遅刻した。
父は単身赴任中で、高校へは私一人で行くことになっていた。そして間の抜けたことに道に迷ってしまい、充電し忘れていたせいでスマホは使えず、手首に巻き付けた腕時計の針だけがじりじりと進み、集合時間を過ぎてしまった時は、もう家に帰りたくなっていた。
通りかかる人に道を尋ねて、何とか高校にたどり着いたときには、既に集合時間を三十分も過ぎていて、自分の情けなさへの怒りや、中学から高校への環境の変化などの色々なことへの不安も相まって、涙で視界が滲んだ。
静かな下足室に入ると、私はどこへ行けばいいんだろう、という疑問が生まれた。合格通知とともに配られたプリントには、まず教室に集合し、そのあと体育館に移動するという流れが書いてあった。しかし集合時間から三十分も経っていることを考慮すると、もう皆体育館に移動してしまっているかもしれない。
嫌な想像が脳裏を巡る。たった一人の遅刻者のために教室で待機させられる生徒たち。扉を開けて、そこにおずおずと入っていく私。あるいは、体育館の壇上で校長先生が話をしているところに、そろりそろりと背中を丸めて歩き、自分が座るべき場所を必死に探す私。いずれにしても、周囲からの冷ややかな視線が突き刺さってくる。
思わずその場に蹲ってしまう。とうとう我慢できなくなって、涙が落ちて膝を濡らした。
「もしかして、君も遅刻?」
そんな時、私の背中にそんな声がかけられた。涙を制服の袖で拭って振り返ると、そこには私と同じ制服の女の子が立っていた。
「あれ、泣いてる?」
「あ、あの・・・・・・」
「ハンカチ使う? 今日はまだ使ってないから綺麗だけど」
そう言いながら彼女は近づいてきて、膝を折ってしゃがみ目線を私に合わせると、ポケットから取り出したハンカチで私の涙を拭い始めた。
「いやあでも、ラッキぃ~・・・・・・って言ったら悪いか、ごめん。私も遅刻、仲間が見つかってちょっと安心みたいな、そんな感じ」
一つも焦る仕草を見せずに、彼女は淡々と涙を拭い続ける。目元のくすぐったい感触も忘れて、私は彼女の顔を見つめ続ける。
数十秒して、彼女は私の目を吟味するみたいに見て、「よし」と呟くとハンカチをポケットに仕舞った。
「入学式で泣くって珍しいね、泣くなら卒業式じゃない? まあどっちでもいいか」
すっくと彼女は立ちあがると、手に持っていた上靴に履き替えた。「どこに入れればいいか忘れちゃった」と言って、残った外靴を隅の方へと寄せた。
私は呆然とその様子を眺めていた。そんな私を見て、彼女は不思議そうに首を傾げて「一緒に行かないの? そうしてくれたら嬉しいんだけど」と言った。「まあ、一人で行くのも嫌じゃないんだけど」
目が覚める。上体を起こしてカーテンを開けると、眩しい朝日が光に慣れない私の目を刺して、じんわりとした痛みが広がった。
懐かしい光景を夢で見ていた。
私にとってはとても忘れられる出来事ではないけれども、彼女にとっては、昨日撮った写真みたいに、取るに足らないことなんだろうな。
そう思うと、もう一度布団の中に潜って、夢の中に戻りたくなった。
いつも通りの長さのホームルームが終わる。私もいつも通り教室を出て、隣の七組に向かう。
負けないぞ、と私は自らを鼓舞する。
冬花が私のことを単なる友達の一人としか見ていなくたって、それは『今』のことであって、これからも一緒にい続ければ、そのうちきっと変わる。私が冬花を特別に思うように、彼女が私を特別に思ってくれるな、そんな日が来てくれるはずだ。
それがいつになるのかは、分からないけれども。
七組の教室に着く。半ば諦めつつ中を覗く。
「え?」
思わず声が出る。
冬花がいた。
ほとんどの生徒が帰って、静かになった教室の中に、冬花が席に座っていた。
いないはずの冬花が、実際にはそこにいた。何が起きているのか、すぐには理解できなかった。
「あ、鈴鳴」
冬花は私の声に反応して振り向き、立ち上がって鞄を肩に掛けた。
「帰ろっか」
冬花が私の隣を通って、教室を出ていく。はっと我に返り、慌てて彼女の隣を歩く。依然として頭の中は混乱し続けている。
「ふ、冬花、どうして先に帰ってなかったの?」
「帰ってた方がよかった?」
「いや、そういうわけじゃなくて・・・・・・」
「冗談」
ふふふ、と冬花は笑って、それからしばらく黙々と歩いた。彼女の意図が掴めず、私はある種の緊張感を覚えた。
冬花が再び口を開いたのは、下足室に着いてからのことだった。
「明日からは、私から約束するよ」
「え、な、なにが?」
靴を履き替えている途中、不意に冬花が言った。文脈もなく唐突だったから、私には彼女の言葉の意味がわからなかった。
「帰る約束、鈴鳴と一緒に」
冬花は自身を指さしてから、私にも人差し指の先を向けた。
彼女の言葉があまりにも予想外だったから、私は外靴に足を入れる途中で固まってしまった。
「え、ええと、あの、ホームルームが終わるのを待ってくれるってこと?」
恐る恐る訊いてみると、冬花は黙って頷いた。
混雑していた頭の中の全てのものが吹き飛んで、筆が入る前のキャンバスみたいに真っ白になった。その後から、喜びの色で染まった。
その直後、疑問が私の頭をもたげた。
「だったらそんな、わざわざ約束なんかしなくたって」
「いや、約束は大事だ」
浮かんだ疑問をそのまま口にすると、即座に冬花の否定の声が入った。その声音が鋭く、驚いて冬花を見ると、彼女は俯いていて、表情を窺うことはできなかった。
「その、約束してないと、なんというか、辻褄が合わないというか」
「ツジツマ?」
「だからぁ、その、今までそそくさと帰ってた奴が、いきなり、何も約束してないのに、鈴鳴が来るのを待ってたら、変じゃん。どんだけ一緒に帰りたいんだよ、ってなるじゃん」
冬花が顔を上げた。彼女は怒ったような、照れたような表情を浮かべていた。
「だから、約束は大事だ」
彼女はそう締めくくった。
ふっと、体の力が抜けていくような感覚があった。その場にへたり込みそうになるのを、ロッカーに手をついて耐える。
思い返せば、昨日も、それよりも前からも、冬花は『約束』することに拘るような素振りをみせていた。
私と同じように、冬花もまた、一緒に帰ることを望んでいた。
誰かの力無い笑い声が下足室に響いた。それは私の笑い声だった。自分ですら気づくのに遅れるほど、無意識に出ていた笑い声だった。
「あ、笑った、傷付くって流石に」
「あ、違うよ、そんなんじゃなくて」
むっと頬を膨らませる冬花を宥める。
私が笑ったのは、彼女のその意地らしさを可笑しく思ったわけじゃない。だからといって、何に笑ったのかは、私自身もわからない。ただ何となく、安心して、ふと出てしまったような、そんな風だった。
「・・・・・・まあ、何でもいいか。ほら鈴鳴、早く靴履いてよ、行くよ」
私を急かすように、冬花は出口へと歩いていく。足を靴に押し込んで、彼女を追う。
「鈴鳴、クレープ食べに行こう」
追いついた私を確認してから、冬花はそう提案した。えっ、と驚く私の言葉を先んじるように、彼女は続きを口にした。
「写真、撮り直そう。昨日のやつは、私が食い意地張ってるみたいで恥ずかしいし」
「・・・・・・そうだね、行こっ」
私は冬花の隣を歩く。冬花が私の隣にいる。
私の足取りは羽のように軽かった。




