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彼女たち  作者: 城ヶ崎
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悪魔の習性(下)


 ふじさきの尾行を終えた私は、悪魔の世界に戻った。

 悪魔の世界に光は少なく、人間の世界の明るさにすっかり慣れてしまった私の目が、こちらの世界での感覚を取り戻すのに苦労したが、ややもすると元に戻った。

 「読書家」と誰かが私を呼んだ。声のした方を振り向くと、『料理長』が髪を振り乱しながらこちらに走ってくるのが見えた。その表情には期待の色が含まれていた。

 「料理長、ただいま」という私の言葉をまるきり無視して「読書家、私の弁当はどうだった?」と訊いてきた。人間に成りすますために使った弁当を用意してくれたのは、他でもない彼女である。

 「なかなか美味かったぞ」

 そう言って三段積みの弁当箱を返すと「おお!」と料理長が細い雄叫びを上げた。「そうだろうそうだろう、私の料理の腕は確かだったろう!」

 料理長は弁当箱を片手で振り回しては「軽い軽い、全部食べたな、がはは!」と笑った。私の趣味が読書であるように、彼女の趣味は料理である。人間の世界に遊びに行く悪魔に「人間の振りをするなら欠かせんだろう」と言って、自分が作った弁当を押し付けるようにして持たせたりする。帰ってきた悪魔からの「美味かった」という感想を聞いては狂喜乱舞する。

 しばらく料理長のその様子を眺めていると、不意に「読書家は、明日も人間の世界に行くのか?」と彼女が尋ねてきた。

 頷いてみせると「じゃあ明日も弁当作ってやる」と胸を張った。すっかり気分を良くしている。いかにも悪魔らしい女である。

 「今度の人間は手ごわい。もしかすると、しばらく世話になるかもしれない」

 「おうおう、何百年分でも作ってやる。しかし珍しいな、読書家が苦労するとは」

 「珍しいのは人間の方だ。見た目はいかにも弱いくせに、私の嫌がらせにはびくともしない」

 ははあ、と、これといって興味が無さそうに、料理長が相づちを打った。

 「ならば、嫌がらせをもっと複雑にしてみろ」

 そう口を挟んできたのは『数学家』だった。いつの間にか、彼は私たちのすぐそばにやって来ていた。

 「複雑に?」と私がオウム返しすると、彼は黙って頷いた。

 数学家は私よりも頭がいい。だから、彼の助言には耳を貸す価値がある。私と料理長は、次なる彼の言葉を待った。

 「お前たちは、ピタゴラスイッチを知っているか?」

 数学家が厳かに言った。二人して首を横に振ると「人間が作った物の一つでな」と彼が説明を始めた。

 「そのピタゴラスイッチというのは、簡潔に言ってしまえば、球を転がして、その球にスイッチを押させるというものだ。それだけなら退屈でつまらん。だがな、その『球を転がす』のと『スイッチを押す』の間に、常軌を逸した、複雑な仕掛けの数々が挟まれているんだ。すると不思議なことに、ぐっとおもしろくなる」

 数学家が淡々と語った内容に、私は首を捻らざるを得なかった。いくら工夫を凝らしたところで、球を転がすことが面白くなるとはとても思えなかった。

 「俺は、嫌がらせも同じだと思う。一手間、二手間と加えることで、威力が上がるはずだ」

 隣に立つ料理長が「ううん」と疑問の声を上げた。「数学家の言うことは難しくてよくわからんな。弁当食うか?」

 「また今度な、今はいらん」

 完全に納得できたとは到底言えないが、数学家の言うことにも一理あるように思えてきた。確かに、今までの私は、何かしらの呪いをかけるだけで満足していた。呪いという便利な武器に頼りすぎていたように思える。

 バケツから靴を拾い上げた時の、ふじさきの表情が不意に思い出された。強がって、それでも涙を流したあの表情を。

 ふじさきの表情をあのようにさせた人間がいる。

 悪魔である私が、人間に後れを取ったままでいることは、断じて許されない。使えるものは何でも使っておく必要がある。

 ピタゴラスイッチ作戦、やってみるか。

 私は決意した。






 翌日、私は一切のじゅぎょうを無視して、ふじさきの観察に努めた。奴の弱点は何なのか、工夫を凝らせる点はどこにあるのか、それらを見出すべく、片時も目を離すことなく奴を眺めた。

 そうしていると、ふと、あることに気づいた。

 「なんだそのシャーペン」

 無意識に声に出ていた。黒板へと向けていたふじさきの目が、そうっと私の方に移った。

 「これのこと?」と、ふじさきが右手に持っていたシャーペンを控えめに掲げた。それは薄いピンク色を基調としていて、やけに目玉を強調したウサギのようなキャラクターがプリントされている、奇妙な見た目のものだった。端的に言って、悪趣味である。

 「これ、私が好きなキャラクターのやつで、今は、手に入れるのが難しいんだよ」とふじさきが自慢げな声音で説明した。「そこ、静かに」と、せんせいによる鋭い注意が入った。ふじさきは肩をびくりと跳ねさせてから「ごめんね」と申し訳なさそうな、私好みの表情を浮かべた。

 頭の奥底で、何かが光ったような気がした。それは閃きに間違いなかったが、あまりにも一瞬の輝きだったために、その輪郭を把握することができなかった。

 しかし、確かにあった。今のやり取りの中に、数学家の言うピタゴラスイッチのような、工夫の余地があった。







 結局、その日はこれといった名案が思い浮かばないまま、全てのじゅぎょうが終了してしまった。

 ふじさきはまたもや、用事がある、と言って教室を出ていった。床に潜り、後をつける。

 昨日を再現するように、ふじさきは全く同じ道順で校内を練り歩く。靴を隠されるのは毎日の事なんだろうか、なんてことを考えながら、足元をついていく。

 「藤崎さーん」

 数分と経ったところで、未だ靴を見つけられないでいるふじさきに、二人組の女が声をかけた。にたにたと、いやらしい笑みを貼り付けた人間だった。そこに悪意があるのは明らかだった。

 「何か探し物ぉ?」と短髪気味の女が言った。それに相槌を打つように、もう一人の女が「私たちも手伝おうかぁ?」と言った。

 ふじさきの靴を隠したのが誰なのかは、言うまでも無かった。

 ふじさきは目を伏せて床に視線を注ぎ、嵐が通り過ぎるのを耐えて待つように、身を縮ませている。怯えきった様子のふじさきと目が合う。その顔は滑稽極まりなかったが、私は喜ぶことができなかった。それどころか、こんな醜い人間に後れを取っているのかと思うと、怒りがふつふつと沸き上がってきた。

 いや、と私は怒りを鎮める。

 ここで、この二人の女を痛めつけるのは簡単だ。しかし、それでは意味が無い。ふじさきに対する嫌がらせで上回らなければ、この雪辱は果たせない。

 女たちは一分か二分ほど、にたにたと笑い、お互いに耳打ちをしあったりしていた。そのあいだ、ふじさきは一度も顔を上げなかった。額に汗が浮かんでいるのが見えた。

 女たちが去っていったいくと、ふじさきはその場にしゃがみこんで、膝と膝の間に顔を埋めた。はあ、と大きなため息を漏らした。

 唐突に、私の頭に妙案が舞い降りた。それはあまりにも急だったから、全体像を上手く捉えることができない。

 あの二人組の女のことも、屈辱も頭の中から追い出して、その案の把握に努める。

 答えは、思いのほかあっさりと導かれた。







 翌日、いつものようにふじさきを観察していると、あることに気づいた。お昼休みが終わった、五つ目の授業中の事だった。

 昨日、あんなに自慢げに見せびらかしていた悪趣味なシャーペンがふじさきの手に無い。代わりに、これといった特徴のないものが握られている。少なくとも、一つ目のじゅぎょうでは使っていたから、家に忘れてきたということはないだろう。

 それに、奴の様子もおかしい。黒板の文字を書きとりつつも、筆箱の中を頻繁に確認したり、頻りに足元を確認したり、机の横に掛けている鞄の中を探ったりしている。瞳が揺れて、今にも崩壊しそうである。

 奴の挙動不審の理由は、何となく察しがついた。おおかた、あのお気に入りシャーペンを紛失したのだろう。

 どんくさい奴だ、と私は嬉しくなった。







 六つ目の授業が終わり、ほうかごに突入する。無駄と知りつつも、「一緒に帰ろう」とふじさきに声をかけると、案の定、奴は謝罪の意を顔で表現して「ごめんなさい、今日も用事が・・・・・・」と頭を下げた。「毎日誘ってくれてるのに、ごめんなさい」

 その返答は、私のピタゴラスイッチに織り込み済みだった。

 「じゃあ、また明日な」と教室を後にする。教室を出る際、控えめに手を振るふじさきの姿が視界の端に入った。

 廊下にはまだ人気がない。床に潜り込み、壁を伝い、内部から校舎の上へと向かう。屋上に出るのはすぐだった。

 屋上は普段閉鎖されているらしく、人が出入りしたという形跡すら見受けられない。強い風が吹きすさび、何かが揺れる音が聞こえるばかりだった。寂しい雰囲気だった。

 コンクリートの上に寝転がると、眼前に青々とした空が広がった。

 目を瞑り、耳に意識を集中させる。すると、校舎のあちこちで交わされる会話が聞こえてくるようになる。男の声や女の声、太い声や細い声、低い声や高い声、様々な声が殺到して、耳元で混雑している。

 この中に、靴を探し求めて校内を徘徊するふじさきの足音が混じっているのかと思うと、不思議な感じがした。




 二十分ほどすると、校舎内から聞こえてくる会話の音が少なくなり、代わりに、グラウンドからの音が多くなる。雑音が減り純度が増すと、聞き覚えのある声が耳に入ってくる。昨日の、あの二人組の声が。

 そろそろ、頃合いだな。

 起き上がり、背中に付いた埃を払って、再び床に潜り込む。耳障りな声のする方向へと進む。

 声が徐々に近くなっていき、やがて私は校舎の内部を抜けて、一つの部屋に降り立った。

 「ぎゃあっ」という女の悲鳴が上がった。見ると、昨日の二人の女が、驚愕を滲ませて私を眺めていた。部屋の中に、他に人間の姿は無かった。

 「誰?」「どこから?」「て、天井?」「どういうこと?」

 女たちが交互に言葉を発した。あらかじめ役割分担でもしていたみたいに、息が合っていた。

 「ふじさきの靴はどこだ、さっさと教えろ」

 私がそう言うと、奴らは一斉に口を噤んで、あからさまに警戒心を含ませた視線を投げかけてきた。

 「・・・・・・なんのこと?」「藤崎さんの靴がどうしたの?」

 「とぼけるな面倒くさい。私は千里眼が使えないから、物を探すのが苦手なんだ。だから、教えろ」

 先ほどまで固くなっていた女たちの表情が緩み始めた。昨日、ふじさきに向けていたような、いやらしいにやけ面に変わっていく。

 「なになに、あんた、藤崎の友達? もしかして、あいつに泣きつかれちゃった?」「止めといたほうがいいよー、藤崎の友達なんて、良いことないって」「そーそー、あんたもいじめられるよ、どこかの誰かさんに」「物が無くなったりするかも。靴とか、シャーペンとか」

 二人が顔を見合わせて、甲高く笑った。よくよく見てみると、片一方の女の手に、ふじさきの、あの奇妙なシャーペンがあった。

 こいつらは、人間でなく、悪魔に生まれるべきだったな。

 私は思った。

 右手で手刀を作り、傍にあった机の天板にそれを叩きこむ。乾いた音が部屋の隅にまで鳴り響き、机が真ん中から真っ二つに割れて、床に倒れ落ちた。

 女たちは目を丸くして、机の残骸に釘付けになっている。

 「ぎゃははは! すごいだろう、私の手刀は刃物よりも切れ味がいいんだ!」

 自慢してみせても、女たちは凍り付いたように固まったままだった。

 なんだ、私には言葉を重ねてくれないのか。それもそうか。

 二人の方に足を進めると、奴らの体が震えた。その様は小動物めいていた。

 女たちのすぐ目の前で立ち止まり、細く白い首に手刀をあてがう。女の瞳が揺れている。目尻に涙が溜まっているのが見えた。

 それが呼び水となり、二日前のふじさきの涙が連想された。私はにわかにワクワクした。これから、ふじさきが私の手によって涙を流すことになるのかと思うと、胸が躍った。

 「今すぐ、教えろ」

 女が小刻みに首を縦に振った。






 校舎内に人は少なく、耳をすませば、足音なんて数えるほどしか入ってこない。その中でも絶え間なく続いている足音は、今なお靴を捜し歩くふじさきのものだ。

 見つけるのは、この上なく容易い。

 「おい、ふじさき」

 ふじさきの小さな背中に声をかけると、ふじさきは弾かれたような勢いで振り返り、私を認めると「え、アクさん?」と素っ頓狂な声を上げた。「どうして?」

 「私と帰るぞ、ほら、さっさと来い」

 ふじさきの手を握り、引っ張る。小さく柔らかい手だった。

 「えっ」とか「あの」だとか「ちょっと」という意味をなさない言葉を、ふじさきは口早に、流れるように発し続けている。床に足を突っ張って抵抗を試みようとしているが、悪魔である私に腕力で勝てる人間はいない。

 「あの、アクさん。私、用事があるんです。だから、あの、聞いてますか?」

 ふじさきの言葉に一切耳を傾けず、黙々と歩き続ける。しばらくそうしていると、ふじさきも観念したように押し黙った。

 下足室に着いた。手を離して「履き替えろ」とふじさきに言うと、奴はその場でもじもじとして、動こうとする様子を中々見せなかった。私も負けじとその場に留まってふじさきを眺め続けていると、とうとう、奴は自分の靴箱の方へと移動を始めた。

 ふじさきの後ろにぴったりと引っ付いて、後に続く。

 靴箱の前に立ったふじさきは、引手ひきてに手をかけた格好で、まるで石化の呪いにかけられたみたいに固まった。私はじれったい気分になった。

 「あの、アクさん」と、ふじさきが震えた声を出した。「実は私、いじめられ───」

 「いいから、早く開けろ」

 ふじさきの言葉を打ち消すように、私は催促した。

 急になにをごちゃごちゃ言い出すんだ、こいつは。

 ふじさきが深く呼吸するのが、奴の背中越しに聞こえてきた。こんな埃っぽいところで何をしているんだ、と思っていると、奴が意を決したように靴箱を開けた。

 「・・・・・・え?」

 静かな下足室に、ふじさきのか細い、呆気にとられた声が響いた。

 ふじさきの肩越しに、靴箱の中を確認する。そこには一組の靴があり、その上には、奇妙な見てくれをしたシャーペンが一本、置いてあった。

 「え、え? どうして・・・・・・」

 ふじさきは混乱を極めて、壊れたように、え、え、と繰り返し呟いている。我慢できなくなって「ぎゃははは!」と私が笑い声を響かせると、振り向いたふじさきと目が合った。奴の表情には困惑が満ちていた。実に私好みの表情だった。

 「ぎゃははははは! 馬鹿な奴め! お前が必死に探していた靴と大切なシャーペンは、実はお前の靴箱に入っていたんだ! お前よりも先に私が見つけて、入れておいたんだ! どうだ、がっかりしただろう! 学校中を歩き回ったのになあ! 残念だったなあ!」

 靴箱を見て、振り返っては私を見て、また振り返っては靴箱を見て、という動作をふじさきは繰り返し行っていた。頭の上にはてなマークが見えるようだった。

 大切な物が見つからず探し回る。しかし、実はすぐ近くにその探し物があったということが分かり、自分の苦労が徒労に終わったことを知る。その時に覚える感情は、悲しみだったり、悔しさに違いない。それが例えふじさきであろうと、そういった感情を抱かざるを得ないはずだ。

 私のピタゴラスイッチ的工夫は、そこにあった。

 「あの女ども、ぐははは! 靴の隠し場所を教えてくれるだけでなく、シャーペンまであっさりと明け渡してくれたわ! 臆病な人間だ! ぎゃははは!」

 最初、ふじさきは状況をうまく呑み込めず、呆けた顔をしていたけれども、みるみるうちにそれを歪ませていき、眉を八の字に曲げて、ぼろぼろと大粒の涙を流し始めた。

 その様があまりにもおかしくて嬉しくて喜ばしくて面白くて、私は脇腹が痛くなるまで笑い転げた。涙で床を濡らすふじさきのように、私の目にも涙が滲んできた。

 ついにやった! 私の策略で、ふじさきを泣かせてやった! しかも、あの女どものケチな嫌がらせよりも、よっぽど高度な方法で!

 私は今までに味わったことのない達成感に包まれていた。

 「あははは! ふじさき、もっと泣け! ぎゃははは!」

 私に言われるまでもなく、ふじさきは肩を上下させて、息を喉の部分で詰まらせて、涙を流している。服の袖でいくら拭っても、次から次へと、溢れ出ていた。

 やはり、人間の涙は良い。

 私は思った。







 いつまでもふじさきの涙を見続けていたかったが、それは決して叶うことのない夢で、五分もすると、ふじさきは泣き止んでしまった。

 以前、人間は体の半分以上が水でできていると耳にしたことがある。そんなに水を蓄えているのなら、もっと涙を流してくれてもいいように思う。

 「アクさん」と、震えた声でふじさきが言った。どんな恨み言が奴の口から飛び出るのだろう、と期待に胸が膨らんだが、どういうわけか、ふじさきは微笑みを浮かべていた。あの女どものようなものではなく、もっと純粋で、私が最も嫌いな類いの、そんな笑みだった。

 「ありがとう」

 ふじさきがそう呟いた。透き通った、綺麗な声だった。その言葉は私の耳にするりと入り込み、ゆっくりと、心の部分に染み込んできた。

 ざわりと、体が異常な反応を示した。胸が締め付けられるように窮屈になって、頭がぼうっと熱くなった。息が苦しくなった。

 これは、この感覚は、まずい。

 「や、やめろふじさき、私は感謝の言葉が大嫌いなんだ! その言葉を口にするな!」

 たまらず飛び起きて、耳を手で塞ぎながら私は叫ぶ。

 悪魔はみんな『感謝アレルギー』を患っている。私もその例に漏れず、さっきみたいに『ありがとう』だなんて言われたなら、体中が悲鳴を上げるようになっている。

 「なんなんだお前は! どうして私にお礼なんか言う! 頭がいかれているのか!」

 先ほどのふじさきの言葉を一刻も早く忘れたいのに、それは頭の中にこびりついてしまったようで、いくら叫んで気を紛らわせようとしても、とても取れそうになかった。

 不意に、柔らかい何かが私の身を包んだ。それはふじさきだった。奴は両腕を私の背中に回して、抱き着いてきたようだった。

 「本当に、ありがとう」

 耳元で、再びふじさきが『それ』を口にした。耳を塞いでいるのに、下足室が静かで、私の聴覚が優秀すぎるがゆえに、奴の『それ』が問答無用で耳に侵入してくる。

 立て続けに言われたことで、全身が危険信号を発しているのがわかる。もし次に『それ』を聞いたら、私の体は粉々に爆散するだろう。

 「また明日!」

 地面に潜り込み、ふじさきの腕をすり抜けて、奴の拘束から逃れる。急に私がいなくなったことで、ふじさきが前につんのめって「あれ、アクさん?」と疑問符を浮かべていた。

 私は急いでその場を離れて、学校を後にした。

 まさか人間に、それもふじさきなんかに殺されかけるとは、夢にも思わなかった。

 悪魔である私に、逆にいやがらせを仕掛けてくるとは、見かけによらず、中々豪胆な女だ。

 そう感心したものの、しかし、それはそれとして、やられっぱなしというのは気に入らない。私が一回ふじさきを泣かせたのに対して、奴は二回も感謝の言葉を私にぶつけてきた。

 どう考えても割に合わない。少なくとも、あと一回は泣かせなければ、私の気が収まらない。

 私は決意を新たにした。



 十分にふじさきから離れたところで、地面から出る。空を見上げると、依然として、鮮やかな青色がどこまでも続いていた。

 これから先、人間界にいる期間も、この空くらい長くなる。

 何となく、私はそう感じた。

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