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彼女たち  作者: 城ヶ崎
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なんでもない話

これまでの投稿作品を読み返してみたところ、「幼馴染」という関係性がかなりの頻度で見られることが発覚しました。呪われてるんでしょうか。


 海の潮が風に乗ってやってくる。道端に打ち捨てられている、以前は誰かに使われたいたはずの自転車のフレーム部分が赤茶色の錆に蝕まれている。

 まだ朝早い時間であることと、どんよりとした、黒々とした雲が空を満たしているせいで、辺りは薄暗い。道行く人影は一つも見当たらない。

 私は一人、学校へと向かう。隣にいてほしいあの人は、すでに学校にいる。

 




 学校はひっそりと静かだった。これは時間帯に関係なく、単純に生徒数がぎりぎり二桁しかいないせいで、朝でも昼でも放課後でも静かなのである。

 上靴に履き替えて校内に入る。二階にある普段の教室へは向かわず、一階の端にある美術教室へと歩を進める。

 美術教室に近づくにつれて、床や壁にある落書きの密度が濃くなっていく。赤色の絵の具で描かれたりんごが美味しそうに実り、青色絵の具の海にはトビウオのようの魚が所狭しと泳いでいる。

 誤って前に押したが最後、いともたやすく倒れてしまいそうな扉を横にスライドさせて、美術室に入る。

 中には一人の女子生徒がいた。

 コウだ。

 コウは背もたれが無い木製の椅子に座り、一本の筆を携えてキャンバスと向き合っている。私の立つ場所から彼女の凛とした横顔が見える。その横顔に、私はしばしのあいだ見惚れてしまう。集中力のすべてを絵に注いでいる彼女は、私の来訪になんて気づきもしない。

 美術室の壁に掛けられた時計は、私が入学したときにはもう既に壊れていた。だから、私がどれくらいの間そうしていたのかわからない。たったの十秒ほどかもしれないし、五分かもしれない。

 とにかく、私はコウの魅力から解放されて、我に返って「コウ、おはよう」と彼女に声をかけた。

 コウの反応は顕著だった。美術の世界にどっぷりと漬かっていた分、現実世界に引き戻されたときの反動が大きかったのか、びくっと肩を跳ねさせて、弾かれたように私の方へと振り向いて肩まで伸びている髪をカーテンさながら膨らませて、きりっとさせていた表情を緩めて「あ、おはよう、才子さいこちゃん」と言った。冬から急に春になったみたいな変わりようだった。

 教室内は絵の具の独特なにおいで満たされていた。それは芸術特有のにおいだった。

 手を控えめに振りながら、彼女の右斜め後ろへと歩く。

 「どうかな?」とコウが背中越しに訊いてくる。自分の作品の評価を私に尋ねているらしいけれども、残念ながら私は芸術に対する教養も審美眼も持ち合わせておらず、その上コウの作品ではなく彼女の背中を見て、制服の先にある背筋せすじに思いを馳せていたので、実のところ、彼女の作品は一瞬だって視界に入っていなかった。

 ちらりと、キャンバスに刻まれた、筆の軌跡を見る。黒に近い青色が広がっていて、左端から中心あたりにかけて何かが描かれている。なんとなく、それはクジラに見える。

 わずかな光しか届かない深海を泳ぐクジラの絵、それが、私の脳が弾き出した答えだった。

 その絵には不思議な魔力があるように思えた。平面であるはずの海には奥行きがあり、どこまでも広がっているように見えて、本能的な恐怖を刺激される。それとは対照的に、そこを悠々と漂うクジラは優しげで、安心感を覚える。

 「なんか、すごいね」思ったことを未加工のまま口にしてみると、我ながら稚拙なものだった。高校三年生とは思えない。なのにコウは「わあ、ありがとう」なんて喜んでいる。高校三年生とはとても思えない。

 風が窓を叩く。

 「もうすぐここともお別れなんだね」

 寂しげにコウがそう呟く。私は黙ってうなずく。

 私たち二人の卒業がすぐそこまで迫ってきている。

 卒業したら、私たちは人の少ないここから、人の多い所へと出ていく。

 私は都会の大学に進学する。

 コウは、美術の大学に進学する。

 嫌だな。

 私は思った。








 私たちが住んでいる所は俗にいう田舎で、人が少ないのはもちろんのこと、同年代なんて数えるほどもいない。娯楽施設だって当然ない。

 若者として、私はその環境を憂うべきなのかもしれないけれども、しかし私の毎日が満たされていた。

 なぜなら、私の隣にはコウがいたから。

 ほとんど必然的に、私とコウは小さい頃からいつも一緒だった。生徒数が少ないせいで、学校にはクラスという概念がなかったから、本当に、朝から放課後まで一緒にいた。

 私たちの周りには何もなく、それ故に、彼女の存在はこの上なく大きく、私の目に映った。他の何かに気を取られることもなかったから、私の意識の矢印はいつだって彼女に向いていたし、彼女の矢印も私の方ばかりに向いていたはずだ。

 コウのその矢印が二つに別れたのは、私たちが中学生になった頃だった。

 誰に言われるでもなく、コウはキャンバスを立てた、筆を握った、パレットに絵の具を垂らした。視界に入るすべてを書き、やがて自分だけの世界に行ってはそこで見た光景を現実世界に持って帰ってきて、それを描き始めた。そしてそのまま、芸術の領域に潜り込んでいった。そこはあまりにも深くて、私の肺活量ではとても彼女には届かなかった。

 私の世界にはコウしかいないのに、彼女の世界には私以外のものがある。そして、残念なことに、それは私よりも存在感を放っているらしかった。

 たったそれだけの、なんでもない話だ。







 冷たい風に吹かれながら、私とコウはマフラーに首を埋めて学校からの帰路についていた。

 受験を無事に終えた私とコウに授業はない。だから、コウがあの美術室で絵を描くことに満足するのが、下校のチャイム代わりだった。彼女がキャンバスと睨めっこしている間、私は彼女を眺めたり、本を読むついでに彼女をじっくりと鑑賞したり、勉強をするついでに彼女の動き、例えば、背をぐっと伸ばして体のこりをほぐしたりしているところを観察したりいていた。

 わざわざ学校に来ないで、家で描けばいいのに。

 以前、私がコウにそう言ったところ、彼女は「名残惜しいから」と答えた。

 三年間あの教室に入り浸っていた彼女にとって、そこは一番の思い出深い場所になっているんだろう。

 そのことに、ちょっと嫉妬している自分に気づく。気づいて、心の中で自嘲する。

 『場所』に嫉妬するだなんて、私もいよいよ末期だな。

 海沿いを歩いているせいか、季節による寒さとはまた別のものを感じては震える。頬が赤くなったコウは、風が横から吹きつけてくるたびに「おお~・・・・・・」と声を漏らしている。

 独特な寒がりかたも、昔からみていると自然なものとして認識される。

 「都会ってさ」

 「ん?」

 「都会って、どんなだろね」

 私がそう言うと、コウは上着で太くなった腕を組んで「ううん」と唸って目を閉じた。

 「まあ、ここよりは楽しいかも」と、二歩ほど進んだところで彼女は言った。「しかも私、国立で学費安いから、ちょっとだけ仕送り多くしてもらえるんだあ」と自慢げに胸を張った。

 コウのその様子は微笑ましくて可愛らしくて、つい口元が綻んでしまうけれども、それとは裏腹に、苦いものが、一杯の水にインクを垂らしたような広がり方で胸のうちを満たす。

 私たちの下宿先は、お互いの下宿先から遠くもなければ近くもない。頻繁に会える距離ではないけれども、会えない距離では決してない。

 問題はそこではなくて、コウが色々なことを知ってしまうことだ。たくさんの楽しい事、ここでは知ることができないような事を知ってしまうことだ。彼女の視野が広がってしまうことだ。狭かった彼女の世界が広がり、相対的に私の存在感が薄れてしまうことだ。

 たぶん、今のコウの一番は絵を描くことで、その後ろに私がいる。でも、コウが様々なことを知ってしまったら、それらは容易く順番を抜かしていって、私は列の後ろの方へと追いやられてしまうだろう。

 そうなってしまったら最後、もう二度と彼女の目に私は映らないように思えて仕方がない。

 海の方から一際強い風が吹いて、私たちの頬を撫でていった。コウの風が揺れて、不思議な声で呻いた。私の体が震えた。その震えは寒さによるものではないような気がした。

 






 その日の夜に私が見た夢は、まだ私とコウが中学生になったばかりの頃の事だった。同時に、彼女が絵を描くことに興味を持ち始めた頃の事でもある。

 学校が終わると、晩御飯の時間になるまで遊び続けるのが私たちの常だった。その日の私も例に漏れずコウと遊ぶ気でいて、「今日は何する?」と彼女の意見を求めていた。その光景を、現在の私は俯瞰している。

 「ごめん、才子ちゃん」とコウが両手を合わせた。「今日は、美術室で絵描く」

 そっか、と私は答えて、私とは別の方向に走っていく彼女の背中を見送っている。当時の、だんだんと小さくなっていくコウの背中を眺め続ける私は、どんな思いだっただろう。

 悲しんでいただろうか、悔しがっていただろうか、それとも、あまり深刻に考えていなかっただろうか。コウの絵描き趣味は一過性のものであると考えて、余裕の構えを取っていただろうか。

 もしそうだったとしたら、救いようがない。

 やがてコウの背中が見えなくなり、私は一人、家へと向かった。前を見ず、後ろを振り返らず、俯いて、足元ばかりを見つめながら、黙々と歩いている。

 今すぐ踵を返して追いかけろ、と私は彼女に向かって叫ぶ。走ってコウの肩を掴んで、あの憎き美術から彼女を取り返せ。

 でも実際には、それは起こらない。この夢は私の記憶を、まるで映画みたいに再生しているだけなんだから。

 フィルムに無いことは決して起きないし、後から付け加えることもできない。

 どうにもならないあやまちを、今更どうしようもない出来事を見せつけられるそれは、悪夢以外のなにものでもなかった。

 私はため息を吐いて、早く目覚めさせてくれ、と願った。

 異変が起きたのは、その時だった。

 遠くから、一人の女の子が、背中を丸めて歩いている私の方へ走ってきているのが見えた。

 その女の子は紛れもなくコウだった。

 呆然とそれを眺めている間に、コウは私に追いついて、肩を掴んで立ち止まらせた。まるで、私がさっき叫んだ内容が、間違ってコウに伝わってしまったみたいだった。

 急に肩を掴まれたことに驚いた私は、あたかもばね仕掛けのような勢いで振り返り「あれ、コウ?」と声をあげた。「どうしたの?」

 「やっぱり、遊ぼう」と、肩で息をしながらコウが言った。「絵は、また明日でいいや」

 私はしばしの間彼女のことを不思議そうに眺めてから、首を縦に振って「じゃあ、遊ぼ」と言った。

 これは私の妄想だろうか、と思う。都合よく改変された記憶、あるいは、夢であることをいいことに、全くの願望を、あたかも思い出の一ページであるかのように見せているのだろうか。

 それとも、本当にあったことだろうか。時間が流れ、負の感情が積もっていくにつれて埋もれてしまい忘れてしまった、美しい思い出なんだろうか。

 どっちでもいいな、と私は冷めた考えを持った。妄想でも実際にあったことでも、どっちにしたって、今の私は変わらないのだから。



 目を覚ますと、今日も今日とて曇りらしく、窓の外はぼんやりと暗かった。私の心まで曇るようだった。

 涙が頬を伝っていることに気づくのに、少しの時間が必要だった。

 







 美術室に入ると、いつもなら既に絵を描き始めているはずのコウが、まだ真っ白なキャンバスの前に姿勢正しく座って、目を瞑っていた。

 眠っているのではなく、精神統一をしているみたいだった。

 「おはよう」と私が声をかけると、彼女はおもむろに目を開けて「来たね、才子ちゃん」と言った。道場破りを迎え撃つ道場主のような、そういった厳かさがあった。

 どういうわけか、コウは私がやって来るのを待っていたらしかった。

 「絵、描いてないの?」と私が訊くと、彼女は少しだけ照れくさそうな表情を浮かべて「今日は、ちょっと考えがあってね」

 「今日は、才子ちゃんの似顔絵を描こうと思います」

 「え、私の?」

 聞き間違いでは、と確認の意味を込めて訊き返すと、コウは黙って頷いた。

 「大学生になったらさ、さすがに毎日は会えないでしょ?」とコウは事実確認をするみたいに言う。私が頷くのを見てから「そうだよねえ」と漏らした。

 「そのことと、私の似顔絵にどんな関係が?」

 私の言葉を受けて、コウは俯いて、すうっと息を吸った。

 「だから、その」と、次なる言葉を持ってくるのに苦労しているらしく、喉のあたりでつっかえさせていた。

 「才子ちゃんの似顔絵あったら、寂しくないかなあ、って」

 うふふ、とコウは言葉の後ろに照れ隠しの笑みを付け加えた。

 私の脳が彼女の言葉を理解するのに、その言葉を現実のものとして受け入れるのに、それなりの時間が必要だった。

 コウは、私と離れ離れになるのを、寂しく思っているらしかった。

 雲の切れ間から太陽が見えるような、そんな心持だった。

 我ながら、単純な精神構造をしているな、と笑ってしまう。それは心のうちに留めておこうと思っていたけれども、ついそれが表層化してしまって、ははは、と声が出た。

 「あ、笑わないでよう」とコウが頬を膨らませる。「寂しいんだから、仕方ないじゃない」

 「いや、違うよ」と私は手を振って弁解する。「それに笑ったんじゃなくて」

 「じゃあ何に笑ったの?」と疑いの目を向けてくるコウに、どう答えるべきか迷った。迷って、最終的に、何も答えず、キャンバスを挟んでコウと向かい合うようにして、椅子に座ることにした。

 「どうぞ」と私が言うと、「いいの?」とコウが目を輝かせる。頷いて肯定してみせると、「おっしゃあ」と鉛筆を手に取った。

 「美人に描いてね」

 「それなら簡単、だって見たまんま描けばいいんだから」

 頬が熱くなるのを感じた。






 似顔絵のモデルになったから、数十分と時間が経った。

 思い返せば、絵のモデルになったのは初めてのことだった。コウが絵を描き始めてからもう何年にもなるけれども、彼女は私の絵を描こうとは一度もしなかった。仮に「モデルになって」と頼まれたとしても、断っていた可能性が高い。

 だって、恥ずかしいし。

 できるだけ身動きをしないようにしながら、コウの様子を観察する。

 彼女はたっぷり一分ほど私のことを眺めてから、そこから猛然とキャンバスに鉛筆の先を叩きつける。それを何回も何回も繰り返している。

 私はあまり絵を描いたことがないからわからないけれども、絵が達者な人は、みんなそういう風に描くのだろうか。

 思えば、真正面からコウと向き合うのは、随分と久しぶりのことだった。

 普段はいつも頬をたるませて笑みを浮かべている彼女は、キャンバスに向き合うときに限り、抜身の刀のように鋭い表情を浮かべる。モデルとなっている私からは、その顔が良く見える。

 不意に、視界がぼやける。目に映る全てのもの、コウの輪郭だって曖昧になっていく。鼻の奥につんとした痛みが広がる。

 ぐっと堪える。せっかくの似顔絵を台無しにしてしまうわけにはいかないし、今のコウが纏う緊張感を霧散させてしまうわけにはいかない。

 でも結局、その我慢は長続きしなかった。

 表面張力の限界を超えて、水がコップから溢れ出るみたいに、大粒の涙が次から次へと頬を伝って、顎のあたりに溜まって、大きな塊になって床に落ちていく。

 「えっ」と、ちょうど私に視線を向けていたコウが声を上げた。「才子ちゃん、泣いてるの?」

 「いや、いや、大丈夫だから」と涙を拭いながら、私は首を振る。「気にしないで」

 私の言葉なんてまるで耳に届いていないのか、コウは見るからに取り乱して、手に持っていた鉛筆を落とした。いたずらの現場を親に見つかった子どもみたいだった。

 右往左往した末に「これでどうだ!」と、コウは自らの両の頬を両手で押し潰して、にらめっこでも中々しないような変顔、飼い主に可愛がられすぎた愛犬みたいな顔をしてみせた。

 沈黙が漂った。

 「どう?」とコウが言った。なにが、どう? なんだろうと思っていると「だめだね、うん」と冷静な声で彼女が言った。

 私の涙が止まったのは、そこからしばらくしてからのことだった。








 学校から出ると、空から雲が取り払われていた。肺に空気を取り込むと、胸の内がすうっと、晴れるようだった。

 「ほんとに、大丈夫?」と隣を歩くコウが訊いてくる。「なんか、悲しい事でもあったの?」

 「私も、ちょっと寂しくなったんだよ」と、ウソと本音を混ぜ合わせて答える。「コウと同じ」

 ふうん、とコウは前を見て歩き続ける。何事かを思案している様子だった。

 「一か月に一回くらいで会う?」と、今思いつきましたよ、という雰囲気を隠すことなく提案した。

 「二週間に一回でもいいよ」と私が言うと「じゃあ私は一週間に一回」「じゃあ三日に一回」「毎日にする?」

 行きつくところまでいって、私たちは顔を突き合わせると、どちらからともなく笑い声をあげた。海から吹き付けてくる潮風がその声を攫っていく。

 



 

 私の世界には、相変わらずコウしかいない。彼女の世界には私以外のもの、その代表として美術がある。大学に入れば、彼女の世界は今よりもずっと広くなって、もっと多くの物が置かれることになるだろう。

 それでも、私はそこにいる。

 たったそれだけの、なんでもない話だ。

 

 

 

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