離れられないのはあなたのせい
甘さ100%です。書いていてとても楽しかったです。
枕元の目覚まし時計が鳴る。最初は控えめに、数秒すると少し大胆に、そこからさらに数秒で耳の奥が痛くなるくらいの騒音をまき散らすようになる。
手を伸ばしてそれを阻止しようとしたところで、何かが私の体をがっしりと拘束しているために、それができないことに気づく。次いで、もう冬も間近に迫ってきている季節だというのに、自分の体が汗ばんでいることにも気がつく。
視界の下部分に、妹の菜穂の頭が見える。圧迫感を覚える。彼女は、私をぬいぐるみか抱き枕と勘違いしているのか、真正面から私に抱き着いたまま、規則的な寝息を立てて眠っている。
「菜穂、ねえ起きて、菜穂」
そう呼びかけると、菜穂は「ううん」と寝言のように、眠りから覚めてしまうのを拒絶するように唸った。
目覚まし時計の音が一段階大きくなる。
「菜穂」私は諦めることなく彼女に呼びかける。「起きないなら起きないで、せめて離れて、暑いし、動けないから」
私の言葉の何が切っ掛けになったのかは定かではないけれども、そこで菜穂が頭を上げて、私の顔を寝ぼけ眼に捉えた。
「あ、お姉ちゃんおはよー」
そう言って、菜穂は私の胸元に顔を埋めて、より強い力で私を抱き締めだした。苦しくなって、「ぐええ」と我ながら不気味な声が口から漏れ出てくる。
とうとう、目覚まし時計の音量が最大になる。
暑いし、耳はいじめられるし、胸が苦しいし。
起き抜けに味わうにしてはあまりにも膨大な苦痛の量に、私は思わずため息を吐いた。
「今日から、一緒のベッドで寝るのは止めよう」
ブルーベリーのジャムを塗りたくった食パンを齧りながら、私は言った。朝の、一家が揃った朝食の席でのことだった。
鋭い口調で「絶対に嫌だ」と妹の菜穂が返してくる。「止める意味がわからないよ」
「単純に暑苦しいし、それに」口の中の食パンを飲み込んでから、再び口を開く。「それに、菜穂は中学生でしょう? もう、私と一緒に寝るような歳じゃないよ」
私は努めて朗らかな声音で、まるで小さな子供をあやすような調子で菜穂にそう語り掛けたけれども、彼女にはそれがまるで通用せず、顔を悲し気に歪めて「でも、だってえ・・・・・・」と呟いている。
これはまずいぞ、と思ったときには遅かった。
それまで黙っていた母が「まあまあ」と口を挟んできて、父が「いいじゃないか、一緒に寝るくらい」と言った。お互いの言葉を補い合っているようだった。
菜穂はさっきまでの表情から一転、勝ち誇ったような笑みを浮かべて「ほらほら、お父さんもお母さんも言ってるよ、お姉ちゃん」と言った。
いつものパターンだ、と私はため息を吐く。
私と菜穂の姉妹仲が良いことを至上の喜びとしている両親は、基本的に菜穂の肩を持つ。その理由は簡単で、彼女の意見はいつも、ちょっと、いやかなり、精神的にも物理的にも、かなり密接なものだからだ。両親は、彼女を擁護することこそが、私たちの姉妹仲をより良いものにすると信じて疑わないのだ。
食パンの耳を口に放り込み、ほとんど半分の割合のコーヒー牛乳で流し込む。
テレビは朝のニュースを映している。画面左上に表示されている現在時刻を見てみると、あと二十分ほど、家を出るまで時間までに余裕があった。
説得は失敗に終わり、手持無沙汰になった私は、つい昨日のことを思い出していた。
実は、高校一年生である私と中学一年生である菜穂が一緒のベッドで寝る、という行為が一般的でないと知ったのは、その日だった。
どういう経緯でその話題になったのかは覚えていないけれども、とにかく、私はその日、友人である松倉と、各々の妹について話していた。
彼女には小学五年生の妹がいるらしく、最近になって反抗期に入ったようで、しきりにそのことについて愚痴のようなものをこぼしていた。
そっちの妹ちゃんはどうなの、と一通りしゃべり倒した彼女が訊いてきた。
「仲はいいと思う」と私は素直に答えた。「毎日、一緒のベッドで寝てるし」
ええっ、と松倉が驚きの声を上げる。あまりの音量に、私の肩が跳ね上がった。
「妹さん、中一だったよね?」
「まあ、そうだけど」
「それ、もう仲いいってレベルじゃないよ、すっげえね」
「そうかな?」
うんうん、と松倉が激しく頷く。
そんな彼女の様子に、私はなんだかもやもやとしたものを覚えた。胸の内で雨雲が発生したかのような、そんな気分だった。少なくとも、いい気分ではなかった。
止めさせてみるか。
ふと、そう考えた。
確かに、松倉の言う通り、中学一年生の菜穂がいまだに一緒に寝るようせがんでくるのは、ちょっと変な気がする。これを機に、姉離れをさせてみるのも一つの手に思える。そうすれば、私のもやもやも晴れる気がする。
どうだろう、と私は天井を仰ぎ見る。上手くいくかな、菜穂は納得してくれるかな。
この前、やっと一緒にお風呂に入るのを止めさせたばかりだけれども。
そして明くる日の朝、私は菜穂に説得を試みたけれども、結果は、まあ、そういうことなのだった。
学校から帰った私は、リビングのソファにだらしなく横たわり、テレビ番組を眺めていた。しかし意識は画面に向けられておらず、キッチンの方から漂ってくる晩御飯の匂いや、聞こえてくる何かを炒める音だったり、何かを包丁で切る音だったりに向けられていた。
不意に、玄関の扉が開けられる音がした。時計を確認すると、時刻が十八時であることを示していた。
廊下を駆け抜ける足音が近づいてくる。そのすぐ後に「ただいまお姉ちゃんっ」と、カラオケボックスでさえ出さないような大声で菜穂が言い、私めがけて飛び込んできた。回避行動をとる暇もなく、直撃する。
「げえっ」と、間抜けなカエルみたいな声が出る。
菜穂が小さな幼稚園児なら、こういったスキンシップも可愛らしいものとして、笑って受け入れることができるけれども、今の彼女は十三歳の中学一年生で、体重だってそれなりにある。可愛らしくはあるものの、痛みが尋常ではない。笑ってはいられない。
「疲れたあ、今日も部活疲れたよお姉ちゃん」
「ああ、そう、じゃあお姉ちゃんがソファからどいてあげるから、降りて」
「このままでいいよー」
菜穂の両手が私の背中あたりに回される。彼女が顔を私の腹部に埋めてくるせいで、息苦しいことこの上ないのだった。
深呼吸でもしているのかな、と思ってしまうくらい、菜穂の息が激しい。お腹に生暖かい空気が当たる。
なんとなく菜穂の頭を撫でてみると、ひんやりと冷たかった。夏が終わり秋が終わり、季節はもう冬になりかけている。もともと冷えやすい彼女の体は、そんな冷たい外の空気を纏っているかのようだった。
「菜穂、着替えておいで、制服がしわしわになるよ」
「ううん、あともうちょっと」
「ユニフォームも、洗濯カゴに入れてきなよ」
「ううう、あともう少し」
「ちょっと汗臭いよ」
「えあっ!?」
断末魔めいた声を挙げて、菜穂は慌ててリビングを出て行った。次いで、階段を駆け上がる音が響いてくる。
年頃の乙女に言ってはいけない言葉だけに、効果は絶大だった。
実際には、柑橘系の程よい香りがしていた。部活の後に使用する、制汗スプレーの匂いだろうか。
上半身を持ち上げて、ソファに座る。
一分ほどして、階段を駆け下りる音が聞こえてきた。
「あ、お姉ちゃんなんで寝転がってないの?」と、私の様子を見た菜穂が不満げに声を挙げてから「じゃあ隣に座っちゃお」と即座に切り替えて、バスケットボール部で鍛えたのであろう俊敏さで私の隣に座った。
「他に番組なかったっけ?」と私の肩にしなだれかかりながら、菜穂が言う。「特に無いかなあ」と答えると、「そっかあ」と彼女は言って、それっきり黙りこくってしまった。
鎖骨にかかった菜穂の髪がくすぐったい。
しばらくすると、規則正しい寝息が聞こえてくる。
菜穂の体を支えて、私の肩から彼女の頭を離し、そうっと私の膝に置く。テーブルの上にあるリモコンを取って、テレビの音量を下げる。
この子の姉離れはいつになるのだろう。
菜穂の寝顔を眺めながら、そんなことを思った。
翌日の朝、枕元でいつものように目覚まし時計が鳴った。
今日は土曜日で、私は学校が休みだけれども、バスケ部である菜穂は朝から部活がある。そのため、目覚まし時計に設定時刻は平日のものから変えていない。
菜穂、と私のすぐ隣で眠る彼女に声をかけたところで、異変に気付く。
菜穂の、私に抱き着く力が普段より弱々しい。それに、眠っている間に私が引っ張ってしまったのか、彼女の下半身のほとんどが掛布団からはみ出ていた。
菜穂の体は冷えやすい。
「菜穂、おーい、菜穂、起きて」
彼女の小さな肩を子犬を撫でるような力加減で叩いてから声をかける。ううん、と彼女が呻いた。
起き上がり、菜穂を仰向けにして、額に手を当てる。
熱があるのは明らかだった。
菜穂のつま先から肩までを掛布団で覆いかぶせる。
「お姉ちゃんが連絡しとくから、今日は部活休みな」
はあい、と元気がすっかり抜き取られた声で菜穂が返事をするのを聞いてから、私は部屋を後にした。
土曜日だというのに父は仕事で、母はパートに入っている。家には私と菜穂の二人だけで、自然、私が彼女の看病をすることになる。まあ、たとえ両親が家にいたって看病するのは私だけれども。
よく体調を崩す菜穂のために、冷蔵庫にはいつもスポーツ飲料がある。それと熱さまシートを携えて部屋に戻ると、菜穂が丸くなって掛布団に収まっていた。
「お姉ちゃんの匂いだあ」とくぐもった声が聞こえてくる。「お姉ちゃんに包まれてるみたい」
「使ってるシャンプーもボディソープも一緒だけどね」とスポーツ飲料をテーブルに置き、掛布団を引き剝がす。「冷たいの貼るから、おでこ出して」
菜穂が前髪をかきあげる。しわができないよう、慎重に熱さまシートを貼ると、「うひゃあ冷たい」と彼女が小さな悲鳴をあげた。
「お腹減ってない? うどんとか、バナナならあるけど」
「いや、今はいいかなあ、ありがと」
床に座って、ベッドに背中を預ける。すると、後ろから「ごめんねお姉ちゃん」と菜穂が言ってきた。「看病、暇でしょ」
「別に、そんなことはない」と私は本心から返す。「菜穂と一緒にいられて嬉しいし、暇はしないよ」
もう、と嬉しそうな、呆れたような、曖昧な配分の声が聞こえてくる。
「そんなこと言っちゃっていいのかなあ」
「言っちゃだめなの?」
「だめじゃないけどさあ」
うふふ、と菜穂が笑った。
要領を得ない菜穂の言葉に、私は首をかしげざるを得ない。
窓を見やると、空は青々としていた。一見して暖かそうに思えるけれども、外は昨日と変わらず寒い。しっかり布団に入らず眠ってしまえば、体調だって崩す。
「このベッド、私が六年生の時に買ったのだしねえ」と四年前のことを思い出しながら呟く。「そりゃあ、二人で寝るには小さいよ」
「それ、別々のベッドで寝ろってこと?」と悲しそうな声で菜穂が訊いてくる。「嫌だよお、お姉ちゃんと一緒がいい」
この妹はなぜこんなにも姉のことが好きなのか不思議でならない。七歳だか八歳の時分にしきりに「お姉ちゃんと結婚する」と言っていたけれども、実は今でもそう思っているんじゃないか、なんて疑ってしまう。
まあ、さすがにそれはないか。
お昼ご飯の時間帯になって初めて、菜穂が空腹を訴えた。
キッチンでうどんを茹でて、簡単なダシを作り、一つのお椀に入れて部屋に持っていく。
食べさせて、と甘えてくる菜穂に従って、十分に冷ました麺を彼女の口に運ぶ。よほどお腹が空いていたのか、彼女はまるで滝が逆流するような勢いで麺をすすった。
食欲があるのはいいことである。
うどんを完食し、ポカリスエットをコップ一杯分飲み終えて一息ついてから、「お姉ちゃんはさ」と菜穂が口を開いた。「どうして私に優しいの?」
「え? なにが?」
「いや、だってさあ、せっかくの土曜日なのに看病してくれるし」
「そりゃあ、たった一人の妹が体調崩したら、看病くらいするよ。土曜日は今日以外にもいくらでもあるしね」
「でも、友達とか、兄弟姉妹で仲悪い人多いよ。熱出しても、放っておかれるのは当たり前とか、そもそもあんまり会話しないとか」
「へえ」
先日の松倉の話を思い出す。確か、小学五年生の妹が反抗期で大変だ、とか何とか、そんなことを言っていた気がする。
兄弟、姉妹仲があまりよろしくないのは、一般的なのだろうか。
「どうしてって言われてもなあ」私は次の言葉を探して、それを見つける。「私、菜穂のこと好きだからね。単純に、それが理由かな」
「そ、そっか」
そっかそっか、と菜穂は呪文のように繰り返しつぶやいてから、「私も、お姉ちゃんのこと好きだよ」と静かに言った。
「それは、まあ、知ってるよ」と私が言うと、彼女は力なく横たわり、そろそろと、掛布団を肩まで引き上げた。
「私のこと好きなんだったらさあ、一緒に寝てもいいでしょ? 一緒にお風呂入ってもいいでしょ?」
何かを探るように、菜穂が言った。
彼女のその言葉に、私は返答に窮してしまいそうになるけれども、答えはすぐに見つかった。
「好きだからこそだよ、菜穂」
「好きだからこそ?」
「私と菜穂は姉妹で、これまでずっと一緒にいたけど、これから先もそうとは限らないんだよ。例えば、お姉ちゃんが大学生になったとき、進学先が遠い場所にあると、この家を出て一人暮らしをしなきゃいけないでしょ? 仮に大学が近くても、卒業して社会人になったとき、勤め先が遠かったら、やっぱり家を出なきゃいけなくなる」
菜穂は何も言わず、私の話に耳を傾けている。
「菜穂が私を好きでいてくれることも、常に一緒にいたいと思ってくれることもうれしいよ。でも、ずっと一緒にいると、菜穂が一人で立つことができなくなるんじゃないか、とお姉ちゃんは思うの。いざお姉ちゃんが傍にいなくなったとき、悲しくなって、何もできなくなるんじゃないかなって、心配してるんだよ。だから、今のうちから徐々に離れていって、菜穂には準備していてほしんだ」
言い終えてから菜穂を見ると、口を一文字に結んだ彼女の瞳がうるうると揺れていた。
「離れたくないよお」と震えた声で菜穂が言う。「ずっと一緒にいてよお」
「少しずつでいいから」彼女の頬に手のひらを触れさせながら、言い聞かせる。「急にじゃなくていいから、ちょっとずつ、慣れていこう」
菜穂は布団から出した手で私の手を強く握ると、ついに涙腺を崩壊させた。大粒の涙が次から次へと溢れ出てきて、枕へと流れ落ちていく。
「大丈夫だって、お姉ちゃんはいつまでも菜穂のことが好きだよ」落ち着かせるために、私は言う。「大げさだなあ」
しかしそれはまるで効力を見せず、菜穂の涙は一向に止まらないのだった。
しばらくすると、泣き疲れた菜穂は眠りに落ちた。彼女の手は、私の手をいつまでも離さなかった。
翌週の金曜日、学校から帰宅して自室に入ると、私は得体のしれない違和感を覚えた。
見慣れた部屋であるはずなのに、何かが違っていた。その何かの正体が、曇りガラス一枚向こう側にあるみたいにぼやけていて、はっきりとしない。
何だろう、何が違っているんだろう、と部屋の中をうろうろと歩き回りながら考えて、はたと気づく。
ベッドだ。ベッドのサイズが、これまでの物と違う。今朝、私が目覚めた時に下にあった物よりも、かなり大きい。そのせいで、少しだけ、部屋が狭くなった。
違和感の正体はそれだった。
ベッドが成長したのか、なんて馬鹿げたことを考えていると、一階のリビングから「そういえば、ベッド届いたわよー」という母の大声が聞こえてきた。
何の話だ、と私は早足で一階に降りて母に訊いた。
「あの、何の話? それに、あのベッドは何?」
「だから、ベッド、新しいの届いたのよ。あんたが学校に行ってる間に」
「私のベッド、買ったの? え、私知らないけど」
「あら、言ってなかった?」
あらあらあら、と母は頬に手を添えてから「先週、菜穂が熱出したでしょ」と口を開いた。
「そうだね」
「あれって、あんたのベッドと掛布団が小さいから、菜穂が満足に暖かくして眠れなかったせいでしょ?」
「まあ、そうかも」
「それでね、お父さんが『もっと大きいベッドなら、二人で寝ても大丈夫だろ』って」
「は?」
「私もそう思って、じゃあ大きいベッド買うか、ってなったのよ」
「は? ・・・・・・え、は?」
言ってなかったかあ、と母は事も無げに呟いてから、「まあ、前のベッド四年前に買ったやつだしねえ、ちょうどよかったでしょ」と、感謝しなさいよ、とでも付け足しそうな声音で言った。
開いた口が塞がらなかった。
自分の部屋で寝なさい、とはならずに、大きいベッドを買えば大丈夫、という思考に至ってしまう両親に、私は驚愕を禁じ得なかった。
「菜穂は、このベッドのこと知ってるの?」
「さあ、言ってたかしら。まあ、あんたも知らなかったっていうことは、あの子も知らないでしょ」
おざなりに答える母だった。
先週の土曜日、菜穂が熱を出した日から今日にいたるまで、結局、菜穂は欠かさずに私のベッドで就寝した。私はそのことを不満には思わなかった。姉離れはゆっくりでいいと考えていたからだ。
二人で寝るには十分なベッドを目の当たりにしたとき、菜穂は何を思うだろう。
彼女の姉離れが、ますます遠退いてしまったんじゃないだろうか。
いやまさか、と私は頭に浮かんだ不安を打ち消すようにかぶりを振った。
けれども、もしや、という懸念は頭の片隅にこびりついて取れそうになかった。
時計を確認する。菜穂が帰ってくるまで、あと二時間といったところだった。




