メイドカフェのすうちゃん
最寄り駅から二つ隣の駅の近くにメイドカフェがある。
そのメイドカフェは『SUGIRL』といって、私は週に二回、少なくとも一回は通っている。
なぜなら、そこですうちゃんが働いているから。
「さっきー、めっちゃ早いね」
通学鞄に教科書を詰め込んでいると、隣の席の伊勢がそう言った。「なんか、万引きしてる人みたい」
ホームルームが終わると、私の行動は自他ともに認めるほど迅速になる。一分一秒だって無駄にしたくないという気持ちで胸がいっぱいになる。
「万引き犯よりも早いよ」と返しながら、鞄を肩に掛ける。「じゃあ、伊勢、また明日」
伊勢に向かって手をひらひらと振りつつ、教室を後にする。「じゃあねー」という彼女の声が背後から聞こえてくる。
生徒でごった返す前に廊下を走り抜け、靴を履き替えて外に出て、校門を抜けて疾走する、駅に向かって弾丸みたいに。
空には雲が一つもなく、快晴だった。正面から吹き付けてくる風は冷たくて、心地よかった。
制服姿の女子高生が、通学鞄に付いているストラップをしゃらしゃらと揺らしながら全力疾走している様は目立つようで、すれ違う人たちがことごとく不躾な視線をよこしてくる。気にしている暇はない。
駅に着く。改札を抜けてホームに出る。
「うわあ、佐々木・・・・・・」
すると、誰かが私の名前を呼んだ。私はその声の主を知っている。私とは違う制服姿の彼女はまばらなホームに、一人、立っていた。
「すうちゃんっ」
私が彼女の名前を呼ぶと、すうちゃんは如何にも嫌そうに顔を歪めた。たぶん、カブトムシの幼虫を口に放り込まれたってそんなに嫌そうにしないはずだ。
そんな表情のすうちゃんも素敵だった。
構うことなく、私は彼女の隣に立つ。
走ってきた分の疲れが一気にやってきて、主に脚を襲う。肩で息をしていると、「走ってきたの?」と隣のすうちゃんが労わるような、呆れているような、あるいはその両方を含んだような声で言った。黙って頷くと、「こっわ・・・・・・」と彼女は震えた。
ほどなくして、電車がやってきた。怪物の呼吸のような開扉音が鳴る。二人で乗る。
車内はがらんとしていて、座りたい放題だったけれども、私が座る場所はすうちゃんの隣と決まっている。
「やっぱ、今日も来るのね」座りながら、すうちゃんがぼやく。「しかも、最初から」
「そりゃ、来るって」彼女の隣に座りながら、私は言う。「週に二回の、貴重な、すうちゃんの日だからね」
長々とため息をついてから、おかしいよなあ、とすうちゃんが呟いた。
「私、あんたのことフッたはずなんだけどなあ」
電車が走り出した。
私は聞こえなかったふりをした。
二つ隣の駅で降りて少し歩く。すうちゃんの隣はずっと保っておく。
すぐに、『SUGIRL』と書かれた看板が見えてくる。次いで、その下にある、白色を基調とした、落ち着いた雰囲気のお店が視界に入ってくる。
「それじゃあ、すうちゃん、行ってらっしゃい」
「・・・・・・はあい」
肩をがっくりと落としながらガラス張りの扉を開けて、すうちゃんが店内に入っていく。
すうちゃんは、ここ『SUGIRL』で、メイドさんとしてアルバイトをしている。木曜日の今日と、二日後の土曜日の、週に二回、彼女はメイドさんになる。
私は知っている。ここに足繫く通っている私は知っている。すうちゃんがお店に入ってからおよそ七分軒先で待ってから入店すると、ちょうど彼女がメイドさんとして出迎えてくれるタイミングになることを。
不必要に体中に漲っていた力が抜けていく。すうちゃんがいなくなって初めて、自分が緊張していたことを知る。屈伸してから深呼吸をして、体をほぐし、心を緩める。
まだ全然、慣れないなあ。
青い空を眺める。そして、時間が来るまでの間、私は中学三年生の頃のことに思いを馳せることにした。
いつの頃からか、私はすうちゃんに恋していた。
いつからそうなったのかは定かではないけれども、気が付けばそうなっていた。すうちゃんも女の子で、私も女の子だけれども、そんなことは関係なかった。
恋とは理性とかけ離れたところでするものなんだな、と私は知った。
恋心を自覚した私は早速すうちゃんと恋人同士になりたいと考えたけれども、もし告白すれば、たとえ恋が成就しようと失恋に終わろうとも、今までの関係ではいられなくなる、そう思うと、躊躇われた。私はすうちゃんの友達という立場を捨て難く思っていた。
それに、すうちゃんが私の恋を受け入れてくれる見込みが低いので、単純に尻込みしていた。彼女の拒絶されることに恐怖していた。
でも、それも長くは続かなかった。
中学三年生の夏、私は我慢できなくなって、すうちゃんに告白した。私の衝動を繋ぎ留めていたはずの、恐怖という名の鎖は、思っていた以上に脆かったらしい。
その日のことは、今でもよく覚えている。まるで昨日のことのように思い出すことができる。
放課後の教室には、私とすうちゃんの二人しかいなかった。雲が少ない日だったから、遠くの夕日の、橙色の光が何にも遮られることなく窓から差し込んできていた。床に、二人の濃い影が映し出されていた。
告白の結果がどうなったかなんて、言うまでもない。
その後、高校受験を経て、私とすうちゃんは別々の高校に進学した。そしてしばらくしてから、私はすうちゃんがメイドカフェでアルバイトをしていることを知った。
どのようにしてその事を知ったかは、言う必要はない。
ただ、当時の私はどうしてもすうちゃんのことが諦めきれずにいて、離れ離れになってますます彼女への愛が大きくなっていって、彼女が通う高校を把握していた。更にいうなら、彼女の通う高校の周辺には、何かと身を隠しやすい場所があった。
たったそれだけのことである。
時間が来た。
まるで映画のようにして脳裏に映る思い出を止めて、私はお店に入った。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
出入り口からすぐそこの場所にメイドさんが立っていて、入店した私をそう言って出迎えた。
そのメイドさんはすうちゃんである。
ロングスカートのメイド服に身を包んだすうちゃんは、真夏の太陽の下に立つひまわりを思わせる笑顔を浮かべている。さっきまで、この世の終わりを目の当たりにしているような表情を浮かべていたのが噓のようだった。
何かと気まずく思っているであろう私にすら、彼女はそんな笑顔を向けてくれる。その意識の高さに、私は感服せざるを得なかった。同時に、ときめかずにはいられなかった。
なんて可愛らしいんだろう。
「ただいまあ、すうちゃん」
すうちゃんの笑顔に、ちょっと影が差したように見えたけれども、気のせいかもしれない、私の見間違いかもしれない。いずれにしても、彼女の魅力がちっとも損なわれないことは確かだった。
「こちらへどうぞ」とすうちゃんが先を歩き始めた。私は彼女の後に続いて、華奢な背中を見つめつつ、店内を軽く見回した。
お店の中はコーヒーの香りで満たされていた。お客さんの姿は少なかった。
案内された席は、一つのテーブルに二つの椅子が向かい合うように配置された、二人用のものだった。
椅子を引いて着席すると、「ご注文の際は、そちらの呼び鈴を鳴らしてお呼びください」と言ってすうちゃんが去って行こうとしたので、「コーヒーひとつで」と慌てて言った。
「持ってくるのすうちゃんで、お願いします」
「・・・・・・かしこまりました」
最後に優しく微笑んでから、すうちゃんは厨房へと向かっていった。
お客さんが少ない今の時間帯なら、指名したメイドさんに注文したものを持ってきてもらうことができる。その裏技を知ったのは、つい先日のことだった。
幸せを噛み締めつつ、私は初めてこのお店に来た時のことを思い出していた。
あの時ばかりは、さすがのすうちゃんも笑顔を崩していた。
「お待たせしました」
数分と経ってから、コーヒーカップを載せた銀色のお盆を携えたすうちゃんがやって来た。その足取りはロングスカートに隠れていてもなお優雅だった。
湯気が立ち上るカップをテーブルに音もなく丁寧に置いてから、「ミルク、お砂糖はお入れなさいますか?」とすうちゃんが訊いてくる。はい、と私が答えると、彼女はうやうやしくその両方をコーヒーに投入してくれた。その一連の仕草に、私はずっと見とれていた。
いいなあ、私もあんな風に丁寧に優しく触れられたいなあ。
そんなことを思って鼻の下を伸ばしていると、「どうぞごゆっくり」と言い残して、すうちゃんは再び厨房に戻っていった。
私は他のメイドカフェに行ったことがないから分からないけれども、どうやらここ「SUGIRL」はメイドカフェの中でも特別落ち着いた雰囲気らしく、可愛いメイドさんを見に来る、というよりも、メイドさんに給仕してもらいたいという目的で来店する人がほとんどらしい。
その願望にはもちろん一理あるけれども、私としては、もっとメイドさんと触れあいたいと思う。より正確に言うのなら、すうちゃんと触れあいたく思う。
何となくで香りを楽しんでから、コーヒーを口に含む。苦い、以外の感想が出てこない。
ふと、私はこれからのことを考えた。この先ずっとここに足繁く通いつめて、メイドさんとして振る舞うすうちゃんにメロメロになる、今と変わりのない先のことを考えた。
私の恋心は、それをどう思うんだろう。そんな未来をどう思うんだろう。
最近になって、私はこの現状を好ましく捉えている自分に気づいた。
決して私を拒まないすうちゃん、内心では苦い思いを抱いているであろうすうちゃんが、あの素敵な笑顔の裏ではどんな表情を浮かべているのだろう、そう考えたとき、底が見えない、暗い穴を覗いた時のような、ゾッとするような、得体の知れない喜びを覚えている私がいることに、気づいた。
これは恋心なのだろうか。それとも、もっと別の、破滅的な、歪んだ何かなのだろうか。
私は考える。
私はすうちゃんの恋人になりたい。私がすうちゃんを愛するように、すうちゃんにも私を愛してもらいたい。
これは間違いなく恋心だ。
でも、そんなのはあり得ないと、何かが言っている。もし明日私が死ぬとしても、きっとすうちゃんは気休めや慰めで私に「愛してる」なんて言わない。彼女はそういう女の子だ。
だから、今を楽しめ、と何かが囁く。希望が無いなら無いなりに、楽しんでおけ、と。
果たして、これは恋心なのだろうか。
・・・・・・
コーヒーをもう一口飲んで、まあいいか、と結論を出す。どっちでもいいか、と。
これが恋心だろうと暗い感情だろうと、もっと別の何かだったとしても、メイドさんであるすうちゃんは、受け入れてくれる。どんな私でも、きっと。
ふふふ、と無意識に笑い声が出た。それを誤魔化すために、私はさらにコーヒーを飲んだ。
そして、厨房にいるであろうすうちゃんに思いを馳せながら、コーヒーの水面を眺めた。
黒いコーヒーは、まるで底の見えない穴のようだった。




