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彼女たち  作者: 城ヶ崎
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また明日(下)


 「はあ? 一緒に学校行けない? なんで?」


 目の前の幸子が、怒りの覇気を周囲に振りまきながら言う。

 なんでって、見てわからんのか、という言葉を飲み込んで、代わりに額に貼り付けた熱さまシートを指さして示す。

 「熱出ちゃった」私は言う。「ちょっと、学校行くのしんどい」

 ええー、と幸子は驚いたように声をあげた。謎の反応だった。

 「え、だったらなんで外出てきた」慌てた様子の幸子が私の背中に手を当ててぐいぐいと玄関に押していく。「寝てな寝てな」

 沓脱に入り、私の靴以外のものが無いことを見て、「あ、この時間は静乃の親いなかったか」と呟いた。

 前に立った幸子は、私の手を引いて迷うことなく進み、私の部屋につくと迷わず中に入った。

 「おら、寝ろ寝ろ」大雑把に私をベッドに押し込み、柔道の技でもかけるような豪快さで掛け布団を被せてくる。


 「食べ物とか、飲み物とか大丈夫? 看病しようか? 学校サボってもいいし」

 「いや、冷蔵庫に色々入ってるから大丈夫。学校サボるとか、ギャルっぽいことしなくていいから」

 「ギャルじゃねえし。じゃあまた放課後来るから、お大事に」


 「あ、幸子」呼び止めて、手に持っていた鍵を放る。幸子はそれを振り向きざまに掴む。


 「鍵閉めてて、放課後に返してくれればいいから」

 

 はいよー、と間延びした返事をして、ドアへと向かう。

 部屋を出ていこうとしたところで、幸子の視線が私の学習机の上に注がれた。そこには勉強道具が一式置かれている。

 「ほんと、どうしちゃったんだよ」またもや不満げな声で、それでいて柔らかな笑顔で、彼女は呟くように言う。「ギャルのくせによぉ」

 「ギャルじゃねえわ」私が言い返すと、彼女は満足げに頷いてから部屋を出て行った。

 後頭部を枕に押し付ける。程よい感触に包まれる。夜の間にたっぷり眠ったために、眠気なんて少しも感じない。

 手持無沙汰を誤魔化すために、天井を見ながら昨日のことを思い出す。弓野さんの姿を思い出す。弓野さんの言葉を思い出す。弓野さんの無表情を思い出す。

 途端に息苦しくなる。熱による苦しさよりも、そっちのほうが断然体が重たくなる。

 この一日は大きいな、と思う。昨日の今日で弓野さんと会えないのは、勉強会を空けてしまうのは、とても大きいと思う。

 なんとなく、漠然と、次に学校に行ったとき、私は弓野さんに話しかけないような気がする。昨日の苦い思いを引きずったまま今日一日を過ごしてしまうと、私はみずから弓野さんとの間に隔たりを作ってしまうような気がする。

 明日になれば、もう二度と弓野さんと机を挟んで向かい合うことはないような気がする。

 十四年間生きて、今になって初めて、自分の感情の複雑さを思い知る。

 気にせずに、今まで通りふるまえばいいのに、それが最善であることを理解しているのに、理性とはかけ離れたところがそれを阻止している。

 心と理性が噛み合っていないことが、こんなにも辛いとは思いもしなかった。

 思い上がっていた、ということだろうか。

 弓野さんが喜んでくれたから、私が話しかけて、勉強を教えてほしいと頼んだことが、偶然にも彼女の喜びとなったことで、知らず知らずのうちに思い上がっていたということだろうか。彼女の初めての友達になれると早とちりして、舞い上がっていたということだろうか。それであっさりと叩き落されたことで、こんなにも落ち込んでいるということだろうか。

 なんて馬鹿らしい、と自嘲する。

 単なる自業自得。一人で勝手に喜んで、一人で勝手に悲しんでいるだけ。

 私は目を閉じる。世界が暗くなる。

 眠気はないけれども、そのうち、気が付かないうちに眠りに落ちているだろう。意識がないほうがよっぽど楽だ。

 意識的に、呼吸を規則正しいものにする。胸を上下させて、眠っているときと同じ状態になる。

 不意に、三日前の、弓野さんのうたた寝姿が脳裏に浮かぶ。それだけで口元が緩むのが自分でもわかる。悔しいことに、それだけで満たされた思いがした。そう錯覚した。

 せめて、夢の中では・・・・・・。

 その続きを考えるより先に、私の意識は底に落ちた。








 その時わたしが見た夢はあまりにも抽象的だった。景色も感覚もない、ただ漠然と、楽しい夢らしいことがわかった。色で表すなら、白色に限りなく近い黄色だった。

 ずっとこの夢を見ていたいな、と私は思うけれども、同時に、起きなければならない、という強烈な思いが湧き上がる。それは自分の脳が発しているとは思えないほどに強制力のあるもので、私は後ろ髪をひかれる思いで、その夢から現実世界へと帰っていく。





 

 


 目を覚ます。全身が汗に塗れていて、パジャマがひたひたと肌にくっついてくる。突然の通り雨に晒された後のような不快な感覚だった。

 何時だろう、と視線を巡らせたところで、弓野さんの理知的な目と出くわす。やっぱりきれいな目をしているな、と素朴な感想を抱いてから、時計を見る。

 時計の針は眠りにつく時から遥かに進んでいて、もうとっくに学校が終わっている時刻を示していた。驚いたことに、八時間ほど眠っていたらしい。


 「って、ゆえええええ!?」


 遅れてやってきた衝撃に、思わず上半身を跳ね起こす。

 「お邪魔しています」と弓野さんは言ってから、そっと人差し指を唇にあてがって「体調が悪いなら、安静に」と、まるでお手本を示すように静かに言った。

 熱によるものとは明らかに違う頭痛が私を襲う。

 あらゆる疑問が風船のように浮かんでくる。それらは私が捕まえる前に遠くへ飛んでいってしまって、私はなかなか口を開くことができないでいた。言葉を発することができないでいた。

 呆然と、弓野さんを眺める。彼女は私が眠るベッドから一歩離れたところで姿勢よく正座をして、私を見つめている。

 見慣れた自分の部屋でも、弓野さんの存在ひとつで見慣れないものへと変わるようだった。

 「な、なんで」私は危うげに口を開く。「どうして、ここに」

 

 「一度インターホンを押してみたんだけど、反応がなくて。そこに、あの、幸子さんが偶然来て、事情を話してみたら、鍵を開けてくれたの」


 滔々と、彼女は経緯を説明する。

 「いや、そっちじゃなくて」私は口を挟む。「その、何故ここに?」

 「お見舞い」間髪入れずに弓野さんは答える。「倉橋さん、体調不良だって先生が言ってたから、心配で」

 オミマイ?

 予想の枠を遥かに飛び越えた彼女の言葉はまるで外国語のように理解し難いものだった。

 その時、恐らく私は、マイナスかけるマイナスはプラス、という新概念を教えられた時と同じ表情を浮かべていた。つまり困惑していた。

 それが弓野さんに伝わったのか、彼女は「迷惑だった」と独り言みたいに言った。

 そんなことはない、と私が口を開こうとすると、それに被せるように、またもや弓野さんが言った。


 「友達が体調を崩したら、お見舞いするものだと思ってた」


 時間が止まってしまったような気がした。世界中の時計の針がぴたりと動かなくなってしまったんじゃないかと思った。でも実際に止まったのは、私の思考の方だった。

 「いま、いま」空耳に違いないと思いつつも、言葉をつまらせながらも、私は弓野さんに訊く。「いま、なんて」

 「友達が体調を崩したらお見舞いするものだと思ってた」彼女は事も無げに繰り返す。「やっぱり、間違ってた」

 

 「と、ともだち・・・・・・」

 

 再び聞こえたその言葉を、まるで美味しい食べ物でも味わうように、口の中で転がす。

 「違った」私の耳がおかしくなければ、弓野さんは確かに不安そうな声音で言った。「昨日、倉橋さんが友達って言ってくれたから、てっきりそうかと」

 彼女の言葉に、今度こそ何も言えなくなる。石にでもなってしまったみたいだった。

 「びっくりして、昨日は反応できなかったけど」そんな私に気づかず、弓野さんは続ける。「私を友達だと思ってくれたの、とても、うれしかったから」

 

 「ともだちっ」


 ほとんど無意識に、溢れる様々な感情に従って、私の口が動いた。

 ベッドから転げ落ちる。構うことなく、弓野さんのもとへと近づく。


 「友達だと思ってる。私は、一昨日も昨日も今も、弓野さんのこと」


 ろくに整理もせずに思ったことを片っ端から口にしたものだから、妙な片言みたいになってしまう。それでも弓野さんは表情を変えずに、ただ、そっと「それはよかった」とこぼしてから、「でも、危ないから、急に動いたらだめ」と言った。

 私は彼女の瞳を見る。感情なんて少しも含まないはずのそこに、私は確かに喜びを見出した。

 それは、もしかしたら私の都合のいい妄想なのかもしれない。熱におかされた私の頭が作り出した、夢なのかもしれない。

 でも、それでも構わなかった。

 

 「実は、お見舞いとは別に、もう一つ、倉橋さんに会いに来た理由がある」


 弓野さんがゆっくりと、口を開く。

 なに、と私が相槌を打つように言うと、彼女は深く息を吸ってから、また口を開いた。


 「私は、これまで家族以外の人とはあまり喋ったことがないから、人がどんなことを思っているのか、どんな感情を抱いているのか、考えるのが苦手、だけれども、そんな私でも、昨日の倉橋さんは、どこか様子がおかしかった。怒ってるような、悲しんでるような、そんな気がした」


 たどたどしく、彼女は言う。


 「もしかしたら、私がそうさせてしまったんじゃないかって、気づかないうちに、私の言動のどれかが倉橋さんを傷つけてしまったんじゃないかって思って。だから、もしそうなら、謝らせてほしい」


 彼女の目がまっすぐ私を捉える。

 その瞬間、私はそれまでに抱えていた疑問が消えて無くなっていくのを感じた。

 なぜ、私は弓野さんに惹かれるのか。なぜ、彼女を見ていると胸が締め付けられるのか。

 それはきっと、憧れていたから。彼女の誠実さを、彼女のまっすぐさを、愛おしく思っていたから。

 とても単純な精神構造。わかってしまえば、なんて事はない。

 私は首を横に振る。


 「大丈夫、弓野さんが謝ることなんて何もないよ」


 弓野さんは、小さく「そっか」と息を吐くように言ってから、私の手を取って立ち上がらせた。「ベッドで寝てないと、だめ」

 私の手を引く弓野さんの視線が、ぴたりと、ある一点で止まった。その視線の先を追うと、私の学習机の上にたどり着いた。今朝、幸子がそうしていたように、彼女もまた、机の上に広げられた勉強道具を見つめている。

 弓野さんはそのことについて何も言わず、私をベッドの上に座らせた。正直、体の軽さからいって、もう既に熱はひいている。けれども、私は黙ってベッドに横たわり、掛け布団を胸のあたりまで引き上げた。


 「私は、そろそろ帰る。幸子さんが、いったん家に戻ってからまた来るって言ってたから、もうすぐ来ると思う」

 

 もう帰ってしまうのか、と名残惜しい思いがしたけれども、同時に、満足しきったという思いもある。弓野さんが私のことを友達と思ってくれているという事実が判明しただけでも、全てが報われた気がした。

 弓野さんが立ち上がった時点でさよならの挨拶を、と思っていたけれども、どういうわけか、彼女はいつまでも立とうとせず、その場に座ったまま、じいっと私の顔を見つめている。

 なんだろう、と緊張する。何か顔に付いてる?

 不安を覚えていると、不意に、弓野さんの小さな手が私の手を握った。まるで死角から飛んできたボールのような、まったくの不意打ち。

 弓野さんの手はひんやりとしている。身を切るような冷たさではなく、夏場の団扇うちわのような、心地の良い冷たさだった。


 「さ」

 「さ?」

 「・・・・・・」


 弓野さんは、その一つの音を発しただけで、固まってしまった。

 何をしているんだろう、と彼女の顔を見ると、衝撃が走った。

 弓野さんは、無表情ではなかった。眉を下げて、頬をほんのりと赤く染めて、唇を引き締めて、視線をさまよわせている。

 最初、私はそれを幻覚だと考えた。だから目をぎゅうっと、眉間が痛くなるくらいに閉じて、また開いた。それでも弓野さんの表情はそのままだった。夢の世界での出来事ではなく、現実世界での現象だった。だからこそ、信じられなかった。

 あの弓野さんが、この九日間で一切表情を崩さなかった彼女が、ここにきて、そんな表情をするとは、夢にも思わなかった。とても信じられることではなかった。


 「さび、しい」

 「え?」

 

 全身錆びまみれの、長いあいだ放置されていたロボットを無理やり動かしたようなぎこちなさで、弓野さんは言う。

 意を決したように、彼女は私の目を見た。


 「倉橋さんがいないと、寂しい、よ。だから、ちゃんと休んで、治して」


 そう言って、ふいと、また弓野さんは視線をそらした。みるみるうちに、彼女の頬が赤くなっていく。それでも、私の手を離そうとしない。

 正直に言って、気絶しそうになった。胸のあたりはかつてないくらいに締め付けられて、このままあっさりと死んでしまうんじゃないか、とすら思えた。

 それほどに、弓野さんのその照れた表情は魅力的だった。普段の彼女が度を越えてクールなために、よりそう思えた。


 「弓野さん」


 私は彼女の名前を呼ぶ。その先で何かを言おうとした。しかしその前に、それを言う前に、部屋の扉がやや乱暴に開かれた。

 「静乃ぉ、体調は」部屋に入ってきた幸子の視線が、一直線に私と弓野さんの手に注がれる。「・・・・・・どう」

 幸子は制服姿から一転、ゆったりとした黒色のジャージに身を包んでいる。いかにも彼女らしい格好だった。

 幸子は弓野さんさながらの無表情を浮かべている。


 「いや、そこまで許した覚えはねえし!」


 一転、怒りの権化へと変身した彼女はどすどすと足音を鳴らして近づいてきて、私と弓野さんの手をひっつかむと、強引に引き離した。

 

 「調子に乗んなよ、弓野さん!」


 顔を真っ赤にした幸子が、弓野さんの顔を真正面から睨みつけて、噛みつくように言った。

 なんのこっちゃ、と呆然としていると、弓野さんはいつもの無表情で「わかった」と答えた。

 なんのこっちゃ。








 彼女たちがやってきて、二時間が経った。

 病人と一緒にいるのはいかがなものか、と思いはしたものの、弓野さんと幸子と会話をしていると、体調はさらに良くなるように感じた。一度体温を測ってみると、もうすっかり平熱に戻っていた。

 もうそろそろ帰るよ、と二人が言うので、少しだけ見送ることにした。

 家を出ると、幸子は「明日は一緒に行くぞ」と言い残して、すぐ左に曲がって歩いていく。彼女の家はここから徒歩五分もない。

 

 「弓野さんも、今日はありがとうね、来てくれて」


 いつの間にか隣に立っていた弓野さんにそう言うと、彼女は「来てよかった」と呟いた。いつもの平坦な声音で、いつもの無表情で。 

 そうして、彼女は幸子とは全く逆の方向に歩き出した。とても小さな背中を、私は見送る。

 ばいばい、と声をかけると、弓野さんは立ち止まって振り返ると、顔の横でさり気なく手を振った。


 「また明日」


 はっきりと、そう聞こえた。その声は弾んでいるように聞こえた。しかし私の耳が修正を施した可能性もある。

 どちらでもいいと思えた。

 

 「また明日っ」


 小さな子供のように手を大きく振って、私もそう言った。

 弓野さんは小さく頷いて、再び前を向いた。振り向くことなく、歩いていく。

 夕日が弓野さんの背後から差しているせいで、彼女の表情は詳しくは見えなかった。やっぱり無表情だったような気がするし、わずかに微笑んでいたような気もする。

 家路を歩く彼女を見る。当然、彼女の顔は見えない。

 笑ってくれていたらいいな。 

 私はそう思った。

 

 

 

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