また明日(中)
「はあ? 一緒に帰れない? なんで?」
ホームルームの終わりと同時に駆け寄ってきた幸子が、不機嫌を隠そうともせず、むしろ見せつけるようにして言う。
「勉強するから」と言うと、幸子が私のお腰に腕を回して、お腹に顔を埋めてきた。ぐうっと、息苦しくなる。
「どうしちゃったんだよぉ静乃ぉ」くぐもった声が聞こえる。彼女の息がセーター越しにお腹に当たって生暖かい。「いつもの静乃なら、『勉強』って単語を聞いただけで白目剥いてたのに」
そんなことあるか、と言い返せないところに、過去の私の恐ろしさがあった。
「そんなに怒んないでよ幸子、今の私にはこれが必要なんだよ」
まあまあ、と幸子の背中あたりをさする。
「うるせえ、静乃なんてなぁ、私とだけ遊んで、赤点とってればいいんだよぉ」
彼女は自らの頭をドリルの先端のようにして押し付けてくる。
「でもさあ、私このままの馬鹿でいると、高校受験乗り越えらんないよ」私は頑固かつわがままな友人の説得を試みる。「そしたら、幸子と同じ高校にも行けなくなるよ」
ぴたりと、スイッチを切られたロボットのように彼女の動きが止まる。ううう、と、犬が唸り鳴くような声が聞こえてくる。
「もうちょっと我慢してよ幸子。そのうち遊ぶから、カラオケにも行くから」
最後の一押しとばかりに、私は言う。幸子の体がゆっくりと離れていく。
「勉強がんばりやがって、ギャルのくせによぉ」
すごすごと、幸子が教室を出て行った。ギャルはお前だ、という言葉を胸にしまい込んで、そんな彼女の背中を見送った。
今日もまた、誰もいなくなった教室には私と弓野さんの二人だけになった。彼女と向かい合うようにして机をひっつけて、席に着く。弓野さんは初日の時のように私の隣には座らず、対面にいる。ちょっと寂しい。
鞄から、長文読解の宿題が出されている英語の教科書を引っ張り出す。一人では苦行に等しいこの宿題も、弓野さんと一緒ならかなり楽になる。
「それじゃあ、倉橋さん。頑張って」
そう言って、彼女は一冊の文庫本を開いた。『白痴』というタイトルの本だった。小説かどうかは表紙からわからないけれども、難しそうな内容の本だった。
聞いたところによると、弓野さんは休み時間の合間に、その日出た宿題をすべて終わらせてしまうのだという。
はーい、と間延びした返事をして、私は眩暈がしそうな英文に目を通し始める。
弓野さんとの放課後勉強会を始めてから、一週間が経った。
六時間目の授業が終わってから最終下校時刻までの時間を、私は苦手教科を補うことに、つまりは全教科を補うことにあてて、弓野さんはそんな私をサポートする。
私はこの時間がたまらなく好きになっていた。弓野さんは相変わらず無表情で、私に教えているときも読書をしているときも一切表情を変えずにいるけれども、いい加減それにも慣れた。むしろ、これこそが弓野さんだ、とすら思えるようになってきた。
私は弓野さんの友達になれたのかな、と思う。この関係は友達なのかな、と思う。
弓野さんはどう思っているんだろう。
そう気になったからといって、直接訊いてみることはしない、なんとなく気恥ずかしいから。これが幸子なら、『私たち親友っしょ』だなんて堂々と宣言するだろうけれども、そもそも友達同士でわざわざ『私たち友達だよね?』なんて確認し合わないし、そんなことを言う機会はそうそうない。
頻繁に登場する、初見の英単語にマーカーペンを引きながら、私はとめどなく考える。
頼ってもらえて嬉しい、と言っていた弓野さんを思い出し、今もそう思っているのかな、と思い、そこに友情はあるのかな、と疑問に思う。
ちらりと、弓野さんの様子を盗み見る。彼女の理知的な視線は本へと注がれている。当然、その姿から彼女の感情なんてとても読み取ることができない。
さっと見て、すぐまた英文に視線を移すつもりだった。でも私の目はずっと彼女の姿を捉えていた。彼女のまっすぐな髪の毛だとか、長いまつ毛だとか、本を取り落としちゃうんじゃないか、とハラハラしてしまう小さな手だとか、そういった細かな部分を視界に移し続けていた。
弓野さんと交流を始めてまだ一週間しか経っていないのに、いやむしろ、始めたばかりだからか、私はどうしようもなく彼女のことが気になっていた。
それはとても不思議な感情だった。思い返せばこの一週間、私はその正体不明の感情を折に触れては抱いていた。
全教科で満点を叩き出した弓野さんをカッコいいと思うし、壊滅的に勉強ができない私を笑わず馬鹿にせず呆れもせず受け入れてくれる弓野さんを優しいと思う。でも、私の不思議な感情はそのどちらでもない。
ぼうっと、弓野さんを眺め続ける。その時間が長ければ長いほど、その感情は大きくなる。
そんな私のしつこい視線を感じたのか、弓野さんが本から私のほうに視線を移した。
目が合う。
「なにか、分からないところでもあった」彼女は呟くように言う。「でも、長文は分からなくても、とりあえず最後まで読んだ方が力になる」
「あ、いや、違うよ。大丈夫」
「でも、いま私を見てた。何か用があるんじゃないの」
「いや、いやいや、ほんとに大丈夫だって。ごめんごめん」
慌てて教科書に目を落とす。
そう、と弓野さんは白いカーテンが揺れるようにささやかな声で言ってから、再びもとの状態に戻った。
ふう、と一息ついてから、あれ、と首をかしげる。
別に慌てる必要はなかったような気がする。理由なく弓野さんを見ることに後ろめたさはない。何か用が、と訊かれても、見てただけ、と返せばそれで済む話な気がする。それがどういうわけか、まるで隠していた答案用紙をお母さんに発見されてしまった時のような、それに似た慌てぶりだった。
でも、不思議と、嫌な気はしない。
最終下校時刻まであと三十分ほどというところで、なんとなく弓野さんを見ると、彼女は眼をつぶってうたた寝をしていた。
はっと息を飲む。あまりの衝撃に、体が少し震えたような気がした。
手を止めて物音を出さないようにして、まじまじと彼女の寝顔を観察する。
弓野さんをゆいいつ年齢相応かそれ以上たらしめている理知的な目を瞼で蓋をしてしまうと、もう本当に小学生にしか見えない。
規則正しい寝息、それに合わせてわずかに上下する胸。あどけない寝顔。
不意に、胸がぎゅうっと締め付けられる感覚があった。苦しくはない、ただ、何かが爆発しそうになった。ともすれば叫びだしそうになった。
かつてない感情だった。制御をするのが困難な、恐ろしい感情だった。
足の裏を床に縫い付けるイメージで、私は座ったままの体勢を保ち続ける。
寝顔を晒すということは、そういうことなのだろうか。
じっくりと弓野さんを子細に観察していると、不意に、そんなことを思った。
幸子なら、恐らく寝顔を晒すことを何とも思わない。なんなら涎を垂らしていたとしても動じないだろう。鉄の女である。でも普通は、誰かに自分の寝顔を見せるのは嫌なはずだ。少なくとも、友達でも何でもない人には、見せたくないはずだ。
目の前の弓野さんは、こうして私に寝顔を見せている。
彼女も幸子のように、寝顔を晒すことに躊躇いがない人なのかもしれないし、もしかしたらということもある。その『もしかしたら』が本当だとしたら、それが意味することはなんだろう。
私に対する安心感か、それとも信頼か、もしくはそのどちらかか。
都合の良い考察だと、自分勝手な解釈だと思う。けれども、そう考えずにはいられない。それが真実であると考える以外に選択肢がない。
なにかを認められたような気がした。誰に認められたのかは分からないし、そもそもその『なにか』が何なのかすら判然としない。たぶん、その『なにか』は言語学者にだって言葉にできないだろう。
危なかった、と思う。もし私が携帯電話を持っていたなら、迷わず弓野さんの寝顔を写真に収めていただろう。
五分ほど経ったところで、おもむろに、弓野さんの瞼が持ち上がった。
「寝てた」いつもの平坦な声で彼女は言う。「ごめんなさい」
「いやいや、全然いいよ」手を振って私は答える。「むしろ、ありがとうというか」
「ありがとう」弓野さんは首をかしげた。「どうして」
「ああっとねえ、本当に大丈夫だから。ぜんぜん全くこれっぽっちも、気にしないでいいから」
思わぬ失言を取り消すべく、私はまくし立てて彼女の疑問を封殺した。
まさか、あなたの寝顔を見れて嬉しかったからありがとうなんだよ、だなんて、口が裂けても言えるわけがない。
夕方と夜の境目の時間、私は弓野さんと並んで帰り道を歩いている。
以前なら想像もつかない状況でも、一週間も続けばすっかりと慣れてしまう。
弓野さんが隣に立つと、私が平均を少し上回る慎重であることも相まって、より彼女の小ささが際立つ。弓野さんには失礼だけれども、同級生というよりは、小学生と一緒に歩いているように感じる。
弓野さんは口数が少なく、あまり言葉を発さない。かく言う私も多いほうではないので、自然、二人の間には沈黙が流れる。靴裏が地面を叩く音だけがある。
この静かさを心地よく思えれば、それかせめて、特に気にならなければ良いと思うけれども、残念ながら私はそう思えないでいる。会話が無いと単純に気まずく感じてしまう。幸子とならそんな気まずさはないのに。
こればかりは、一緒に過ごした時間の長さがなければどうしようもない。
何か喋ったほうがいいのかな、でも話題がないな。弓野さんは気にしてなさそうだな、でも無表情なだけで内心気まずく思ってるかも。じゃあやっぱり何か話したほうがいいかな、でも話題がないな。
堂々巡りだった。答えなんて出るはずもなかった。
そうこうしているうちに、私の家に差し掛かった。弓野さんの家はここからしばらく歩いたところにあるらしい。
玄関のドアノブに手をかける。振り向くと、弓野さんがまた小さく手を振っているのが見えた。手を振り返して「ばいばい」と言うと、やっぱり彼女は口をわずかに開けて何かを言った。ただでさえ小さい彼女の声は、この距離では到底耳に届かない。
ドアを開けて家の中に入り、閉める。はあ、と、無意識にため息が出る。
明日までが長い。そう思うと、またため息が出た。
そもそも、私はどうしてそんなに弓野さんの友達という立場にこだわるのだろうか。
就寝前のベッドの上で、私はそんなことを今更のように考えた。
暗闇の中に彼女の姿を描き出す。想像の弓野さんは現実の弓野さんよりも魅力に欠けているような気がした。
想像の弓野さんはひとりでに動き出して、勉強会初日の時の彼女のように私の隣にやってきて、言った。
今まで友達がいたことなんて、たったの一秒もなかった。
その彼女の言葉に、そうか、と腑に落ちる。夢現とした頭が正解を弾き出す。
私は、弓野さんにとっての特別な存在になりたいんだ。初めての友達になって、そうなりたいんだ。
単純明快な願望、底の浅い願い。それでいて愛おしい感情。
たったそれだけのことに、私はじりじりと身を焦がしているのか。
ふふ、と鼻で笑って、私の意識は夢の世界へと移った。
二日後の放課後も、幸子は懲りずに私と一緒に帰路につこうとした。何を言っても無駄だと考えたのか、無言のまま、ぐいぐいと私の体を押して教室から出そうとしてきた。足を踏ん張って、負けじと押し返す。
十分間もの死闘の末、次の土曜日は遊ぶから、という約束を交わして、なんとか幸子を家に帰すことに成功した。
無駄に疲労した。
肩で息をしながら、またいつものように弓野さんのところまで歩き、彼女の正面に座る。
「お待たせ」と私が言うと、弓野さんはかすかに首を横に振ってから「始めようか」と言った。
私は理科の教科書を机の上に広げて、弓野さんは本を開く。今日の本のタイトルには『罪と罰』とあった。またもや難しそうな本だった。
深呼吸をしてから、今日の勉強へと取り掛かる。
一時間ほど通しで勉強をすると、息継ぎもせず泳いでいるときのように、もうこれ以上は息が続かない、とたまらず水面から顔を出すように、私の体力が一旦尽きる。
「じゃあ、十分休憩しよう」という弓野さんの言葉を皮切りに、私はシャーペンを手放す。背もたれに体を預けて、天井を見上げる。
勉強会を通して、運動をするための体力と勉強をするための体力は似ているようで違うことを知った。運動は得意なほうだけれども、勉強はまだまだ続かない。
「大丈夫」と弓野さんが言う。私が手を振って「大丈夫、ちょっと疲れたけど」と答えると、彼女は首を横に振って「そっちじゃなくて」と否定した。
「毎日、放課後わたしと残って、大丈夫」
彼女のその言葉に、むっとする。
「大丈夫も何も、私が頼んで弓野さんと一緒にいるんじゃん。大丈夫に決まってるよ」
憤りを含ませて言うと、またもや弓野さんは首を横に振った。
「でも、あの人は」
「あの人?」
「あの、さっき倉橋さんと相撲をしてた人」
「す、相撲? ・・・・・・ああ、幸子のこと?」
「そう、幸子さん」
あの十分にわたる押し合いを、弓野さんは相撲と見たのか。
独特の感性をしている。
そんな感想を抱いたところで、はて、と疑問符が浮かぶ。
なぜ幸子の名前があがったのか、と不思議に思う。
「幸子さん、毎日、倉橋さんと帰りたがってたから、大丈夫かなって」
「ああ、そのことね」
なるほど、と納得する。
来る日も来る日も、飽きもせず私を連れ帰ろうとする幸子を見て、弓野さんは心配していたようだ。気を使ってくれていたようだ。
「大丈夫大丈夫、幸子は放っておいても大丈夫だから。そんなんで傷つくほど乙女じゃないから、幸子は」
ははは、と笑い飛ばしてみるけれども、弓野さんは「でも」と口を開いた。
「でも、友達を優先したほうがいいと思う」
「えっ」
友達、という弓野さんの言葉に心が過剰に反応する。少しして、その友達が幸子のことであることを理解する。残念な思いがした。
なんと返答しようか、と考えて、そうだ、と思い至る。
「優先って、言うけど、さあ」
緊張を覚えながら、言葉を喉のあたりでつっかえさせながら、私は言う。
「ゆ、弓野さんも友達だからさ、優先したってよくない?」
私は言い切る、一世一代の言葉を。友達であることを確認するためのセリフを。
背中を汗が伝う。夏場の洗濯物のように、喉から急速に水分が抜けていく。
緊張のせいで、体のどこかがおかしくなりそうになる。
対する弓野さんは、ゆっくりと口を開いた。
「友達」
静かにそうっと、彼女はそれだけを呟いた。
いつもと同じ、寸分違わない、平坦な声。
それでも、私には分かってしまった。たったの九日間の付き合いだけれども、それでも、私にはその抑揚のない声に含まれた決定的な、残酷なニュアンスを感じ取ってしまった。
その言葉尻にはクエスチョンマークが付いていた。無表情を貫く弓野さんの頭上には、目に見えない疑問符が浮かんでいた。私の発言に、彼女はぴんときていないらしかった。
それはつまり、弓野さんは私のことを友達として認識していないことを意味する。
心が冷たく凍った。幽霊の手が心臓に触れたように、体の芯から凍える思いがした。
気にする必要はない、と自分に言い聞かせる。今はまだ友達と認識してもらっていなくても、今の勉強会を続ければ、そのうち、きっと、友達と認めてもらえるはず。だから、気にする必要は全くない。
いつ? と自問する。その友達と認められる日は、いつになる?
わからない、と自答する。そんなこと、わかるわけがない。
その間に、他の誰かが弓野さんの友達になってしまうかもしれない、と思う。彼女の初めての友達が、特別な存在という立ち位置が、他の誰かに取られてしまうかもしれない。
そんなのは、絶対に嫌だ。そうなるくらいなら、弓野さんに友達なんて───
そう考えたところで、愕然とする。
今、私は何を考えた?
弓野さんに友達なんて、の後に、私は何を考えた?
視界が立ち眩みの時のように揺れる。
何もかもが嫌になる。教室内の静けさも、窓から差し込んでくる西日も、遠くから聞こえてくる吹奏楽部の演奏も運動部の掛け声も。
「・・・・・・あ、十分、経ったね」
ありとあらゆる感情を押し殺して、私は辛うじてそれだけを言って、項垂れるように教科書と向かい合う。
弓野さんは何も言わない。私は一心不乱に教科書を眺めているから、彼女がどんな様子なのかはわからない。たぶん、またあの無表情を浮かべている。それでも、彼女を見るのが怖かった。必要以上に、彼女の見た目が表している以上の、何か余計なものを読み取ってしまいそうな気がして、恐ろしかった。
無言の時間が続く。やがて弓野さんが本を開く気配がした。
最終下校時刻まで、私たちはそうしていた。
家路は悲痛な沈黙に包まれていた。
私も弓野さんも一切発言をせず、黙々と歩いた。今までの帰り道だって静かなものだったけれども、それとは明らかに別種の、凍り付くような静けさだった。
鉛のように重い足を引きずるようにして進み、やっとのことで家にたどり着く。
玄関のドアノブに手をかける。
弓野さんのほうを振り向くことなく、私はドアを開いて中に入り、閉めた。
はあ、とため息が出た。どういう種類のため息なのかは、言うまでもなかった。




