また明日(上)
テスト返却は憂鬱だ、テストの点数に自信が無いから。
テスト当日、空白の欄の方が遥かに多い回答用紙を自ら作り上げ、そしてそれを提出しているのだから、もしかしたら、なんていう希望を持つことすらできない。ドラマのネタバレをくらっているようなものだ。
「次ぃ、倉橋」
数学の先生の気の抜けた声が私の名を呼んだ。「はい」と「へい」の中間くらいの、自分でも判然としない返事をしながら席を立ち、教卓の前へと向かう。教卓の前に立つと、先生は眉間に少し皺を寄せた。
「倉橋な、ちゃんと勉強してないだろ。先生にはわかるぞ。この回答用紙は『勉強したけど解けない』やつのものじゃなくて『勉強してないから解けない』やつのものだ」
自分の点数に一喜一憂するクラスメートの騒ぎにかき消されそうな声で、先生は早口にそんなことを言う。まさにその通りのことを言われた私は、ただ「はあ」と返した。
「数学はな、高校受験では必要な科目なんだよ。だからこそ、二年の今のうちにやっとけ。三年になって本格的に数学をやり始めるとものすごいぞ」
首でも絞められているかのように苦し気な表情を浮かべて先生はそう語った後、私に回答用紙を手渡した。予想通り真っ赤な解答欄。予定調和の点数。恐るべき低空飛行。
高校受験、という言葉が脳裏をよぎる。
二年生になった今、高校受験はまだまだ先の事のようにも思えるし、それでいて近くにあるようにも思える。どちらにしても、安心することはできない。今こんな悲惨な点数を取っている人間が、一年後見違えるような高得点を取っている姿を想像するよりも、全く変化のない点数を取っている姿を想像する方がはるかに容易い。
勉強しなきゃ、とは思いはするものの、中々やる気が起きない。塾に行く気も起きない。
先生に頭を下げて、自分の席へと引き返す。
でも、一教科くらい、すごい点数取ってみたいな。百点とか。カッコいいし。
そんなことを考えながら机と机の間を歩いていると、不意に視界を何かがひらりと横切った。それは一枚の紙だった。不規則かつ不安定な軌道で、風に吹かれるたびに落ちていく桜の花びらのように、それはゆっくりと高度を下げていって、やがて私の足元に落ちてきた。
大きくもなく、小さすぎもしない中途半端なサイズのプリント。ああ、と私はそれの正体に思い当たる。
今回の数学のテスト返却で、全教科のテストが生徒の手に帰ってきたことになる。生徒たちはそれぞれのテストの点数と、その結果に対する感想を記した紙を担任の先生に提出しなければならない。今私の足元に降りてきた紙は、恐らくそれだろう。
風か何かで吹き飛んでしまったのかもしれない。
身を屈めて、それを手に取る。
これは自分への言い訳だけれども、その時私はそこに記された点数を見るつもりなんてさらさらなかった。だから、本当にうっかりだった。意図せず、私はそこに書かれている点数を目にしてしまった。
プリントには五つの百が並んでいた。五教科それぞれが、数学も国語も英語も理科も社会のそれぞれが百点満点だった。
百点満点中百点。五百点満点中五百点。
それは私にとって現実味のないもので、テストの結果を見ているというよりは、幸せな夢の世界を目の当たりにしているように感じた。こんな点数を取ることができたなら、どれだけ幸せか。きっとお小遣いだって上げてもらえる。
「飛んでっちゃった」
そんな声が聞こえてきた。そちらの方を振り向くと、一人の女子が立っていた。
小さな女子だった。身長もさることながら、腕や脚が細く顔も小さいので、余計にそう見えた。
クラスメートであることは確かなのに、私はその女子の名前を思い出すことができないでいた。二年生になってから半年近くになるけれども、私はその女子と話したことがなかったからだ。
「ごめん」抑揚のない声で言いながら、彼女は私の手にあるプリントを指さした。「それ、私の」
「え」
思わず声が出る。
この点数が他の誰かが取ったものであるということを、全教科満点という衝撃によってすっかり失念していた。
全教科満点という偉業を成し遂げた人物が目の前にいる。解答欄を全て埋めることすら困難な私にとって神のような存在だ。
彼女が手を伸ばしてきた。ほっそりとした手は白い。
プリントをその手に乗せる寸前、私は密やかにそこに書かれていた名前を見た。
弓野泉と書かれていた。
ああ、そんな名前の人もいたかもしれない、程度の記憶があった。やっぱり、会話をした覚えはない。
でも、それでも。
「あの、弓野さんさ」プリントを手渡しつつ、私は彼女の名前を呼ぶ。
はい、と弓野さんは平坦な声音で返事をした。
「勉強教えてくんない?」
「いいよ」
やっぱり、彼女は抑揚なく答えた。
いいのか、と、彼女の即答ぶりに、私は驚いた。
「一緒に帰れない? なんで?」
眉をひそめて、幸子が言った。ホームルームが終わってすぐの、教室内がみんなの声で騒々しくなっている中でのことだった。
疑問を口にするとき、幸子は少し威圧的な口調になる。それが少し怖い。本人にそんな気はさらさら無いなんてことは、その声音をもって人を威圧しようという気が無いなんてことは、長い付き合いでわかっていることだけれども、それでも怖い。
いやまあ、と私は訳を説明する。
「ちょっと、勉強教えてもらうことになったから」
「勉強? 誰に?」
「弓野さん」
「弓野さん?」
誰だよ、と彼女の表情が言っている。ほら、あそこの、と私は教室の最前列左端の、弓野さんの席を顎をしゃくって示す。そちらのほうを振り向いた幸子は一瞬だけ動きを止めてから、ああ、と頷いた。私と同じ、そんな人もいたっけか、といった反応だった。
「静乃って、弓野さんと仲よかったっけ」
「いや、今まで喋ったことないけど」
「えー・・・・・・」
もの言いたげな視線を投げかけてくる。
そんな目で見られても、特に言うことがない。だから私も、ただ黙って幸子の目を見つめた。
「今日だけ?」
ちょっとの間をあけてから、幸子が言った。「わかんない」と私は素直に答えた。
「えー、じゃあこれからずっと?」
「それもわかんない」
「カラオケとかは? 遊びに行けなくなるの?」
「それもわかんないけど、たぶん行けると思う」
はっきりしないな、と答えながら思う。幸子も同じことを思っていたらしく、「なんだよぉそれ」と不満を滲ませた声を出した。
「ていうかさ、なんで弓野さん? 喋ったことない人に勉強教えてもらうって、おかしくない?」あからさまに不機嫌な調子で、幸子は問い詰める。「どういう意図よ?」
「ううん、それもわかんないや」
「なんだよぉそれ」
唇を尖らせた幸子が、肩を人差し指でちょいちょいと突いてくる。
わかんないとは言ったものの、実のところ、私は自らの意図を理解している。弓野さんに頼んだ意味を把握している。ただ、正直にそれを幸子に言ったって、恐らく彼女は納得してくれない。だから、私ははぐらかした。
五百点満点の、弓野さんがカッコよく見えたから。
そんなこと答えたって、きっと理解してもらえない。
いつまでも単独下校を渋り続ける幸子の背中を押して何とか帰路につかせたところで、教室内には私と弓野さん二人だけになった。彼女は自分の席にその小さな体を収めている。
弓野さんの前の席の机を彼女の机に引っ付けて、そこに座る。
弓野さんと向かい合う形になる。彼女の顔を初めてまじまじと見る。小さく幼い顔立ちと、それとは対照的に理知的で静謐とした目。それらの高低差が生み出す落差は印象深い。
幸子とは大違いだな、と思う。彼女は年齢のわりには大人びた顔つきをしているし、その目は刃物のように鋭い。
「あの、ありがとう。勉強、オッケーしてくれて」私は頭を下げながら言う。「まさか、その日のうちにするとは思わなかったけど」
「それなら大丈夫」弓野さんは静かに答える。「毎日暇だから。私、友達いないから」
「あ、そうなんだ」
私のその言葉を最後に、沈黙が訪れる。
どういう反応をすればよかったんだろう、と思う。まさかのカミングアウトに、素っ気ない返事をするのが精いっぱいだった。
弓野さんなりの自虐ネタだろうか、それにしては声音が平坦だった。まるで世間話をする時のように平然と、それが取るに足らない事柄であるかのように、彼女は口にしていた。
恐る恐る、彼女の顔を見る。人形のような無表情を貼り付けている。その表情のまま、じっと私を見ている。
ここにきて、私は、これまでの人生で関わってきたありとあらゆる人たちと、弓野さんの間にはいかなる共通点も無いことに気づいた。彼女は一線を画している。明るい人や暗い人、という風に分類することができない。
一対一は厳しいかも、と今更のように思う。幸子を帰らせるべきではなかったかもしれない、と後悔する。
仲良くなれるかしら、こんなすごい人と。
「じゃあ、始めようか」不意に、弓野さんが言った。静かな教室では、小さく抑揚のない彼女の声ですら隅々に響き渡るようだった。「もしよかったら、テストの点数を見せてほしいんだけど」
ちくりと、痛いところを細い針で突かれたような気持ちになる。
ほとんど初対面といっても過言ではない弓野さんに、あの地面すれすれの得点を見せるのは、怒られることが確定しているにもかかわらずお母さんに見せる時に味わう緊張感とはまた別のものがあった。
数学の答案用紙を鞄から取り出し、俯きながらそれを手渡す。
笑うか、呆れるか、馬鹿にするか、それともその全てか。
机の木目を意味もなく眺めながら、弓野さんの反応を待つ。
十秒ほどしてから、弓野さんは「はい」と言ってテスト用紙を私に返した。顔を上げてそれを受け取る。彼女の表情は依然として人形のようだった。
「教科書、持ってきてる」
「え?」
彼女の言葉に間抜けな声を上げてから数秒して、それが問いかけであること、つまり「教科書持ってきてる?」と私に尋ねていることに気づいた。あまりにも平坦な声だったために、言葉尻にクエスチョンマークが付いていないように聞こえた。突然、教科書を持ってきていることを宣言されたのかと思った。
「持ってきてるよ」と答えて、鞄から教科書と、ついでにノートと筆箱も取り出す。自主的に使用されたことのない教科書は新品も同然の状態である。
「たぶん、最初のほうで躓いているんだと思う。だから、教科書の最初の問題を解いてみて。そこで解けなかったところが躓きの原因」
「はあ、なるほど」
最初から、という彼女の言葉に、我ながら苦みのある声を出してしまう。
言われた通り、目次を飛ばした最初のページを開く。上から下へと流れるように目を通して、ああそういえばこんな内容のことをしたかもしれない、とおぼろげに思い出す。
不意に、弓野さんが席を立った。お手洗いかしら、と思っていると、彼女は椅子を持って私の隣まで来て、そこに椅子を置いて座った。意外なことに、彼女の足の裏はちゃんと両方とも床についている。
肩が触れ合うほどの近さだった。近くで見る彼女はより一層小さく見えた。良い匂いがしそうだな、と思っていたけれども、普通の洗濯用洗剤の香りが漂ってくるだけだった。
「なにか」横目で私を捉えた弓野さんが言う。「私の顔に付いてる」
「あ、ごめん」私は慌てて目をそらし、教科書へと視線を移す。「何でもないよ」
そう、と彼女は気にした様子もなく相槌でも打つようにしてから「じゃあ、解いてみて」と言った。
ノートを開いて、私は早速問題に取り掛かった。
その時私が抱いていた感情は不思議なものだった。例え問題が全然解けなくても、たったの一問だって解けなくても、弓野さんは少しも表情を変えず、ただ淡々と「じゃあ、改善していこうか」と言ってくれるはずだ、という安心感があった。今日に至るまで彼女を認識していないに等しかったのに、今日が初めての会話で、彼女のことなんて全く知らないのに、誕生日すら知らないというのに、私は彼女に絶大な信頼を置いている。
だから、私はいかなるプレッシャーを感じることもなく、黙々と問題に取り組むことができた。
静かな教室には、私がシャーペンを走らせる音のみがある。それは心地の良い時間だった。
手が止まっては弓野さんに教えてもらい、また手を動かす。それを繰り返し続けていると、いつの間にか一時間も経っていた。窓から見える空は夕日の色に染まりつつある。
一時間も通して勉強をしたことなんて、これまでの人生ではなかった。体力面とはまた別の、頭の奥底に鉛を入れたような疲労感を覚えて、私はシャーペンから手を離した。
「少し休憩にする」そんな私を見た弓野さんが言う。「それとも帰る」
時計を見る。最終下校時間まではあと一時間ある。
「十分だけ休憩させて」
「それがいい」
知らず知らずのうちに緊張させていた体をほぐし、椅子の背もたれに身を預ける。グラウンドに目を向けると、野球部やサッカー部が練習に励んでいる。
部活動に参加していない私にとって、この時間帯の学校は未知の領域だ。なんというか、青春の濃度が高い気がする。
「弓野さんは、どうして私の勉強に付き合ってくれてるの?」ふと疑問に思って、訊いてみる。「私が頼んだ時、即答だったし」
「それは」息を吐くようなささやかさで言ってから、少しの間をあけて彼女は答える。「嬉しかったから」
「嬉しかったから?」意外な返答に驚く。「どういうこと?」
視線をグラウンドから隣の弓野さんに移すと、彼女の目と会った。
ううん、と彼女は何事かを思案してから、「私って、どういう風に見える」と言った。
「どういう風にって、まあ、クールと言いますか」私は言葉を選ぶ。「ぶっちゃけ、感情が読めなくて何とも言えないというか」
言葉を選び損ねたような気がした。
私の言葉に、弓野さんは静かに頷いてから「そうだよね」と呟いた。
「私、今よりも小さいころから、感情を表に出すことが苦手だったの。笑ったり、悲しんだり、怒ったり、そういうのが苦手なの。それで、みんな私を不気味に思って」
彼女はあくまで無感動に、凹凸のない声音で続ける。
「さっき、私は友達がいないって言ったよね。それは別に今だけではなく、昔からずっとそうなの。今まで友達がいたことなんて、たったの一秒もなかった」
だから、と彼女は続ける。
「頼られたのが嬉しかった。私の名前を呼んで、頼ってくれたことが嬉しかった。だから、つい即答しちゃった」
びっくりさせちゃったならごめん、と彼女は付け加えてから、そうっと俯いた。やっぱり無表情だけれども、どことなく悲しそうに見えたし、そうでもないように見える。私にはその二つを区別できない。所詮、弓野さんとは今日が初めての交流なのだから、彼女のことなんて、一つも知らないのだから。
「別に、私は不気味だなんて思わないけどね、弓野さんのこと」
だから、私は言う。何も知らない代わりに、彼女に告げる。
「たぶん他の人も、感情を表に出すのが苦手だよ。私だって怒ったりするの苦手だし。私の友達に幸子って女の子がいるんだけど、その子は逆に怒らないのが苦手だよ」
「そうなんだ」
俯きながらも、弓野さんは相槌を打つ。
「だから、弓野さんは不気味なんかじゃないよ。なんなら全然普通だよ」
弓野さんと関わった時間は、まだ二時間にも満たない。それでも、私は彼女の友達になりたいと、彼女の初めての友達になりたいと考えるようになっていた。そのためにも、私は本音を告げる。弓野さんを不気味に思っていないことを、はっきりと伝える。
弓野さんは何も言わない。動かずに、じっと俯いている。
「あ、十分経ったね」
時計の針を確認してから、私は再びシャーペンを握る。
ありがとう、と消え入るような声が聞こえた気がした。それは弓野さんの声だったのかもしれないし、あるいは私の空耳かもしれないし、そのどちらでもないのかもしれない。
なんでもいい、と思う。実際に彼女がそう言ったのなら嬉しいし、言っていないなら言っていないで、それでもいい。
私は事実を伝えただけ、ただそれだけなのだから。
最終下校時刻を告げるチャイムが校舎内に響き渡る。授業終了のチャイムとは違って聞こえるのは、授業は早く終わってほしいけれども、この時間は終わってほしくないと思えるからだろうか。
グラウンドを見ると、運動部が後片付けに従事していた。夕日がほとんど沈んでいるせいで、彼らの姿が黒いシルエットに見える。
「ありがとね、弓野さん。こんな時間まで付き合ってくれて」私は言う。「頭よくなった気がするよ、おかげさまで」
それはよかった、と彼女は言って、椅子をもとの場所に戻した。
鞄に勉強道具一式をしまう。チャックを閉じると、寂しい思いがした。
「倉橋さん」
弓野さんに声をかけられる。そういえば名前を呼んでもらったの初めてだな、なんてことを考えながら彼女のほうへ振り向く。
窓から辛うじて差し込む西日を背景に立っている弓野さんは相変わらず無表情だけれども、なんとなく、緊張のようなものが感じ取られる。
唾を飲み込んで、彼女の次の言葉を待つ。
「よしもければ」
「え?」
「もしよければ」
「ああ」
「明日も」
「明日も?」
そこで、弓野さんは口をつぐんだ。
「・・・・・・ああ、明日もって、そういう」
遅れて、弓野さんの言葉の意味を悟る。彼女が小さく頷く。
「じゃあ、明日も」
「うん、明日も」
そして、私たちは二人そろって教室を後にした。
下足室で靴を履き替えて、学校を出る。私は校門を出てすぐ右に曲がった。弓野さんもそうした。
どこで彼女と別れるのだろうと思っていると、ついに私の家についた。
「じゃあ、弓野さん、ばいばい」
私が手を振ると、彼女はその小さな顔の横で手を控えめに振り、金魚のように口を開閉させた。もしかしたら、彼女も、ばいばい、と言ったのかもしれない。
もしそうだとしたら、聞けなくて残念だな。そんなことを考えながら、後ろ髪をひかれる思いで、私は玄関の扉を開いて、家の中に入った。




