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彼女たち  作者: 城ヶ崎
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神木古本屋


 扇風機が送り込んでくる風に吹かれて、手に持った文庫本のページが軽い音を立ててめくられそうになる。そうはさせまいと、指で下の方を抑え込めば上が、上の方を抑え込めば下が、真ん中を抑え込めばその両方がパラパラと音を立てる。

 うざったいな、と思いながらも、仕方がない、と沸き起こる扇風機破壊衝動を宥める。エアコンが無いのだから、これを失ってしまえばうだるような猛暑を乗り越えることができない。

 店内にお客さんの姿はなく、セミの暑苦しい鳴き声と風鈴の涼やかな音色が混ざり合って聞こえてくる。

 不意に、背後から手が伸びてきて、レジカウンターの上にガラスのコップが置かれた。中には麦茶が注がれていて、コップにはきらきらと玉の水滴が付いている。

 

 「少し休憩にしましょうか」


 小説から目を離して振り返ると、そこには神木かみきさんが柔和な笑みを浮かべて立っていた。

 ほっそりとした輪郭、ぷっくりとした涙袋とくまが目立つ、少し疲れを含ませた大きな目、腰あたりまで伸ばされた黒髪には艶がある。Tシャツにスキニーパンツと簡素な出で立ちだった。

 「はい」どこからそんな声を出せたんだ、と自分でも驚いてしまうほどに可愛い声で返事をする。気に入られたくて必死だな、と自嘲する。


 「こっちは暑いねー、やっぱり、エアコンがないとねえ」


 傍らに畳まれていたパイプ椅子を引っ張り出してそこに座り、神木さんは熱い息を吐きながらTシャツのすそをひらひらと仰いだ。見え隠れする真っ白いお腹にドキリとする。


 「あ、あの、こっちどうぞ。扇風機、回しますんで」

 「あ、ありがとう」


 扇風機のうなじ部分にあるボタンを押して、首を左右に振らせる。神木さんがパイプ椅子に座りながら引き摺ってすぐそこまで、ちょっと腕を動かせば肘がぶつかってしまいそうなところにまで近づいてきた。自然と縮こまってしまう。

 扇風機の風が神木さんの髪を持ち上げる。ほっそりとしたうなじが見える。神木さんのうなじはレアだ。普段は長い髪がカーテンのようにして隠してしまっているから。だから目に焼き付ける。

 神木さんは麦茶を一口飲んでからふうっと一息ついて、目を閉じた。喉を下っていく麦茶の冷たさに集中しているのか、あるいは物思いにふけっているのか。

 そんな彼女の横顔に見とれながら、この古本屋に初めて訪れた時のことを思い出していた。

 






 中学を卒業するとともに、私たち八雲やくも家は他県へと引っ越した。父の仕事の都合だった。友達と離れ離れになるのは寂しかったけれども、連絡手段が豊富な現代、案外辛いものではなかった。

 新しい土地での高校生活が始まった。中学三年間を水泳に打ち込んできたので、高校でも引き続き水泳をしようと思っていると、高校にプール施設が無いことが発覚した。

 水泳という情熱の支柱を失って、私は暇に喘いでいた。水泳を除けば、自分には特に何もないという事実を痛感した。

 部活動に所属せず、友達はそこそこ、勉強もそこそこと中途半端な状態のまま、ゴールデンウィークに突入した。

 やることもなく、私はあてどなく街を散策していた。雲が太陽を隠して、どんよりとした天気だった。

 途中、こじんまりとした古本屋さんに差し掛かった。軒先に二つの自販機が立っている。

 私はふらふらと入口扉に手をかけて中に入った。読書というものは私の人生においてかなり縁遠いものだった。だからこそ、この機会に足を踏み入れてみようという気が急に湧いた。

 店内にお客さんの姿はなく、しんと静まり返っていた。何となく足音を立てたくなくて、そろりそろりと本棚の間に入っていった。

 本棚に並ぶ小説の背表紙には小難しそうなタイトルが載せられている。本に囲まれる経験を今までにあまりしてこなかった私は、未開のジャングルの奥底に踏み込んでしまったように錯覚して、くらくらときた。

 本の無い場所は、とレジカウンターへ目を向けた。カウンターの向こうに一人の女性が座っていた。

 その女性はカウンターに左肘を乗せて、横を向いて本を読んでいる。物語の世界にのめりこんでいるらしく、私の来店にすら気づいていないようだった。

 目元にはぷっくりとした涙袋とくっきりと大きな隈。額から首元に流れる輪郭の線は細い。本の行を追う目は冷ややかで棘があり、理知的な印象がある。見た目からして、どう高く見積もっても、二十歳半ばほどだった。「大人の女性」を体現したような人だった。

 視界が急に狭まって、その女性以外のすべてにもやがかかったような気がした。呼吸も忘れて、ただただ見惚れていた。

 稲妻めいて唐突に、それは現れた。一目惚れだった。それは恋だった。性別のことなんてどうでもよくなるくらいに強烈だった。

 暇だとか水泳部だとか言っている場合じゃなかった。

 私は決断的に踏み出し、彼女のもとへと向かう。店内に私の足音が響く。

 二、三歩のところでその女性が私に気づいたようで、本から視線を切りこちらへ向けて、「いらっしゃいませ」と柔らかな調子で言った。

 レジカウンターのすぐ前に立つ。パイプ椅子に腰を下ろしている女性は自然私を見上げる形になる。その様にどこか幼さを覚えるのは、彼女の目の大きさと髪で耳が隠れているからだろう。

 鼓動が激しく胸を打つ。口を開けば言葉の代わりにそれが出てきてしまうような気がした。


 「あの、バイト募集、ありますか」

 

 私がそう言うと、彼女は困ったように微笑んだ。


 「ええと、大丈夫ですか、ね」


 白くか細い人差し指をぴんと立たせてから、「時給は最低賃金になっちゃいますけど」と付け加えた。

 「構いません」私は一も二もなく飛びついた。


 「八雲泉やくもいずみです。どうぞよろしくお願いします」


 このチャンスを逃すわけにはいかない。私はもう雇われた気になって、早口に名乗る。


 「神木叶かみきかなえです。こちらこそ、よろしくお願いします。八雲さん」


 神木さんが微細に頭を下げた。おしとやかな所作だった。

 初対面であるにもかかわらず、神木さんに「八雲さん」と呼ばれたのが嬉しかった。八雲という名字でよかったと心の底から思った。きっと先祖の八雲さんたちも喜んでいることだろう。

 かくして、神木さん一点集中のアルバイトが始まった。






 神木さんのお店で働くようになって二か月と半月が経った。

 週に三回、月曜と水曜と土曜日に勤務するようにしていた。火曜日は定休日だった。

 本当は木曜日も金曜日も日曜日も入れた週に六回勤務にしたいけれども、それはあまりにも露骨すぎる気がして、控えておいた。

 業務内容は恐ろしいまでに単純で楽で、レジカウンターに座り、会計を済ませるのみ。仮に本を売りにお客さんが来た場合、お店の奥にいる神木さんに声をかけて変わってもらう。本の買い取り価格は神木さんの独断で決定する。

 お客さんが来ていない間は何をしていても構わない、と神木さんは言った。そんなばかな、と思いながらも試しに学校の宿題をしていると、神木さんは特にそれを咎めはせず、「偉いねー」と褒めた。神木さんに褒められると、まだ幼稚園児のころに父や母に褒められた時の、あの胸がぽかぽかする感覚を思い出す。

 神木さんは時折「休憩にしましょうか」と言って、飲み物を携えて奥から出てきて私の隣に座ったりする。ぽつぽつと会話があるものの、神木さんは基本的に静かにジュースやらコーヒーやらお茶を飲み、持ってきた本を開いて読書に耽る。

 神木さんは読書の際、普段は優しく穏やかな目を冷たく険しいものにさせる。そのギャップにしばしば心をドキドキさせられる。

 ある日、目つきのことについて神木さんに言ってみると、神木さんは「嘘だあ」と言ってふふふと笑った。本当なんです、と主張してみても彼女は笑いを積み重ねるのみだった。


 「もう、八雲さん、からかったらひどいですよ」

 「じゃ、じゃあ、携帯電話で撮ってみましょうか?」


 いいですよ、と神木さんは余裕の態度をとった。

 震える手を抑えながら、読書中の神木さんを写真に収める。パイプ椅子に姿勢よく座り、氷の刃のように冷たく鋭い視線を落とす神木さんは恐ろしく絵になっていた。

 どさくさに紛れて、私は彼女の写真を手に入れることに成功した。

 その写真を神木さんに見せると、最初目を大きく見開いてから、かあっと顔を赤くさせた。

 「ええ、これ、私ですか?」と言った後に、「えー、えー」としきりに呟いた。


 「なんでこうなるんだろう、恥ずかしいなあ」

 「いいじゃないですか。か、格好いいですよ」

 「・・・・・・あまり、嬉しくないです」


 それ以降、神木さんは私の前では顔を隠すようにして本を読むようになった。





 神木さんにもっと褒められたい、もっとお近づきになりたい、気に入られたい。そう思った私は、ある日読書に勤しんでみることにした。

 難しい小説を読めば格好いいだろう、という浅はかな理由で、私はドストエフスキーの「白痴」を手にした。最初の数ページで目が回った。慣れない活字に圧倒された。文字酔いが起きた。


 「八雲さん、大丈夫ですか?」


 レジカウンターの上に突っ伏する私に、神木さんがそう声をかけた。状態を起こして神木さんの心配に染まった顔を網膜に焼き付けてから、「実は・・・・・・」と切り出した。


 「読書を始めようとしたんですけど、どうにも難しくて」


 手に持っていた「白痴」を掲げる。すると神木さんは「あら」と驚いた声をあげて、「それはちょっと、やめておいた方がいいかもしれませんね」と遠慮がちに言った。


 「八雲さんは、あまり読書をされたことがないんですか?」

 「はい、恥ずかしながら、本は小さいころに絵本とかを読んだくらいしか」

 「恥ずかしいことなんてありませんよ」


 神木さんはおもむろに児童書コーナーへと歩いて行き、本棚から一冊の本を取り出すと、帰ってきた。取り出した本はごつごつとしていた。

 

 「これなんかは、読みやすくて楽しいですよ」


 差し出された本を受け取る。いわゆるハードカバーというもので、ずっしりと辞書のような重さがあった。タイトルを見ると、「ダレン・シャン」とあった。海外の作品らしかった。

 横から見てみる。随分と分厚い。

 私の不安を察したのか、神木さんが「大丈夫ですよ」と言った。


 「それは児童書で、小さな子どもでも読みやすいんですよ。ストーリーも面白いですよ」


 神木さんのアドバイスは私にしてみれば神の啓示のようなもので、つまり従わない以外の選択肢がない。私はお礼を言って、カバンから財布を取り出そうとすると、「いいですよ。差し上げます」と神木さんに遮られた。

 

 「いや、でも」

 「ふふふ、いいんです。読書の楽しさを知ろうとしてくれた八雲さんへ、お礼です」


 なおも払おうと財布を持った手を、神木さんの両手が包み込んだ。柔らかくて温かい。

 ぐん、と心の温度が急上昇する。なんと比熱の小さい心だろう。

 「はい・・・・・・ありがとうございます」私が言うと、神木さんの手が離れていった。手に残った彼女の温もりが名残惜しさを強調する。

 うおー、やべー、神木さんに手握られちゃった。

 アイドルの握手会に行く人の気持ちがわかったような気がした。

 椅子に座って、早速ダレンシャンを開く。思いのほか文字が大きく、案外総文字数は多くないらしかった。これを読み終われば神木さんと感想交換をすることができるのか、と思うと、俄然やる気が出た。


 「八雲さんは、どうしてここで働こうと思ったんですか?」


 ふと思い出したように、神木さんが訊いてくる。

 あなたに一目惚れしたからです、あなたの近くにいたいと思ったからです、あなたとお話してみたいと思ったからです。

 とは、当然言えるわけがない。本音では言ってみたい気もするけれども、そうはいかない。あまりにもリスクが大きすぎる。

 何か当たり障りのない回答を、と脳内にある引き出しを片っ端からひっくり返していく。ぽろりと現れた一つの回答を、私はろくに確認することもなく口に出した。


 「神木さんがいたからです」


 あれ、と首をかしげる。

 何か、間違えたことを言ってしまった気がする。本音を隠そうと布で覆ったつもりが、少しはみだしてしまったような、そんな気がする。

 神木さんの反応がなく、静寂に満ちた。不安を覚える静けさだった。本から神木さんへと目を移した。

 その時の神木さんの表情を、私は一生忘れないように思う。

 ほんのりと頬を赤らめて、目を伏せて、はにかんでいた。


 「それは、ちょっと、照れちゃいますねえ」


 あ、あ、あ、と心が危険信号を放つ。これ以上はまずい、これ以上は、ちょっと、受け止めきれない。

 私は慌ててダレンシャンに視線を戻した。今やダレンシャンは避難地へとなっていた。

 少しの間をあけて、神木さんが私の隣に座った。麦茶を一口含んで、所在なく店内を見回している。その様子を、私の目は油断なく捉えている。

 まるで神木さんが暖房器具にでもなったかのように、そちらの方から体が熱くなっていく。扇風機の貧弱な風なんかでは、到底間に合わない。

 落ち着け、落ち着けとダレンシャンの文字を追う。けれども意味が頭に入ってくることはなく、ただただ目が滑っていく。

 読み終わるのは、まだまだ当分先のことになるだろうな、と私は思った。

 



 

 

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